2―3

 ギシッ、と階段の軋む音で、私は目を覚ました。

 そのまま規則的に聞こえてくる音に、警戒を解く。リズミカルではないし軽やかでもないが、常に間隔が変わらないその足音は、何度も聞いた馴染みの音だ。


 もうすぐ、私を起こそうと声が響くだろう。私がとっくに起きていることに気付いていても、朝声を張り上げるのが健康の秘訣だとでも言うように。


 三、二、一。


「いつまで寝てんだい、とっとと起きなお嬢ちゃん!!」


 定刻通りの怒鳴り声に、私は微かに微笑みながら身を起こした。

 今日も一日が始まる。いつか想い描いた、夢みたいな平和な一日が。昨日のように、明日みたいに。














 【銀の牡鹿亭】の朝は早い。

 基本的に収入の八割は夕方からの飲み屋稼業だが、だからといって夕方までのんびりしていられる訳ではない。

 料理というものには材料が必要で、材料を仕入れるには買い物に行かなくてはならない。夕方に料理が出来上がるために逆算するなら、朝から買い出しに出る必要があるのだ。


 加えて、【銀の牡鹿亭】は朝も多少営業する。

 紅茶とサラダ、それに焼き目を付けたパン程度の簡素な朝食を、10人分程度限定だが食べさせている。その準備を考えるのなら、日の出と共に起き出して早いということはない。


 ……まあ、それらは全て女将さんの都合であって、宿泊している私には何の関係もないのだけれど。


「関係無いことあるかい、あんたは居候だ、家のリズムに従うのは当たり前だろ」

「居候って……お金は払ってますよ」


 昨夜の営業のが色濃く残る一階。黒檀のカウンターで女将さんと向かい合いながら、私は苦笑した。

 一日銀貨一枚。相場を考えれば高い額ではないけど、私の初期所持金を考えたら恐ろしい額である。それを支払っているのだから、居候呼ばわりも無いというものだ。


 ドン、と目の前に皿が置かれる。

 大きな木の椀には、食欲をそそる香りと湯気を立てる白いシチューが山盛りだ。


「飯も付いてこの値段だ、貰ってないのと一緒だよ全く」

「昨夜の残りでしょう、残飯処理の手当てを貰っても良いくらいです」

「失礼だね全く!」


 鼻息も荒く投げ渡された匙を受けとると、私はシチューに口をつける。

 美味しい。

 一晩寝かせたお陰かジャガイモは消え失せ、甘いとろみをシチューに残すのみだ。煮詰められた味も濃く、睡眠に体力を使った朝にはありがたい。


「感想は、言わなくて良いよ」

 夜の、真っ赤なディナードレスを着替えた女将さんは、快活に笑った。「顔を見たら、解るってもんさ」

「相変わらず美味しいです、薔薇女将マダム・ローズ。これが残るのが不思議ですね」

「あんたは、案外大飯喰らいだからね。酒を飲みながらはあまり食わないって人も多いのさ。あんたの親父さんはどうだったい?」

「私の父は、酒を飲めませんでした。戦の勝利に乾杯するときは、いつも甘酒です」

「アマザケ? なんだいそいつは」

「えっと……子供向けの酒みたいなものですね」

「子供に飲ませる酒なんてあるもんかい、酔狂だねぇ」


 酒場の主人に相応しい意見だ。私はクスリと笑いつつ、匙を持つ手にもっと早くと鞭を入れた。

 それから、気になっていたことを聞くことにする。


「女将の方は、どうでした? 御両親、あるいは」

「旦那かい?」


 エプロン姿でクスクスと笑う女将、マダム・ローズ、【】を、私は改めて観察する。

 よわいは二十代後半か三十代の前半、私をして息を呑むような真っ黒い黒髪は木船神社に伝わる鬼神のように波打ち、束ねるリボンに封じられているかのようだ。

 身体つきは、妖艶そのもの。女として出るべきところは出て、引っ込めと常に呪っているところは引っ込んでいる。舞神たれ、と常に言い聞かせる私でさえ、その身体つきプロポーションには溜め息を禁じ得ない。

 蠱惑的な乳房に反して、目鼻立ちはスッキリと細く、また彫りが深い。目玉より長いのではないかと凝する程に長い睫毛は、多くの男性の期待を載せても揺るがないだろう。


 これが木像だったなら、彫り師は天女を手本としたに相違あるまい。

 神話において、神を誘惑した神にも、もしかしたら敵うかもしれない。そんな美貌に加えて料理上手とあれば、縁談の十や二十ふたえ、舞い込まない筈もない。


 性格はともかく、見た目としては女性の目指す一つの極致ではあるだろう。一つ屋根の下での共同生活において男性の影を感じないというのは、最早私の気配感知能力に対する挑戦とさえ受け取れるほどだ。

 ……性格は、ともかく。


「なんだいなんだい嬢ちゃん、アタシの半生に興味でもあるのかい?」

「多少は。……そうですね、刀を預ける刀鍛冶の身の上程度には、気になりますね」

「カタナってのは、あんたの武器だろう? であれば、ははっ、大分気になっているようじゃないか」


 恥を忍べば、その通りだ。

 彼女は恐らく、あらゆる男性に好まれる存在だろう。であれば、愛されたことはないのかと気になるというものだ。


 私の稚拙な好奇心に、女将は夜の顔のように上品に笑った。


「コツはね、。あんたみたいにね」


 快活な笑い声を聞きながら、私はシチューを味わう。その中に、愛されるのに必要な成分は入っているのかどうか、考えながら。

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