48.少女、予防線を張る。

 甘い毒は少女の耳から入り、脳を直接揺さぶるような錯覚を引き起こした。それまでのふわふわした思考に冷や水を浴びせられたように、少女は酩酊していた気分から一気に覚醒する。


(え、あれ……?)


 そして今の状況にハッと気づく。月明りだけが照らす寝室の、しかもベッドの上で二人きり。二人の身体は密着するほど近く、掴まれた手首がドクドクと脈を打つ。


 まずい。これは非常にまずい。しかもさっき何かとんでもないことを口走ったような気がする。キスしてだとか嫌いにならないでとか。とりあえずニチカはやんわりと押し返そうと少しずつ腕に力を込めた。


「えっと、オズワルド?」


 男は少女の目をチラリと見ると、それだけですべてを察したかのようにニッコリと笑った。バカ丁寧な口調で挨拶をする。


「おはようございます、お嬢様」

「うん起きた! 起きたから! ヘンなこと言って悪かったってば! 正気に戻ったからもう――わっ」


 ふわりと抱え上げられベッドのふちに座らされる。向けられる笑顔が怖いと感じるのは、調子に乗り過ぎたのを自覚しているからだ。うっかり飲みすぎてテンションがおかしなことになっていた。今後いっさい魔導酒には口を付けない事を心の中で固く誓うのだが現状はどうにもならない。説教か、それとも嫌味か。身を縮こまらせていたニチカの耳に、予想外の言葉が飛んできた。


「せっかくですから、このまま楽しみましょうか」

「何を!?」


 思わず叫ぶ少女の前に男は跪いた。執事ごっこの続きなのか、右手を取りうやうやしく額をつける。


「すべてはあなたの望みのままに」


 壊れ物に触れるような仕草に、バクンと心臓が跳ねた。ニチカは戸惑って口ごもることしかできない。


「あ、あの……」

「指先は賞賛、手の甲は敬愛」

「っ、」


 言われた箇所に次々とキスを落とされ少女は息を詰める。唇が触れたところにまるで電流が走るようで、


「欲望、恋慕……執着」

「やっ……」


 手首、腕、首筋。少しずつ上がってくると同時にゆっくりと押し倒される。


「次はどこをお望みですか? 何なりとご命令を」


 視界を美しい青で占拠される。ふしぎな色だと思う。空の青とも海の青とも違う色。


「わたし、の、望み、は」


 流される。胸元に落とされた感覚に口を押さえる。首筋に顔をうずめた執事は低く囁いた。


「私の全てはあなたのものです、お嬢様」


 演技だと頭ではわかっているのに、熱く滴る声に心が揺さぶられる。意識はクリアになったはずだったのに、妖しい熱を灯されてぼぅっとする。


(もっと触れて欲しい、そのまま私を――えっ? やだやだ、何を考えてるの!?)


 少女は自分の思考に驚愕する。だがそれも与えられる刺激ですぐに押し流されてしまう。荒波のような感情におぼれそうだ。


「ニチカ……」

「あっ」


 不意打ちで名前を呼ばれ、へその奥をギュッと掴まれたような感覚が走り抜ける。切ない吐息を漏らした少女は視線を上げた。こちらを見下ろす顔に、両手を伸ばしかけた、その時だった。


