第2話
龍人の視線の先――――不良の三人組との直線上にその男は立っていた。ホンブルグハットに黒い厚手のコート。同じく黒の、鼻から下を覆い隠す布に、僅かな隙間から覗くギラギラした眼。真っ黒で肌の露出が少ないという、季節感を完全に無視した恰好であるのは龍人も同じようなものなので、ここまではまだ許容範囲であろう(と思っておこう)。
問題なのは腰に差した一つの刀である。
長さは男の身長とほぼ同じで一・七メートルといったところか。鞘にあしらわれた精巧な二匹の蛇は、それぞれ眼の部分に紅と蒼の宝石が嵌め込まれており、各々が太陽の光を乱反射し、近づきがたい迫力を放っている。遠目に見ただけでも、その宝石が相当価値のある本物であると確信できる。それだけ鞘の中に隠された刃が業物であることを示唆していた。
明らかに非常識な凶器を持っているのに、この男はそれがセットでこそ正しいような気がする辺り、持ち手も刀と同じぐらい常識外れに感じられる。
(目線が合うだけで寒気がする………あれは間違いなく人を殺したことのある奴の目だ………)
しかし、龍人から逃げることに必死な哀れな不良たちは、見るからに危険な男など目に入らないらしく、廃棄物処理場の出口へと一直線に進んでいく。――――そう、男の真正面へと向かって。
「っ! 待て!」
龍人は危険を察知し彼らを止めようとするが、もう遅い。
爆発の如く男から殺気が立ち上り周辺の木々が揺れ動く。陽炎と殺気が混じりあい、男の周囲は本当に空間が曲がっていると錯覚させられるほどの力が渦巻いている。それは、口を開き今まさに獲物へ飛び掛かる蛇を思わせた。
不良たちも男のすぐ手前まで迫り、ようやく男の異常さに気付き腰を抜かしてへたりこむ。不良たちが男から逃げるのも、龍人が彼らを助けるのも圧倒的に遅かった。
「
男が柄に手を伸ばすと同時に白刃が残像をもって駆け巡る。
不良達が悲鳴を上げ、倒れた。
その後には、三人の体から空気中を軽やかに浮遊する雪にも似た半透明の物体が現れる。それはまるで、肉体から切り離された魂が、行き場を失い彷徨っているように見える。それらは暫くその場を浮遊すると彼方へ静かに消える。
龍人は背中に冷汗が伝い、思わず身震いする。
居合は刹那にも満たない時の中で行なわれ、相当の動体視力が無ければ剣筋はおろか刀を抜いたという事すら確認不可能だろう。一瞬だけ見えた刀身には不可思議な文様が輝き、更に刀の恐ろしさを際立たせていた。
余りに無慈悲な一太刀を食らった不良たちが、既に瀕死なのは畢竟である。
――――ただ一つ、オカシイ点を上げるとするならば、
「嘘だろ………アイツら明らかに斬られたはずなのに、何で傷一つ負っていないんだ――――」
痛みに打ち拉がれ芋虫のように痙攣を繰り返す不良たちが無傷だとは到底思えない。本当ならば辺り一帯血の海に塗れていてもおかしくは無いこの状況でも、廃棄物処理場内はいつも通りの様相を見せていた。
喧しく鳴く蝉の声が遠くに聞こえる。突如として訪れた非日常に龍人はただただ立ち尽くすのみだった。
男はまるで何も無かったかのように首を鳴らすと、龍人との距離を一瞬で詰める。眼は前にも増して殺気立ち、鞘に刻まれた蛇と同じぐらいだ。命をその手で断ったにも拘らず、男は静かな口調で、
「一般人を巻き込むような真似はしたくは無かったのだが、致し方あるまい。これ以上被害者を出さないためにも早く斬られてくれ………
「おい、テメェ本気か!?」
龍人は我に返ると本能的に後ろへ跳ぶ。一瞬遅れて地面に深い刀傷が走った。自分が居た空間を刃が切り裂いたことに、再び背筋が寒くなる。太陽の光に照らされた刀身には、やはり不可思議な文様が浮かび上がっており、更によく見ると半透明の謎の物質で作られている事が分かった。ただそれは、ガラスの様な無機質なものとは違い、意志を持った殺意の塊を具現化したもののように、ピリピリした殺気を放っている。しかし、それを考慮しても思わず見惚れてしまう美しさがあった。
