第9話 セクハラ・キス事件:立ち治るための協力を頼まれた!

今日は、午後からお台場の国際会議場へ食品関係の展示会へ出かけた。会社には直帰することにしてあったので、ひととおり見た後、歩き回るのにも疲れたので、早めに切り上げて帰宅した。


駅前のスーパーで頼まれた買い物をして、4時過ぎには家に着いた。久恵ちゃんは遅番で帰りは10時過ぎと聞いていたので、部屋の片付け、洗濯物の取り込みなどを済ませた。


カチッと鍵を開ける音。あれ、久恵ちゃんが入ってくる。遅番のはずがどうしたんだろう。元気がないみたい。その後から、30代の女性が入ってきた。久恵ちゃんは黙って、女性は「おじゃまします」とだけ言って二人は部屋に入った。


20~30分たって、女性の声が聞こえる。


「私にまかせて、無理しないでしばらく休んで」


玄関に見送りにいくと「彼女が自分から話をするというので、よく聞いてあげてください」とだけいって帰って行った。


リビングのソファーに座っていると、久恵ちゃんが泣きそうな顔をしてやってきた。そして横に座って、話し始めた。


よく面倒を見てくれていたチーフに仕事中に突然キスされたという。チーフは40前後の独身で、フランス料理はかなりの腕前で、新入社員の久恵ちゃんを指導してくれていた。彼を先輩として尊敬していたという。


思いもしない突然のことなので、驚いてトイレに駆け込んだ。このまま黙っていると、どんどんエスカレートしそうで心配だった。でも口に出したら、ここにいられなくなるかもしれないと、随分悩んだという。


そこで、気が合って親しくなっていた先輩の事務の山田さんに相談しにいった。山田さんは、「それはセクハラ、ちゃんとしなきゃダメ」といって、すぐに副支配人のところへ報告にいってくれた。


副支配人に呼ばれたので、山田さんの立会いの下で、話をした。副支配人から、事実確認をするので、今日は帰るように言われた。


あれこれ考えてしょんぼりしていると、山田さんが心配して家までついてきてくれた。休暇が残っているので、とりあえず、休暇届をだすのを山田さんに頼んだ。


しばらく、どうするか考えるが、今の職場は、今月一杯でやめようと思っているという。


「パパも賛成だ。いったん壊れた人間関係の修復は困難、いやできない。どうしても、しこりが残る。だから、どんな時でも、最後まで絶対言ってはいけない一言や、絶対してはいけないことがある。それを通り越したらもう引き返せない。仲直りして、忘れたようであっても、何かの拍子に思い出す。覆水盆に戻らずとはうまく言い当てている。パパも何回もそれで痛い目にあっている」


久恵ちゃんは黙って聞いていた。しばらく何か考え込んでいるようだった。


「パパお願いがあるの。どうしても聞いて。でないと立ち直れそうにない」


「何? 何でも聞くけど」


「キスして!」


「ええ! 今それで大変なことになり、悩んでいたんじゃないか」


「お願い、どうしてもお願い!」


「うーん、分かった。目をつむって」


唇に軽く触れる。久恵ちゃんがパッと目を開いた。


「そんなんじゃなくてもっと強く」


唇を押し付けてくるので慌てて離れる。


「もう一回、強く、お願い!」


それならと両手を頬にやさしく触れて、丁寧にゆっくりと唇の感触を楽しみながら長めのキスをした。久恵ちゃんは少し驚いたようだった。


「もう1回お願い!」


今度は両手で身体をやさしく抱いて、思いを込めて貪るように長めのキスをした。ちょっとやりすぎたかなと思いながら、ゆっくりと身体を離すと、久恵ちゃんはうつむいて言った。


「これで3回してもらった。チーフより2回多い」


「回数の問題か?」


「回数は大事。だってパパの方が、私の唇の感触をより多く知っているでしょ!」


「これで、立ち直れるのならいいけど」


「もう大丈夫です。ありがとうございました。ご心配かけました」


少し元気を取り戻したようで、さっさと部屋に戻って行った。


今回のセクハラ事件、久恵ちゃんに心の傷が残らないといいけどと思う。でも得したなあ、あの唇の感触が忘れられない。複雑な心境だ。


◆ ◆ ◆

後日、お話があるからきてほしいとホテルから連絡があった。約束の時間に訪ねると支配人以下、総務部長など幹部数人が部屋に集まっており、今回のセクハラ事件の謝罪があった。現在、処分を検討中で、後日結果を知らせるとのことだった。


