E.nora

倉木 仁那

P.art 1 消された人格

ー銀河に纏う輪廻は、一見無関係に見える他人を巻き添えにする。そして断ち切ろうとしてもそれは不可能なことだ。

 どこかの偉そうなオカルト学者がこう言っていた、気がする。


 有機化学やら物質工学の本を山積みにした机に向かって、黒縁眼鏡をかけた短髪の女・宮本 凛は真剣な眼差しでノートの余白に少女の絵を描いていた。

 昔から彼女は現実から逃げたくなると絵を描く癖があった。丁度、頭が沸騰しそうなほど難解な幾何学の問題が嫌になって、自分で作ったキャラクターのイチゴ姫の絵を無心で描いているところだ。


 暫くして彼女はふと午前1時になった時計に目を遣った。

「そういえば、明日1限目からだっけ。寝よ。」

 そう言ってノートを閉じてそのままベッドに倒れこみ、眠りについた。


「凛、いつまで寝てるの。」

 凛は家中に鳴り響く母親の声に目が覚めた。

 嫌味な程大音量に鳴り響くアラームをよそに眠ってしまったようだ。

 目覚まし時計を投げ捨てて、身支度をして2階からなだれ込むように降りた。

「もう、早く起こしてよ。」

 朝食のご飯と目玉焼きを口に頬張りながら母を責めた。

「あんたが早く起きないからよ。」

 母がぐちぐち文句を言ってるのをよそに凛は家から飛び出した。


 凛は決して足が速いわけではないが、いつもではありえない速さで大学まで走った。

「嘘でしょ。」

そういう日に限って、凛の通る横断歩道の信号にすべて引っ掛かり、足止めを食らった。

 そんなこんなでチャイムが鳴るのと同時に凛は教室に着いた。

「遅れてすみません。」

 思いのほか大きな声で言ってしまったので、教授はおろか生徒の注目を浴びてしまい、赤面を隠しながら席に着いた。


 授業が終わり、凛がほうと安堵して帰路に向かうと背が高く細身の女が凛のところに駆け寄ってきた。

「また、凛はぎりぎりか。相変わらず寝坊やな。」

 彼女は凛の友人の津山 桃子である。桃子は大学に進学するまで関西に住んでいたので、垢ぬけた美貌とは裏腹に口調が粗い関西弁であるのが玉に傷である。


 凛は不機嫌そうに桃子のほうを見ると、ふざけて桃子の口調の真似をした。

「うるせい、ワイはロングスリーパーなんじゃい。」 

 桃子に教科書でぽんと頭を叩かれた凛は少し舌を出して見せた。

「また寝坊しとったら単位落とすぞ。」

「だって、朝起きれないもん。」

 

 二人が喋りながら歩いていると駅前に着いた。すると、人ごみの絶えない改札口の前で二人より明らかに年上のサラリーマン風の男とすれ違った。

「あ、アドルフさんだ。」

 アドルフさんとは、凛の憧れの人である。彼は左耳に大きな黒竜のピアスをぶら下げ、深い褐色のサングラスをかけた、周りの景色からかなり浮いている風貌であるので一目でわかるのであった。

「相変わらず奇抜な兄ちゃんだな、声かけてきなよ。」

 からかう桃子に、凛は顔を真っ赤にして黙った。


 彼が喫茶店に入るのを見て、桃子は何かを察知をして

「あ、今からバイトがあるから。また明日な。」

と言って凛を置いて一目散に逃げて行った。取り残された凛はどぎまぎして彼が入った喫茶店に入った。


 喫茶店の中は駅前の喧騒とは切り離されたようにがらんどうとしていて、聴き覚えのあるクラシック音楽に漂う、淹れたてのコーヒーの香りと古臭い葉巻の咽る匂いに包まれていた。

 そのブランデーのような色の照明の中、窓側の片隅の席で彼は毒々しい匂いの煙草をふかしながらスケッチブックで絵を描いていた。

 凛はそっと彼が見える席に座って、コーヒーは苦手なのでフルーツパフェを頼んで、カバンからスケッチブックを取り出して絵を描き始めた。その時間が凛にとってたまらなく好きな時間だ。彼は一体、どんな絵を描いているのだろう。待ちゆく綺麗な人を描いているのかな。と想像を膨らませながら、彼の姿をスケッチしている。

 フルーツパフェのバニラアイスに刺さっているパイナップルを齧っているときも彼の鉛筆の動きをまじまじと見つめた。

 すると、ふと凛のほうに視線を感じた気がした。目が見えないサングラスをしているので本当に凛を見ているのかは定かではないが、凛は恥ずかしさのあまり俯いた。


 その夜、お風呂上がりで半乾きの髪のままベッドに飛び込んだ凛は、ふとアドルフさんのことを思い出して、うさぎ型の抱き枕をぎゅうと抱きしめて眠りについた。

「おやすみなさい、アドルフさん。」

 



 凛は見知らぬ田舎の、古びたトロッコ列車にひとり乗っていた。

経年劣化で黒ずんだ木製の壁に填められたガラス扉には、車掌室という文字が反転されて見えた。

 

 トロッコ列車は山の深くをガタガタ揺れながら進んでいった。


「だめだ、気分悪い。」

 乗り物酔いしやすい凛はいつものように青白い顔をして、通路の床に目を遣った。

 すると、凛の視界に漆のような黒い液体を滴らせた、手錠につながれた手首が飛び込んだ。ぎょっとして上を見ると、一人の立派な体つきの警官に連れられた血まみれのセーラー服の少女が通路を歩いていた。

 少女は凛の視線を感じると、蛇のように睨み付けた。

 凛が怖気着く間もなく、少女は凛の前の席に座り、凛のほうに身を乗り出した。


 謎の少女と凛は暫く互いを見つめた。

 黒髪のきれいに切り揃えた前髪がより一層、彼女がこの世のものでない雰囲気を醸していた。前髪のせいなのか顔の上半分が影ではっきりしていないが、眼光ばかり爛々としていて、やはりその瞼からも黒い血が流れていた。

 

 凛が何か話そうと口を開くと同時に、少女はこう彼女に呟いた。

 

「お前の消された人格の怒号が、白衣に染みついている。」


 見た目以上に深く轟くようなその声に凛はぞっとした。凛は恐怖に駆られながら渾身の勇気を振り絞ってこう返した。


「…あなたはだれ。」

 そこで目が覚めた。そこはいつもと変わらない、カーテンに閉ざされた薄暗い自分の寝室だった。

 凛は覚束ない意識の中、謎の少女のことを思い返した。初めて見た気分になれなかったのである。


 目覚ましのアラームが鳴りかけた瞬間、ボタンを思いっきり叩き押した。

「消された…人格。」

 凛は再びぼんやりしている記憶を思い返していた。


 寝室の壁にかけられた白衣が風もないのに異様に靡いていた。

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