「って見惚れてる場合じゃねぇ! てめぇ何が目的なんだ! 何で俺を狙う! 俺が何かしたってのか!」
龍人は繰り出される猛攻を全てギリギリで躱しつつ、聞くだけの事は聞いてみる。
いきなり銃刀法違反をガン無視した殺し屋に襲われるほどの事をやった覚えは、龍人の記憶にある限りでは一度も無い。ましてや対象の体を傷つけずに殺したりするマジックアイテムで斬られるなど、生まれてこの方初めての経験だ(そんな経験あっても困るが)。
それに対して男はこの場にしては不自然な程、静謐な声で答える。
「――――我が名はキルア。必要さえあればどんな事でもやってのける仕事人だ。その様子だと本当に何も知らないようだな、《纏翳の悪魔》。私は寧ろ今まで命を狙われることが無かった事の方が幸運だと思うがね。私の目的については知る必要が無いであろう。そなたはすぐにこの世から消えるのだから」
「厨二病を
「もしそなたが人違いだったとしても今更遅い。斬ってから間違いだったらしっかり弔ってやろう。」
滅茶苦茶な男――――キルアの説明に頭痛がする。龍人は、何度も彼の刀を避ける内に少しずつ剣筋を見切ることができるようになってきていたが、気を抜いた瞬間にゲームオーバーであるこの状況ではおちおち作戦を立てる事すらままならない。今考えるべきは、どのようにしてキルアの手の届かないところまで逃げるかだと、龍人は悟った。
大きな一振りを渾身の跳躍で避け、一気に距離を稼ぐ。
「クソが、こうなったらあれをするしかないか………」
「どうした急に立ち止まって。斬られる覚悟が出来たか?」
龍人は一旦立ち止まると、首を傾けて大きく音を鳴らす。その瞬間、彼の目つきが変わった。
如何にも寝不足で怠そうだった表情が嘘のように溶け、別人ではないかと思わせる殺気を身に纏う。本人が意識さえすれば、整っているといえる顔立ちと相俟って、肌に触れるだけで切れるのではないだろうかと錯覚させる殺気を身に取り巻く。いきなり雰囲気ががらりと変化し、対象を殺すのが仕事であるキルアも思わず身を一つ引く。
「本当はこんな事したくなかったんだがな………、アンタがその気ならしょうがねぇ」
「その殺気――――やはり私の目に狂いは無かったようだ。さぁ、その身を賭してかかって来い!」
龍人は、フッっとニヒルな笑みを浮かべると、
「俺の秘儀………
――――〝戦略的撤退〟!」
大きく叫び、強くアスファルトを蹴る。――――それはもう清々しいほど背後へ向かって、一直線に。
――――自分とは真逆へ疾走する姿を前に呆然とするキルアだったが、数秒してやっと戻ってきたらしい。その証拠に、背後から何かを必死に叫んでいるが、龍人は気にせず駆け抜ける。
少しの間をおいて振り返ると、キルアが
龍人は「おお、怖い」と心の中で呟く。
「なぜ逃げるのだ! 正面からかかって来い! そなたに誇りという物は無いのか!?」
「――――分かった。止まればいいんだよな」
「何を言って――――っ!?」
それを満足そうに聞いた龍人は、ニヤリと笑うと、足のバネを最大限に使いその場で急ブレーキを踏む。――――学校の先生の〝人は車と同じ、急には止まれないので廊下を走らないようにしましょう〟とはよく言ったものだ。理性を失っていたキルアは、龍人の奇行に慌ててその場に止まろうとしたが、
キルアは完全に龍人に嵌められ、体幹をバラバラにされ身動きが取れなくなってしまっていた。彼は地面に落ちていた細長の鉄棒を振り抜こうとする龍人の姿を見て思う。
(そなたはあの一瞬の間に私に隙を作る方法と、より大きな打撃を与える方法を考えたというのか!? そなたが何も知らない学生として過ごしているという情報は間違いだったというのか!)
