第4話 右肩脱臼事件:ころんで怪我をしたら病院に連れて行ってくれた!

7月下旬に部長に呼ばれた。暑い日が連日続いている。


「川田君、今日急だけど、講演会と懇親会に俺の代わりに出くれ」


「いいですよ」


「場所は?」


「霞が関ビルだ」


「講演を聞いて、簡単な報告書を書いてくれ、メモ書き程度でいいから」


「了解です」


午後会場へ向かうことにした。講演要旨をくれるから、メモ作成は簡単だ。居眠りしないで聞いて、懇親会で飲んで食べて帰るだけだ。


夕食はパスすることと、およその帰宅時間を久恵ちゃんにメールした。すぐに返事のメール[絶対に飲み過ぎないで!]こちらも[了解、ありがとう]と返信した。


前回の泥酔事件で懲りているから、懇親会でのお酒はほどほどで終了した。一足早く退席する。帰り際に突然の強烈なゲリラ豪雨だ。傘はいつも携帯しているが、全く役に立たない。


走って地下鉄の入口へ向かう。階段を2、3歩降りたところで、スリップして、右肩を下に転倒した。


右肩に激痛が走る。小さい時から雪道で転ぶのに慣れているので、とっさに避けて幸い頭は打たなかった。


右の手先の位置感覚がおかしい。自分の手じゃないみたいにずれている。激痛、激痛! 右肩が痛い。後から続く人が「大丈夫ですか」と声をかけてくれる。「大丈夫です」と答えるが、大丈夫じゃない。


これは大変なことになった。とにかく家へ帰ろう。タクシーを拾おうとするが、この土砂降りの雨、空車なんか走っていない。でも地下鉄で帰る気力がない。


久恵ちゃんに電話を入れる。階段で転んだから、タクシーで帰るけど、すぐには車が拾えないので帰宅が遅れると伝える。


雨の中、道路を渡って反対側のビルの軒下で空車を待つ。運よく1台、空車が通りかかったので乗車できた。一路自宅へ向かうが、右肩に激痛が続いている。


マンション前の大通りで久恵ちゃんが傘を持って心配そうに待っていてくれた。カバンを持って傘をさしてくれる。助かった。


部屋に布団が敷いてあり、すぐに休めるようになっていた。とりあえず部屋着に着替えて横になるが、右肩の激痛は続いている。


水を持ってきてくれた久恵ちゃんが病院に行かなきゃダメという。この時間だし、病院は明日でいいというが、病院に行けと聞かない。私が連れて行くからと、119番に電話している。


救急車を呼ぶのかと思いきや、近くの病院を紹介してもらっていた。なるほど。見てもらえる病院が見つかったからこれから病院へ行こうと、急き立てる。


そこまでしてくれたら行くしかない。また、大通りへ出る。もう雨は上がっていた。時計を見るとまだ8時だ。確かにこの時間ならまだ見てもらえる。大通りは空車がよく通る。すぐにタクシーに乗って紹介された近くの病院へ向かう。


裏口にある守衛さんがいる受付を通って院内へ入り、処置室へ向かう。整形外科医が待っていてくれた。それがうら若き美人の女医さんでラッキー! すぐにレントゲン撮影した。


右肩脱臼で骨折はないとのこと、脱臼だから元に戻すと女医さんが引っ張る。だけどとっても痛い。女医さんは力が弱いから大丈夫かなと思ったが、何度か試みるうちにポコンとはまったのが分かった。


やっぱり脱臼だった。これで一安心した。三角巾で腕を吊ってもらって処置はここまでで、明朝再度病院へ来るように言われて帰宅した。


帰りのタクシーの中で「女医さん美人だったなあ」というと「こんな時に不謹慎」と久恵ちゃんにひどく叱られた。それから長々とお説教された。


「こんな時に不謹慎。心配させて、そんなに浮かれていていいの、あのままにして病院に行かなかったらどうなっていたか分からないのに、自覚が足りない。階段で転ぶって、浮かれて油断しているからよ」


まるで、小学生が母親にしかられているようだった。しょんぼり反省した。また、借りができた。


「ありがとう、久恵ちゃん。一人で生活していたらすぐにはいかなかった。今日行かなかったら、もっとひどいことになっていた。本当にありがとう、助かった」


「私ね、パパには長生きしてもらいたいの。崇夫パパのように早死にしてもらいたくないの。長生きして私を守ってもらいたいの。だって、ママもいないし、パパのほかはもう誰もいないのよ」


「おじさんは、死ぬまで久恵ちゃんを守り抜く覚悟だよ。兄貴と約束したから」


「私もパパを守り抜く、絶対に死なせない」


「ありがとう」


「ママは自分のためには生きられなくとも、娘のためなら生きられるものよ。自分のためよりも人のためなら生きられるものなのよといつもいってくれていたわ」


突然、後を向いて、久恵ちゃんが泣き出した。死んだ両親を思い出したみたい。


「私、とっても悪い子なの。両親が事故でなくなったのは私のせいなの。私ね、ママが死んだら、パパの世話をするから、安心してとママにいつも言っていたの。ママはお願いねといっていたけど。ママが死んだ時のことばかり考えていたこともあるの。それはね、私がいつからかパパのことを好きになったからなの。罰が当ったのね、二人とも死なせて」


久恵ちゃんは、泣きじゃくるばかりだった。思わず、後から片手で抱き寄せてしまった。突然のことで身体を固くしたのが分かった。泣き止んだ。


「久恵ちゃんのせいじゃない、兄貴を好きになってくれてありがとう。きっと喜んでいるよ」


「一度だけ、死んだパパも今のように後ろから抱きしめてくれたことがあるの、ママのいない時に。うれしかった。パパ、好きよといったら、驚いて手を放したわ。後も先もそれ1回だけ」


「きっと兄貴も久恵ちゃんのことをとっても好きだったんだよ。事故は久恵ちゃんのせいなんかじゃない、それが運命だったんだ」


「運命って?」


「運命、そう思うと楽になれる」


以前から、久恵ちゃんが死んだ両親の話をするときに見せる陰に気が付いていたが、それが何か今わかった気がした。癒してやらないといけない。

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