「!?」

「きゃっ」


 突然二人の間に光の障壁が走り、暗い室内が一瞬だけ明るくなった。顔をしかめたオズワルドが少しだけ引き、ここぞとばかりにニチカはガバリと身を起こす。


「あーっ、あー!! び、びっくりしたぁ! おっきい静電気だったねぇ! 大丈夫?」


 わざとらしく大きな声を出して少女がそそくさと逃げる。内心舌打ちをした男は緩めていたネクタイを抜き去った。


「……」

「……」


 沈黙が痛いほどうるさい。顔の赤みが引かないまま、ニチカはその視線に耐えていた。やがて開いた口からは言葉が勝手にあふれ出す。


「こ、こういうの、冗談でもやめてよ」

「なに?」

「あなたは私をからかってるつもりなんだろうけど、私そんな経験ないから……その」


 本気だと錯覚してしまいそうになる。とは言えずに言葉尻を濁した。


「だめ……だよ」


 小さく呟いた少女は、シーツをギュッとつかんで俯く。やがて聞こえてきた男の声は、まるで感情というものを含んでいなかった。


「なるほど、俺とお前とじゃ釣り合わないと」

「だって、そうでしょ」


 この男がキスをしてくれるのはただの契約。命をつなぐために仕方なくしてくれるだけなのだ。そのことを自分に言い聞かせ、ニチカは口を開く。


「必要以上の事されても……困る」


 期待してしまう自分が恥ずかしい。ましてやこの男なら引く手は数多あまただろう。わざわざ自分のような子供に、本気になるわけがない。だから予防線を張った。気持ちの伴なわない行為など虚しいだけだから。


 どれだけの時間が流れただろう、次に聞こえてきた男の声は、どこまでも他人行儀な物になっていた。


「かしこまりましたお嬢様。差し出がましい振る舞いの数々お許しください」

「あ……」


 顔をあげると、男はすっかり執事モードに戻っていた。微笑みながら優雅に一例した彼は、おやすみなさいませと小さく呟くとそのまま部屋を後にした。


「……」


 残された少女は窓から差し込む青い月の光に照らされて、膝をギュッと抱え込む。


***


 部屋を出た男は、扉にもたれ掛かると赤い月を見上げ呟いた。


「俺はありえない、か」


 自分が危険な男だというのは自覚している。法をやぶり、人を騙し、今では立派なお尋ね者だ。


 あの少女は素直で単純で、驚くほど純粋だ。おそらく彼女の前には陽の当たるまっすぐな道が続いている。それに引き換え、自分が居るのはうす暗く曲がりくねった道だ。こちらに引きずり落とすのは許されないことなのだろう。オズワルドとてニチカが不幸になるのを望んでいるわけではない。


 今はなりゆき上、行動を共にしているがいずれ道は分かたれる。少女は「自分を一番に思ってくれる人が欲しい」と言っていた。だがどうやら自分ではその役目を担えないようだ。どこか傷ついたような色を瞳に浮かべた男は、自嘲的な笑いを浮かべた。


「賢明だな、ニチカ」


 扉一枚挟んだ気持ちは、お互いに届くことはなかった。


***


 よく朝、どこかギクシャクとした動きのニチカとは別に、オズワルドはいたって冷静に仕事をこなしていた。朝の食事を運び、紅茶をいれ、ニチカが食べている間に授業の支度をしてくれる。筆記具を点検していた彼は自然に話題を振って来た。


「授業は慣れそうですか?」

「あ、うん。文字はもうバッチリ読み書きできるし、旅してきた中で教えてもらった事とか結構役に立ってるよ」


 何を言われるかと身構えていたニチカだったが、普通に会話できることにホッとする。そうだ、この男との関係は師匠と弟子(今は主人と執事だが)。これ以上の関係の何を望むと言うのか。サンドイッチを食べた手を拭っていた彼女は、この場に居ない存在を思い出し首をひねった。


「そういえばウルフィ帰ってこないね?」


 その時、タイミングを見計らったかのように入り口から何かがよろよろと入ってきて暖炉の前でパタリと倒れた。憔悴しきったオオカミは突っ伏したままもごもごとうめく。


「うぅ……ひどい目に遭った」

「ウルフィ!」


 何があったのかと駆け寄ろうとしたニチカはぎょっとする。彼ご自慢のふさふさした毛並みが、あちこちカラフルな色に染められ編みこまれていたのだ。挙句の果てにはリボンやら帽子やら服やらの装飾がふんだんになされている。その内の一つを摘まみながら少女は問いかけた。