キルアは
「オルァ!」
体中のバネを最大限に利用した
――――それでも相手は一撃必殺の
龍人は鉄棒を投げ捨てると、
逃げ切れる! と思った瞬間――――ガンッ! っと鋭い音を立て、建物のドアに見覚えのある鉄棒が突き刺さった。
「また逃げる気なのか! 許さんぞ………」
「こちとら、簡単に死んだら師匠に死体までどつきまわされるのが目に見えてるんだよ。――――てか、なんで無実の俺が殺されなきゃならないんだ。まずそこがオカシイっての!」
もう少しずれていたら、龍人を串刺しにしていたであろう鉄棒は、見事に蝶番を
余りに出鱈目な膂力に、もはや笑いしか浮かばない。
(アイツ槍投げの選手にでもなった方が良いんじゃないか………)
龍人は、しょうがないのでドアを蹴破ると、入り組んだ通路の奥へ逃げ込む。
後に残されたキルアは、歯を食いしばり闇へと消えてゆく龍人の影を見つめていた。
◇
電気が遮断され真っ暗闇となっている建物内を、キルアは歩いていた。
数十年の修行を積み、その体自体が鋼鉄に近いと言える彼にとって、先の戦闘で受けた傷は大したダメージでは無かった。あのまま戦闘が続いていたら、百回のうち百回は確実に勝てたという確信だってある。結局龍人がその選択をしなかったことは賢明だったといえるだろう。
キルアは目を閉じて歩を進める。全ての窓に暗幕が引かれた室内では、どうせ目を開いてようが何も見えないので、他の五感に意識を集中させているのだ。
小さな機械部品が整理された部屋には、彼の靴音のみが響く。もちろん足音は立てないように細心の注意を払ってはいるが、余りにも建物内が静か過ぎる事と、棚が所狭しと並べられ歩く隙間が殆ど空いていない事で、どうしても響かせてしまう。
キルアは改めて自分が完全アウェーの状況に立っていることを知った。
まんまと自分を嵌めた龍人が、迷いもせずに逃走先をこの場所にしたのは、この場所をよく知っているからだろう。彼との戦闘を長引かせてしまったのは大きな失敗だと、キルアは歯嚙みする。
部屋の奥まで辿り着いたキルアは、ここもハズレか、と戻ろうt――――
――――その時微かに何かが
キルアは狭い通路の中で身を
「これは矢か? よくぞ短時間でこれほどのトラップを作り上げたものだ。………!?」
感覚で確認するより先に後ろへと跳躍する。一瞬遅れて、飛び退く前までキルアが居たところへ、鈍色の金属板がギロチンの如く突き刺さった。不条理な刃を受けた床は、幾つもの破片に砕けて飛び散った。
(有り得ない! どんな手を使ってもこのトラップを一人で作り上げるのは不可能だ――――)
幾らここへ入るのに遅れを取ったからといっても、それは精々数十秒の差。このトラップを作るだけの材料をここへ運んで、仕掛けを作り上げるというのは、余りに非現実的すぎる。そこまで思考を巡らせたキルアは「しまった」と舌打ちをした。
着地と同時に足元の床が抜け、地下室へ天井から落ちる。
人間は宙に浮いた状態が一番弱い。重力という枷に縛られている限り、下に落ちるということが確定しているからだ。
となると当然この先に何かが仕掛けてあるとしたら地面だろう。キルアはそれを警戒し、何が起きても対応できるよう真っ暗闇の地下室を〝感じる〟。
――――が、予想だにしていない方向――――真上から、容赦なく大量の土砂が降り注ぎ地面に生き埋めにされた。
何とか顔だけ土砂の山から這い出すが、体の自由はほぼ完全に奪われてしまっていた。
「グファ!? 何だと………」
「――――この建物の中は、性悪悪魔みたいな性格の人が仕掛けたトラップだらけだからな。ご愁傷さまってとこか」
闇の中からぬるりと現れた龍人が、勝利宣言の代わりに言う。キルアを静かに見下ろす姿には、大きな余裕が浮かんでいた。
龍人がこの状況を完全に予測していた事を知り、キルアは苛立たし気に舌打ちをする。
「――――成程、そなたは最初私と対峙した時に、私を無力化させるためにこのトラップハウスへ誘い込むために段取りを整えていた訳か」
一度逃げて作戦を立て直すとは言った。――――しかし、逃げながら作戦を立てきれないとは言っていない。