そして、彼女に一切の落ち度がなかったことを確認して謝罪を受け入れた。また、今月末で退職することを伝え、今後の再就職活動中に中傷や妨害があったら、断固とした処置をとることを明言して帰ってきた。やれやれ、父親代わりも、結構、骨が折れる。


◆ ◆ ◆

それから、1か月ほど久恵ちゃんは就職活動をしていた。幸い調理師免許を持っていると、給料は底々ではあるが、就職口はいくらもある。久恵ちゃんは、今度は社員食堂の運営会社に就職を決めた。


その理由を聞いた。昼食を作るがメインで、朝は定時に出勤すればよく、4時過ぎには帰れる。夜遅くなるのは、食堂でパーティーがある時だけで回数は少ない。年末年始、土日祝日は休みで、生活パターンが二人同じになること。あと、フランス料理の料理人になるセンスがないと自覚したという。


そういえば就職活動中に久恵ちゃんから相談を受けた。自由が丘のレストランを1週間位、見習いで手伝っていたが、良い待遇が受けられないことが分かって、辞めた後のことだった。シェフにセンスを見抜かれたからかもしれない。自分がフランス料理のコックに向いているか分からないと言っていた。


「久恵ちゃんの料理はおいしいし、味付けもなかなか良い。パパは大好きだ。ただ、料理人としてみた場合、上手なだけで、キラッと光るものは感じられない」


「キラッと光るものって?」


「センスと言ってもよいのかもしれない。これは生まれながらにして備わっているもので、必ずしも努力で補えるものではないと思う。直感的にできてしまう。パパも仕事や研究でそういう人、何人かに会っている。この人にはかなわないなと思う人に」


「確かに、調理師学校でも同期にそういう人はいたわ。ほんの一人か二人。私とは全然違う。格が違うというか」


「それが分かるということは、久恵ちゃんもある程度は、センスが良いかも」


「分かった、ありがとう。参考になったわ」


「それから、人には何か、ほかの人よりすごく優れている点が必ずある。それが何か分からないだけだ。また、何でも上手くできる人はいない。天は二物を与えずだ。お勉強が凄くできても、運動はからっきしダメとか。神様は人間を平等に作られている。久恵ちゃんもそれを探したら良い」


再就職後、生活パターンが同じになったことにより、会話の時間が増えて、生活にも落ち着きがでてきた。休日は朝寝したり、二人でショッピングや食事に出かけたりと、まるで、共働きの夫婦のような生活で毎日が楽しい。


35歳を過ぎたころから、今が一番良い時と思えるようになった。若いころは、将来に希望を持って仕事もできた。ただ、この年齢になると上も見えてくる。若いころ脇目もふらずに研究していた時のことが懐かしくなる。


でも、あのころは日々悶々とした生活を送っていた。そう思うと、それからは部署やポジションが変わっても、今が一番良い時と思えるようになった。


すると肩の力が抜けて、今の時間を大切にしよう、楽しもうと、かえって生活に張りが出てきた。まして、久恵ちゃんとの二人きりの楽しい生活は今までの人生の中で一番よい時に違いにない。


ただ、二人の関係は付かず離れずのままで、キスもあのセクハラ事件の時にしただけだった。でも、あのキスの後、久恵ちゃんの僕を見る目が少し変わったような気がする。


一度だけ、久恵ちゃんは、「なぜ、パパは結婚しなかったの?」と聞いてきた。「自分にとって大切に思える人がいなかったから」と答えたが、心の中では「自分にとって大切なはずの人を大切に思わなかったから、できなかった」と言い換えた。


「一人で寂しくなかったの」とも聞いた。「人は生まれた時も死ぬ時も一人だ。その寂しさが分かったので、人を大切にできるようになった」と答えた。久恵ちゃんは「私も一人になったので、分かる」と言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る