始まりの終わりと、

「あ、ほら見て、月が重なる」


 ベッドに組み伏せられシーツに髪を散らした少女は、すぐ脇の窓を見上げて楽し気な声を出す。見れば確かに、青と赤の二つの月が森の梢の上ですれ違うところのようだった。


「この世界に来たとき、あの二つの月を見て『あぁ、異世界に来ちゃったんだ』って思ったの」

「……」

「懐かしいなぁ、もうずいぶん前のことに思えるよ。そんなに経ってないはずなのにね」

「……」

「そうそう、月っていえばウルフィが言ってたんだけど」


 腕の中の彼女は決してこちらと目を合わせようとしない。必死に平常を装うとする様が、男の目から見ると少しだけ滑稽だった。


「でね、アンジェリカったら――」

「ニチカ」


 名前を呼んでやれば、次に出すはずだった話題があっさりと詰まる。

 それでも視線を合わせようとしない少女を見下ろし、オズワルドは問いかけた。


「そんなどうでもいい話をするために此処に来たのか?」


***


 月明かりの綺麗な晩だった。


 普段、風光明媚など何の腹の足しにもならないと豪語する男でさえ、作業の手を止め庭にでる程度には美しい夜だった。涼やかな風がサラと吹き、虫たちの控えめなコーラスが森の奥から聞こえてくる。騒がしい使い魔も今夜は里帰りしており、一人だけの贅沢な時間がゆっくりと流れていくのが肌で感じられる。


 まったくもって、良い夜だ。


 しばらく目を閉じ、感覚を森に溶け込ませていた男はふと気配を感じた。敵意を感じるものではない、むしろ慣れ親しんだ弟子のものだと分かると同時に、思い浮かべていた人物が木立を抜けて庭先に現れた。


「こんばんは」

「……あぁ」


 何となく間の抜けた返事だったかと思いながらも、果たしてこれは本物だろうかと考える。


 ニチカは白いシンプルなワンピースの上に柔らかな薄水色のショールをはおり、足元は華奢なミュールだけという軽装だった。いつも腰のベルトにぶら下げている魔導球さえ見あたらず完全なる無防備状態である。おそらくはすぐ近くにあるポータルから直でここまで来たのだろう、森の中を抜けてきた様子はない。


 月の明かりに照らされた彼女は、なんというか、普段とのギャップも相まって妙に神秘的だった。


「まだ起きてたんだ」

「お前より先に寝るほど暇じゃないさ」


 いつもの軽口にも彼女は無反応。怪訝な顔をした師匠が口を開く前に、うつむき加減のニチカが言った。


「フェイクラヴァーズ用のキャンディー、切らしちゃって」


 分けてくれないかな、と続けた声が風に流れた。




「ほら、とりあえず七日分で良いか?」

「あ、うん、ありがと」


 作り置きから小袋に移し、ソファにかけて待っていた弟子の前に置いてやる。


 家に上げた段階で、オズワルドはニチカがこんな時間に来訪した真意を何となく察していた。キャンディーを切らしたというのはおそらく嘘だ。一度に三つや四つ服用するなどとバカな事をしなければまだ前回の分が十分に残っているはずだから。


 思い違いでなければ、おそらく――


「一回分、ここで済ませていくか?」

「……」


 顎をつかんでこちらを向かせれば、何も言わずに彼女は目を閉じた。


 顔を近づければふわりと洗い立ての髪の匂いがただよう。湯浴みをしたであろう肌はほのかに色付き、指先を押し返す弾力が心地よかった。


 幾度目かの口づけを離せば、ニチカは何かを言いたげな瞳でこちらをじっと見上げてくる。


 もう疑いようがなかった。抱え上げれば抱きつくように首に手を回してくる。ぴたりと密着する身体の奥からトクトクと脈打つ鼓動が彼女の緊張を伝えていた。


「いいんだな?」


 できるだけ優しく問いかけてやれば、しばらくした後、小さな頭がコクリと一度だけ動いた。




 隣の寝室へと運び、月明かりが差し込むベッドの上にトサリと降ろす。ショールはここに来るまでに落ちてしまい、華奢な肩が露わになっていた。


 少女は戸惑うような視線を窓枠へと移し、そこで救いを見出したかのように月を仰いで顔を明るくさせる。そして冒頭のおしゃべりへと繋がるわけなのだが……


「そんなどうでもいい話をするために此処に来たのか?」


 そう問いかけても少女は視線を合わせようとはせず横を向いたまま。その頬はかすかに青ざめ抑えつけた手は震えていた。


(まだ、時間が必要か……)


 心の中でため息をつく。


 想いを伝えあい、晴れて恋人同士となり一月が経とうとしているが、これまでオズワルドは少女に無理強いするような真似はしてこなかった(際どいところまで攻めたことはあったが、ギリギリじゃれ合いの域だ)


 いや、本音を言えばオズワルドとて男である、もちろん……なのだが、なにせ彼女には乱暴されそうになった過去がある。無理にすればその最低な男と同レベルとなってしまうではないか。


 だから向こうが求めてくるまでは、と決めていた。


 けれども知らず知らずの内に無言の圧をかけていたのかもしれない。焦りとプレッシャーがこんなあからさまな夜の来訪をさせるまでに追い詰めてしまった。


「嫌なら別に無理する必要は――」

「っ、違うの!」


 ニチカは勢いよくガバリと上体を起こした。見つめる視線が射貫くようにこちらにまっすぐ向けられる。吐息がかかりそうなほど近くで男は息を呑んだ。夜の湖面のような黒い瞳に星が瞬いている。


「嫌、じゃない。嫌なはず、ない。だって私……」


 言い淀んだニチカは、手を伸ばして首にしがみつくように抱きつく。上手く言い換えようと胸の辺りで一度溜めた言葉は、結局こみ上げる気持ちに押し出された。


「わ、たし、あなたになら何されてもいい、怖いけど、でも 後悔なんてしないから」


 そのかすれる声が、男の鼓膜を震わせる。


「私の初めて、貰って」


 先ほどから引きちぎれそうだった理性を切るには、十分すぎる一言だった。


 きつく抱きしめ、横抱きになるように倒れこむ。

 ぎゅうっと抱きしめた体勢のまま、ぼそりとつぶやく。


「悪い、優しくしてやれそうにない」

「え? ……っ」


 先ほどの比ではないほど性急に攻めたてられる。息継ぎもおぼつかない少女は、覆いかぶさる男の頬が上気しているのを目にして驚いた。苦しげに細められた瞳に宿る欲情の色が、体の芯を熱くさせる。


 普段、感情を表に出すことの少ない男にこんな表情をさせているのは他でもない自分なのだ。それがたまらなく嬉しかった。


「師匠、ししょう……あっあっ」


 するりと撫で上げられただけで声なき悲鳴が漏れ出る。オズワルドはその反応にさらに苦し気に眉根を寄せた。


「だからどうしてそう煽るような……!」


 熱い吐息が耳にかかり、もう少女は目の前の男のことしか考えられない。

 恥も外聞もかなぐり捨て、頭を引き寄せ自ら口づける。


「好き、大好きだよ……生まれてきてよかった、ここまで生きてきたのが間違いじゃなかったって、今なら言える気がするの」

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