わたしは月
三週間後、引っ越し業者が荷造りしてあったものをトラックに運び込む作業が、午前中に始まった。
そこには男手で必要だからか、勇魚も来ていた。
のぞみも、食器を発泡スチロールでつつむ作業を手伝ってくれている。
蛍がいないが、のぞみの両親に預けている、と言っていた。
軍手をして、もくもくとダンボールをトラックに運ぶのを手伝う。
流れ作業だったからか、すぐに荷下ろしは終わった。たったの2時間くらいだろう。
「いくぞ、ウタ」
「うん。先に行ってて」
5階の、この家。
もう来ることはない。
和希はウタをすこしの間見つめていたが、「先、行ってるぞ」と背をむけた。
「ウタ」
ぼんやりと空っぽになった家を見ていると、後ろから勇魚の声が聞こえてくる。
「……勇魚? もう、家に行ってたんじゃ」
「空っぽになっちまったな」
「――うん」
「さみしいか?」
「ううん。そんなに未練、ないつもりなんだけど……」
勇魚に目をむける。
軍手をしたままだった。その軍手はほこりで汚れている。
「興味、なかったんだな、って思って」
「……まあ、これからつくっていけばいいよ。いろいろ。思い出とかさ」
「思い出……」
「今日ってのは一生で一回しかないんだ。だから、毎日をちゃんと生きろって。これ、月宮の家訓。覚えとけよ」
ちゃんと生きる。
それは、どういうことなのだろう。
絵しかなかった。
でも、ウタの前に勇魚があらわれた。
絵以外のことを教えようとしてくれた。
「むずかしいね。ちゃんと生きるって」
「まあな。じゃ、行こうぜ。置いてかれる」
「……そうだね」
足をひく。
鍵をかけ、思い切って背を向けた。
「勇魚」
エレベータの密室のなかで、そっと勇魚の名を呼ぶ。
勇魚は軍手を外し、手をはたいてほこりを払っていた。
「どうしてあの時、僕にキスをしたの?」
「あ、ああ……あんときか……」
見てわかる程に、ぎくり、と勇魚の身体が強張った。
悪いことを聞いただろうか。
「好きだ」
1階まで、もうすこし。
「ウタが、好きだから」
前を向いているはずの勇魚のことばは、まっすぐにウタに突き刺さった。
ちん、と音がして、エレベーターの扉が開く。
勇魚は足を踏み出して、外に出た。
「おそいわよ」
和希とのぞみが待っていた。
きょうだい。
勇魚は、きょうだいと見ていなかったのだ。ウタのことを。
家族とも思っていなかった。
けれど、不思議といやじゃなかった。
家族としての「すき」ではないことが分かってしまったからかもしれない。
月宮の家につくと、今度は荷物を運び出す作業を始めた。
真っ先に運ばれたのは、ウタの部屋のイーゼルと、カンバス5枚と、油絵に使う道具だった。そして、洋服が数着。
二階にある部屋に、作業員が運び込む。
それらはすぐに机のなかやクローゼットのなかに入れられた。さすがにそれはウタ自身が行ったのだが。
途中で昼食をとり、すべて終わったときには夕方になっていた。
今、隣の家にウタと和希はあいさつに行っている。
蛍ははしゃぎ疲れたのか、昼寝をしていた。
「とうとう、この日が来たわねぇ」
言いながら、夕食を作っているのぞみはとても楽しそうだ。
勇魚はソファにすわって、適当な返事をした。
告げてよかったのか分からない。
けれどウタには、はっきりと言わなければ伝わらない、と思った。
だから告げた。
それだけだ。
勇魚は、家族として「好き」だと言わなかった。
でも、ウタがどう思ったのかは分からない。
抱きしめた。
キスをした。
勇魚がつげた「好き」だという思いを、ウタはどのような色で彩ったのだろう。
家族として好きだと思ったのだろうか。
ひとりの人間として、好きだと思ったのだろうか。
それとも――恋として、好きだと思ったのだろうか。
わからない。
ただ、答えを聞くのがすこし、怖い。
「勇魚」
「なに」
ふいに、母が勇魚の名を呼んだ。やわらかい、母親特有の声。
「勇魚。ありがとう。ゆるしてくれて」
「なにをだよ?」
「和希さんと再婚したことよ」
「べつに、最初から許す許さないなんて思ってなかったし。それに、親父いなくて大変だっただろ。それくらいもういいんじゃねぇか」
「勇魚、いい男になったわねぇ」
のぞみは感激したように、手をくんだ。
そして、機嫌よくリビングに飾られた花の手入れをしはじめた。
すこし、黒くなっている部分があったからだろう。
勇魚はふたたび、ぼんやりとテレビを見つめた。
明日は休みだ。
土曜日で引っ越しが終わったのはよかった。明日、ゆっくりできるからだ。
玄関から、「ただいま」という声が聞こえてくる。
そうか、もう「ただいま」なのか。とどこか感慨深くなった。
「おかえりなさい。さ、夕食にしましょう。今日はすこし疲れてしまったから、お鍋にしたの。そうだ、蛍起こしてこなくちゃ」
「勇魚、ただいま」
「あ、おかえり……」
おかえり、というと、ウタは嬉しそうにほほえんだ。
それでも家になれていないためか、ソファに座ろうとはしなかった。
立ったまま、どこか視線をうろうろと泳がせている。
「すわれよ。おまえの家なんだから」
「うん」
嬉しそうにほほえんで、勇魚のとなりにすわった。
「勇魚。これから、よろしくね」
「……おう」
「勇魚、あのね、聞いてほしいことがあるんだ。あとで、勇魚の部屋に行っていい?」
「――わかった」
のぞみと蛍が降りてくると、トイレに行っていた和希とリビングに集まった。
鍋をつつきながら、他愛のない話をした。
まるで、最初から「かぞく」だったかのようだ。
でも、ちがう。
家族として、ウタを見られない。
もうおそかった。
あの時、恋じゃないと思い続ければよかった。
それでも、そう思うことも無駄だったのだ。
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