「どうしたのこれ」

「お帰りなさいジョンくん。お疲れ様です」


 にこやかにねぎらいの言葉をかけるオズワルドを情けない表情で見上げ、ウルフィは泣き言を漏らした。


「ご主人ひどいよ!! 犬好きのおじさんだって言ったじゃないか!!」


 涙目でうったえるピエロは憔悴しきっていた。毛を逆立ててブルブルと震えながら昨晩何があったかを打ち明け始める。


「一晩中『かわいいわねぇ~、ほんと食べちゃいたいくらい』とか言ってちゅーされてヘンな服着せられて、逃げようとすると魔法で引き戻されるし、授業で仕方なく出て行ってくれたから逃げ出せたけど、そうじゃなかったら僕一生あの人のオモチャだったよ!!」

「とっても犬好きの男性じゃないですか」


 物は言いようだ。しれっとのたまうオズワルドに向かってウルフィはクワッと口をかっぴらいた。


「違うよ! あの可愛がり方はなんか違うんだよ!!!」


 元居た世界でも着飾られた犬たちはこんな気分なのかとニチカは苦笑する。それにしても……と、今の言葉で引っかかったところを尋ねてみる。


「授業に出なきゃいけないって、そのおじさんここの先生か何か?」

「うんと、何て言ってたっけ? そうそう、自分のこと『ごろーせー』って言ってたよ」

「それって、この学校を裏で牛耳ってるって言う教授のことじゃない!」


 五老星。魔導酒で朦朧としてはいたがその単語には聞き覚えがあった。メリッサの悩んだ顔を思い出しながらニチカは驚く。その反応を見て執事は意外そうな顔をした。


「おや、お嬢様はご存知でしたか」

「うん、昨日友達になった子から――って、そうじゃない! なんでそんな危険人物のところにウルフィを行かせたの?」


 軽くにらみつけながら言うと、執事は悪びれもせずに白状した。


「『ある魔女』が魔女協会に追われているのは知っていますね?」


 目の前に居ますからねと少女は心で思う。オズワルドは今回の作戦をようやく打ち明けてくれた。


「どうも魔女協会と五老星は繋がっているようで、直接乗り込んで調べてやろうという魂胆です。その下準備のため使い魔に潜り込ませたと」

「えええ……」


 調べたいというのが、まさかそんなダイレクトな方法だとは思っていなかった。本当に大丈夫なのかと不安になっていると、顎に手をやった執事は思案しながらこんな事を言い出す。


「そもそも捕らえようとする理由が不自然です、混乱を引き起こす道具を売りつけているなどと今に始まったことではないのに、なぜ今さら?」

「混乱ひきおこすって自覚はあったのね……」


 思わずツッコミを入れたその時、授業開始五分前を告げる鐘の音が鳴った。焦った少女は残りの朝食をいそいで口に詰め込む。教科書類を渡してくれたオズワルドが戸口を開けてくれた。


「調査はこちらでやりますので、お嬢様はどうぞ存分に学んで来てくださいますよう」

「むぐっ、ぷは! 気をつけてね!」


 口の中の物を呑み込んだ少女は荷物を受け取り駆け出した。それを見送っていたウルフィは力なくパタリと尻尾を落とす。


「ねー、ご主人」

「ウィルです」

「ニチカと何かあったの?」


 不安げな問いかけに、それまで微笑を浮かべていた男の顔が少しこわばる。それに気づかないふりをしてオオカミは言葉を継いだ。


「ニチカ、なんだか辛そうだったよ」

「それはきっと慣れない環境に――」

「ウィルさんも」


 クーンと鳴いたオオカミは視線を合わせないまま、小さく呟いた。


「なんだか苦しそう」


 今度こそ男は表情を取り繕わなかった。執事らしからぬ皮肉気な笑みを浮かべ、嘘をつく。


「気のせいですよ」

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