幽玄に臨める夢幻
彗星の如く現れた吟遊詩人
一章 穢れし血の業
第1話
眼下には米粒大の街があった。
「――――は?」
素っ頓狂な声を上げ龍人は唖然とする。
ポカンと開かれた口には濁流の如く風が入って来ている。轟音と共に始まる自由落下に、思わず悲鳴を上げそうになるが、口を開ければ開けるほどに無理矢理に空気が押し込まれ、慌てて口を固く閉ざした。秒速何十メートルという〝イカレタ〟スピードに気が飛びかけるも、渾身の忍耐で何とか耐え忍ぶ。
米粒大に見えていた町は、いつの間にか細部が見えるほどに近づいている。鮮やかな色彩に彩られた街並みは、龍人が知りうるどの街にも値しなかった。
木造の平屋があったかと思えば、その隣にレンガ造りの三階建てがあったりする。よく見るとイグルーやゲルの様な完全に場違いなものもあった。更には、何処の少数民族の建築様式だかさっぱり見当のつかない、野生感溢れるものもある。それはまるで、世界各地の文化様式というおかずを、重箱の中にぎゅうぎゅうに押し込めているようだ。
龍人は、自由落下というあまりにも、非現実的な状況の中にいながら、妙に冷めた頭で思う。
(残念なことに俺の人生はここでゲームオーバーのようだな。つまんない人生を最後に華々しく飾ってくれてありがとよ神様)
誰にも聞こえる訳の無い皮肉は、龍人の遥か頭上で轟音に紛れ、消えて無くなった。閉じたはずの口から零れた溜息でさえも、即座に轟音に飲まれる。
打開策は無い。時間も無い。この状況を打破してくれそうな
完全に神に見放された少年は、ただ自分の不幸に呆れながら落下を続けた。
――――しかしそれは何処か楽し気でこれから地面にクレーターをつくる予定には到底見えない。
(ま、死ぬ間際にでもこんな面白いもの見せられちゃ呪う気にもならないか。にしても何でこんなことになっちまったのか………)
龍人は異郷の地の大気を切り裂きながら、事の発端――――いつもの一時間前に記憶を戻した。
◇
日差しは高くアスファルトには
人々は熱気の檻に閉じ込められ、為す術無くただ打たれている。こんな場所で元気なのは、プール鞄を片手に走る夏休み中の子供たちか、何処に行っても声を響き渡らせている蝉だけだ。
――――しかし、そんな地獄の顕現の中に一人、大人の様に暑さに茹だれる訳でも無く、子供の様にはしゃぎ通す訳でも無い少年が居た。
「これは
後ろに並んで歩く者に聞こえないように、
気怠そうな顔に天性の癖毛。暑いと口では言いつつも、見ている方が熱中症になりそうな暑苦しいパーカーを着て、フードもしっかりと被り目元を隠している。全身のファッションは全て黒で統一されていて、遠くから見れば誰かの影法師のように見えなくも無い。だが、その割には肌に汗を掻いたような跡は無く、その分他の人よりずっと涼しげに見える。
鍛えたような体つきでは無いが、武道の道を選んだ者にのみ、少年が取り巻く不思議な空気に気付く事が出来るはずだ。常人にはただ家路を辿っている様にしか見えないが、はその自然に見える足さばきはどんな状況にも対応できるものである。
「こんな分かりやすい尾行に気付かれないとでも思ってたのかね………雑魚丸出しだぜ」
数分前から感づいていた事だが、後ろに高校生と思しき三人組が付けて来ていた。彼らはそれぞれ、無駄に派手な服を着崩し、顔には何処か暗い影を落としている。如何にも世の中敵視してマス、的なオーラを纏い風を肩で切るようにして歩いている。
最初の内は、やけに道がよく合うな………。程度の感覚だった。しかし、三人組の気配を探っている内に明らかに尾行していることを確信した。一見すると同じく学校帰りなだけに見えるが、常にピリピリとした意識を龍人に向け、人ごみの中に紛れるように不審な蛇行を繰り返している。三人の表情はどれも楽し気なものには見えず、こっちの出方を常に観察しているのが丸分かりだ。
こんな感じの不良たちは、総じて形から入って中身は伴っていない場合が多い。中途半端な覚悟で、中途半端な理由で、中途半端な技術で、中途半端な悪を演じている。そしてそのような奴らは確定事項として、その弱さを隠すために群れるのだ。
不良たちの中で、自分なりの信念を持ち、自らのルールに従った悪を貫いているものは極々少数である。そして彼らは独特の輝きを放っているため、目で見るだけでそんな強者は分かるものだ。
何が言いたいのかと言えば、今後ろに居る三人組にはそういった輝きは微塵も感じられない――――つまり彼らは形だけであり、どうしようもない雑魚だという事だ。
「さてと。弱い者いじめは疲れるから嫌なんだけどな………最近面白い事ねぇし、元気な子供たちに倣って、いっちょ、はっちゃけるか」
三人組の目的は不明だ。恐喝ならば、普通はもっと非力な女の子でも狙うのが筋であり、龍人は特に目を付けられるような高価な物を身に着けてもいない。更に言えば、真夏に顔まで隠れたパーカーを着ている、怪しい人物を標的にするのは考えにくい。
「まぁ、理由なんぞどうでもいい。商店街は喧嘩に向いているとは言い難いしどっかに移動しなきゃなんねぇんだが――――丁度近くにあるしあそこにするか」
龍人は気怠そうな表情の端に
三人組は、舌打ちと共に龍人の後を追い始める。