不良たちが謎の力に圧倒された時、既に龍人はキルアと真正面から戦う事を捨てた。そこでキルアの理性を失うようにわざと神経を逆なでるような行動を起こし、このトラップハウスの中へ誘い込む。そして完全に無力化するところまでの何手先までもを、龍人は数秒で考えていたのだ。
「だがオカシイな。そなたはただの高校生でしか無かったはず。
「何度も言うようだが、俺は言葉の意味そのまま、ただの高校生だ。ただ妙な縁で武術が使えるだけのな」
「――――はっ。それだけの頭の回転と実行力を見せておいてよく言う。私がそなたの力を見くびっていた時点で私の負けは決まっていたのかもしれぬな………」
「何はともあれ、またこんなことをしてくれたら困るからな。――――死んでもらうぜ」
いつの間にか龍人の手には、
それに対しキルアは静かに笑っていた。自分の死期を悟った彼は、ケタケタ壊れた人形のように乾いた声を上げ続ける。
「いやはや天晴というべきか。この私をここまで追い詰めた者は我が人生の中でもそうそういない。本当に素晴らしき才能よ」
「いや、アンタが本気で俺を殺しにかかっていたら、俺に勝つ術は無かった。結果的にこうなったのは、ひとえにアンタが俺を舐めてたせいでしかない。主導権を奪い返せなかったら、負けたのは確実に俺だった」
もし、キルアが真正面からではなく、隠密行動を徹底し、一発で勝負を決めようとしていたら――――
もし、キルアが本気で下調べを行い、徹底した戦略を組んで勝負を仕掛けていたら――――
その時は、勝負の結果は間違いなく一つに限られていただろう。
つまり、龍人には勝負の結果を変える力は最初から無く、全てキルアが用意したゲーム盤の上で戦っていたに過ぎないのだ。辛くも掴み取った勝利が、決められたルールに縛られたものだという事に、龍人は苦い表情を隠せない。
「――――ま、過程はあくまで過程だ。全てが終われば結果しか残らないんだからな」
「ああ、そうだ。結果こそ全て。勝ちさえすれば、そのなかで戦況がどう移り変わろうと関係ないわけだ――――」
キルアは独り言のように小さな声でブツブツと呟いている。
「………!?」
「最後の騙しあいは私の勝ちだ!」
布に隠されたキルアの口が笑っている様に思えた。
山の様な土砂を押しのけて、キルアの右手が引き抜かれる。
――――闇の地下室の中を二条の光が切り裂いた。
「ハッ………。少しだけ遅かったか………」
部屋の中に残る刹那の攻防の余韻が消え去ると、決着だけがその場に残された。
自らの体を貫く
完全にキルアを殺したことを確認すると、龍人は崩れるように地面に膝をつく。龍人の胸に空いた穴からは止めど無く鮮血が溢れだしていた。
キルアの腕に引っ掛かっていた隠し銃が、コトリと音を立てて床に落ちる。
――――同時に龍人は足で体を支え切ることが出来なくなり、静かにうつ伏せに倒れた。
「――――畜生。………まさか刀の他に銃まで隠してやがるとはな………最後の最後で油断しちまった………」
会話を続けることで、銃を引き抜くための時間を稼ぎ、相打ちまで持って行く。まさか
夏真っ盛りで猛暑日のはずなのに、体は酷く寒い。龍人は現在進行形で傷口から体温が滔々と流れて行くような気がした。そんな中で唯一撃たれた胸だけが、焼き印を押されたように熱を帯びている。視界は白い霧が掛ったかのようにぼやけ、存在するはずの無い幻覚が目の前で不定形な像を結んでいる。
龍人にとってこの世に大した思い残しは無いが、いざ死の瀬戸際に立つと底知れない寂しさに襲われてくる。
「呆気ない最期だったなぁ………師匠はこんな不肖の弟子でも悲しんでくれるだろうか――――」
あの人だったら別の意味で悲しむかもしれないな………なんて思い、龍人は儚げな笑みを浮かべる。こんなところで妙に人間らしい自分が少し可笑しく、笑みには少しだけ呆れも混じっていた。
そうこうしていると、体が霧になったように、フワフワと浮いているような感覚が訪れる。
最期には瞼を開ける力も失われ闇に包まれた。
――――どれくらい経っただろうか。突如、
――――眼下には米粒大の街があった。
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