くじらの歌
イヲ
勇魚とウタ
私、再婚するから。
「は?」
「だから私、再婚するから。むこうのひと、とてもやさしいひとよ。あなたより年上の男の子がいるの。名前をウタくんって言ってね」
「おい待てよ。なんでそうなったんだ。いつの間に付き合ってたんだよ」
「おかあさん、ぼくにお父さんができるの!?」
うれしそうに机の上に手をついて飛び上がっているのは、勇魚の弟、
蛍は無邪気に笑っている。
純粋に父親ができるのが嬉しいのだろう。
ただ勇魚は、複雑だった。
のぞみは恋多き女だ。
だから、今更どこかに男をつくっても驚きはしない。
だからこそ再婚するなどと思ってもみなかった。
「そうよぉ、蛍。とてもやさしいお父さんよ」
呆然とする勇魚をしり目に、のぞみは蛍の頭を撫でている。
知りもしなかった。
今は。
孤独な目をした
「明日、真崎さんがいらっしゃるの。いい子にしていてね、ふたりとも」
「明日!? ふざけんな、何勝手に決めてんだよ!」
「だって早い方がいいじゃない?」
勇魚が文句を言っても、のぞみはどこ吹く風だ。
この女には、何を言っても無駄だ。ため息をついて、「勝手にしろよ」とだけ吐き捨てた。
「勝手にするわ。もう、勇魚ったら詳しいことも聞かないで怒るんだから」
勇魚は自分の部屋にもどって、ベッドの上に体を放り投げて、そのまま目をつむる。
苗字が変わるということだろうか。
だったら、面倒くさいことになるだろう。
戸籍も、高校の名簿も変わることになる。テストのたびに気にかけなければならなくなる。
それから、ここも出ていかなければならないかもしれない。
そうしたら、荷造りもしなければならないだろう。
それもそれで、面倒くさい。
父と母が別れたのは、小学校6年のときだ。
離婚の原因は、今も分からない。
分からない、というよりも興味がなかった。
父親はほとんど家に帰ってこなかったし、仕事だと言って海外に行ったっきりだった。
顔も覚えていない。
だから別れると聞いたとき、何とも思わなかったのだろう。
蛍は、父と別れたあと生まれた子どもだ。
もちろん父は知っているが、おそらく会ったことはないだろう。
父も、蛍のことをどうも思っていないようだった。
だから会わせていないのだろう。
母も母で、別れてから男をとっかえひっかえの状態がつづいていた。
けれど、再婚だけはしなかった。
男をこの家に連れ込むこともなかった。
「はぁ……」
ため息をつく。そのまま、目を閉じた。
夢をみた。
海辺で、絵を描く男の夢を。
雨が降っていた。
真っ黒な髪の毛の男は、白い肌をしていた。
束になった髪の毛から、しずくが落ちる。
砂浜におちたしずくが、じわりと青に染まった。薄い青。白藍ほどの。
白い首。
ぬれたせいで長くなった前髪から、黒い瞳が見えた。
こちらを見た。
わずかに色づいたくちびるが、そうっと開く。
くちびるが、何かをかたどる。
だが、何を言ったのか分からなかった。
なにも言わなかったのかもしれない。
古いフィルムのように、ノイズがまじる。
その
「……そう」
父が再婚するという。
真崎ウタは、そっと頷いて、目の前にあるカンバスに視線を戻した。
手にはべったりと油絵具がついている。
真崎
「驚かないのか?」
「そうでもない。そんな気がしていたから」
「明日、月宮さんの家に行く。お前も来い」
「明日は――」
「いいから来い。月宮さんの家には、お前より年下の子どもさんがいる。勇魚くんと蛍くんというそうだ」
カンバスには、空と海が描かれている。まだ途中だ。
明日には仕上げられると思ったのだが、それはできそうにない。
「分かった」
承諾すると、父は安堵した表情で「そうか」と頷いた。
ウタに母はいない。
彼は養護施設で育った。本当の父の顔も、母の顔も分からないし、興味もなかった。
真崎の家にやってきた時、持ってきたのはスケッチブックと絵具だけだった。
5歳で、ウタが養子に出されたとき、真崎の家には女性がひとりいた。和希の嫁の瞳だ。
だが今はもういない。
ウタが10歳のときだった。
瞳が死んだのは。がんだった。
あれから、もう10年だ。
だからもうそろそろいいのだろう、と思ったのかもしれない。
「そろそろ風呂に入って寝ろ。明日、昼には月宮さんのところに行くからな」
ウタは頷き、再びカンバスに目を向けた。
空と海。
永遠に結びつかない線。
それを見つめていたが、やがて誰もいなくなった部屋から出て、風呂場に向かった。
枯れ木の影が見えた。風が強いせいか、しなってゆらゆらと揺れている。
昔から、絵を描くことだけが生きがいだった。
20歳になった今は、美大に通うだけの毎日。絵を描ければ、それだけでよかった。
美大でなければいけないというわけではなかった。
普通の大学で、絵画サークルにでも入ればいいと思っていた。
けれど、和希は美術大学を勧めた。絵を評価してくれた教授がいる美大に。
美大では、だれもが平等だった。
評価がすべてだった。
それが、とてもここちがよかった。
ここでは親のいない人間だからと、差別されることもない。
自分の絵画の腕だけが評価される。
それが唯一だ。
ほかに何も言われない。
父親が誰か、とか、母親が誰か、などと聞かれなかった。
もっとも両親が誰かなど、ウタ自身も分からないし興味もないから、答えられないのだが。
風呂に入って、ベッドの中で本を読む。
不安をあおるような、風の音が聞こえた。
百合のかたちをしたランプがほんのりと光をはなつ。
その本には、ヴェネツィア製のガラスの留め具がついていた。
本、というよりも絵本と言ったほうがいいだろうか。
絵がおおい本だ。いつのまにか持っていた本。タイトルは「チョコレート」と描かれているほかにも文字が書いてあるが、イタリア語は分からないのでそのままにしていた。
中もイタリア語だ。
ただ、絵がうつくしかった。
ヴェネツィアの舟。アーチ型の橋梁。
うつくしいが、どこか寂しげなその絵。
それはいつもこころのなかにあった。
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