龍人が商店街の裏道に入り後ろを見返すと、上気した顔で不良達が追いかけて来ているのが見えた。
龍人は、近づきすぎることも無く離れすぎることも無く、向こうの追跡を
――――余談だが、龍人は高校生の平均走力、持久力を共に大きく上回っている。故に三人組が顔を真っ赤にして必死に追跡をしているのに対し、龍人は汗の一つも流さず、避暑地で軽くランニングでもするかのようであった。
――――そこは今は運営を止めている廃棄物処理場だった。喧騒から一つ間を置いただけなのに、人通りはほとんど無いと言っていいほど静かな場所である。無駄に広い広場の中心で龍人と不良三人組は向き合った。
「三名様ごあんなーい。とは言っても今すぐ用意できるのは痛みと傷ぐらいなんだがな」
「テンメェ! 散々手こずらせておいてただで済むとは思うなよ。ただでさえお前には恨みがあるんだ」
「――――恨み? ………あぁ、思い出した。そういえばお前らのグループこの前ぶっ飛ばしたっけか。でもガキ相手に恐喝して、喧嘩で負けたら逆切れって頭おかしいと思うんだが」
龍人は頭の中を掻きまわして、ようやく彼らが声を荒げる理由を思い出す。
龍人は数日前に、この辺りをウロウロしていた小規模グループが、小学生相手に恐喝をしているのを見かけて大立ち回りしたのだった。よくよく思い返すと、殴った中にはこの三人も含まれていたような気もする。すぐに思い出せなかったのは、余りにも喧嘩の内容が悲惨だったために記憶する価値も無いと判断したからであると思われる。
不良達はゼハゼハと息を荒げ、それでも狂犬のように目元を鋭くして拳を握る。それを軽く受け流しニヤリと笑みを浮かべる龍人。三対一という状況をまったく気にせず飄々としているその様子に、彼らは怒りと焦りの表情を浮かべる。
「畜生――――精々笑っとけ!」
大きな掛け声とともにプロレスラー顔負けの
「掛け声は結構だが、中身はスッカスカだな……」
素人の物とはいえ、それなりに体重の乗っかった拳は、まともに当たればそれなりのダメージを受けるはずであろう。だが、拳が当たる直前まで龍人がそれを避ける気配は全くない。
不良の怒りを込めた一撃は――――紙一枚通るか通らないかの最小限の動きで躱された。龍人の回避は、本当に少しだけ上半身を捻ることで、体勢の維持と攻勢の構えを同時に成し遂げている。
そのまま龍人は無造作に右手を突き出す。それは不良のもの比べれば、ずっと覇気の無いものだったが、無駄を最小限に減らしたそれは確実に心窩へ突き刺さった。肺が押しつぶされ不良の口から、カエルが潰れたような声が漏れる。
体をくの字に折り曲げ倒れた一人の後ろから、更にノッポの不良が殴りかかる。
それに対し龍人は、防御も回避も取らずにただ自然体で構えるだけだ。
「おいおい、ちっと弱すぎじゃねぇーか?」
――――しかし、龍人へ殴りかかった不良は、捕らえたと思った瞬間、不自然な力を受けあらぬ方向へ飛ばされた。不良は空中で一回転を挟むと、強かに背中を打ち付ける。
ノッポは自分がいきなりひっくり返った事に、数秒の間気づけなかった。というのも、今自分の体に何が起こったのか、全く理解できなかったからである。ノッポは背中が熱いコンクリートに焦がされるのもそのまま唖然としている。そこに居る不良の三人が皆、今この場で起きた現象に説明を付ける事が出来ない様子だった。
結論からすると龍人は彼に向かって攻撃の一つも加えていない。
「相手の動き、思考を完全に見切り、体の動きや視線誘導で、相手の力をそのまま攻撃に使う。口で言うのは簡単だが、実行するのはお前らには無理か………」
龍人との間に存在する明らかなる実力差を見せつけられ、空いた口が塞がらない様子の不良たち。
それも無理はない。武道へ人生を全て注いだ者でさえ完璧にこなすことは難しいであろう妙技を、息をするようにされては驚いて当然である。今時の格ゲー世界チャンピオンでもこんな変態じみた技は使わないだろう。
まだ傷すら負っていないチビの不良が、足をわなわな震わせて情けない声を上げる。おぞましい怪物を見たかの様に、顔を恐怖で歪ませてじりじりと後退り、ある程度の距離を取ると、一目散に逃げ出した。チビの後を追うように他の二人も跳ね起きて走り去って行く。
龍人はその行く末を気にすることなく、一人天を仰ぐ。
「ただの不良ごときに高度な戦闘を高望みするのも悪いか――――。あ~熱い。暑いじゃない、熱い。熱中症でぶっ倒れる前に俺も早いところ帰ろう」
周囲が全てコンクールで造られたこの場所は、太陽の熱によって簡易反射炉へと変貌を遂げている。元々暑さ寒さを感じずらい体質である彼だが、この服装でこんな場所に居るとやはり辛いらしい。
退屈は紛れたがその分暑さは増したように感じる。あれぐらいの喧嘩は、運動にも入らないが〝手加減〟して戦うというのは精神的に疲れるようだ。
「帰ったら何すっかな。やりかけの
ふと、逃げる不良たちを見遣ると、彼らを超えた向こう側――――廃棄物処理場の出入り口の前に一人の怪しげな男が立っているのが見えた。
自由落下まで約二十分。ここからが非日常の幕開けなのだった。
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