夏に揺れる

のぶなが

夏に揺れる

 氷菓子は一瞬で溶ける。

 これは、それを証明した彼女と俺の出来事である。


   *


「なーつくん!」

「うお、びっくりした」

「うっそだー全然そんな感じしない」

「確かに」

 それは夏季講習の最終日。いよいよ夏休み本番だ! と息巻くやつも、塾なんかの講習会に頭を抱えるやつも、バイトの面接に励むやつも、空白のスケジュールに涙ぐむやつも、とにかく今日から各々の夏を過ごすわけである。

 かく言う俺は高校に上がってからというもの、本当に何に関しても無気力になったというか、行動力が著しく低下した。なので、夏休みといえどクーラーの効いた涼しい部屋でぼちぼちと課題を消化するしか予定はない、はずだった。

 この時までは、確かにそうだったはずである。

「ところでなつくん、私に何か言うことはない?」

「言うこと?」

ない、と思うけど、とか何とかもごもごと返す。安藤はふーん、ないんだ、と言って踵を返して歩き出した。

 どういう意味だろう? 俺は梅雨空のような気持ちを振り払いたくて、自分より歩幅の狭い彼女の後を追いこさないようについていく。

「……ヒントくれよ」

「ヒントぉ? ヒントねぇ……あっ!」

 突然歩みを止めた安藤の視線の先には、濃紺地に鮮やかな飴を散らしたような花火のポスターがあった。どうやら花火大会のポスターのようだ。日付は……。

「八月十五日って今日か」

「うん、そうだね」

 ヒントってこれのことだろうか。むしろ答えでは? そう思いつつ、俺はポスターを指さした。

「なあ安藤」

「う、ん?」

「これ、行くか?」


   *


なんでもないような無表情でなつくんは言った。しかしそれは、私にとってはものすごく満足げで勝ち誇った表情に見えた。

「ち……」

 違うわアホ!! と言いそうになるのを必死で抑え、私は満面の笑みを浮かべてみせる。

「超行く!」

「おう」

じゃあ七時くらいに迎えに行くから、と独りごちて、彼は私を追い越して歩き始めた。

 いや、嬉しいんだけど! 嬉しいんだけどね? そうじゃないんだよ!

 ……なつくんのばか。

 口の中で転がる言葉は、声に出すと泣いてしまいそうで、結局そこから出てはこなかった。

 ひどいよなつくん。私たち何年幼馴染やってると思ってんの。

 ――今日は私の誕生日なのに。


   *


 夏の夕方七時の御波町は言い知れぬ物悲しさがあった。蝉の声がだんだんと薄れ、陽は傾きかけており、その中をギンヤンマがつうと飛ぶ。空の彼方は砂の上の淡水のようにきめ細かく風に溶け、それが梢をさやさやと揺らす。早咲きの向日葵は夕日にこうべを垂れたところだった。

 そんな中を俺たちは歩いていた。俺の浴衣は祖父のお下がりだが、安藤のは自前だ。白地に艶やかな蘇芳色の朝顔が咲き乱れた柄は、肌の白い安藤によく似合っていた。

「それでさ、なつくん」

「ああ」

「今日何か言うことないかって聞いたのは、答えは出た?」

「え」

なんだって? 俺はてっきり今日の花火大会のことだとばかり思っていたが、どうやら違ったらしい。黙り込む俺に安藤は、ふ、と目を細めて笑いかけた。

「……まあいっか」

その意味深な台詞が、俺の鳩尾に漬物石を乗せたと言わんばかりにのしかかってくる。

「いいのか?」

「いいのよ」

どこか投げやりなその声は夏色の祭囃子に今にもかき消されそうだった。

 気づけば俺たちは、花火大会の祭会場に来ていた。朱の提灯がずらりと並んだ基臣神社はいつもの閑散とした雰囲気から一変して、まるで晴れ着を着てはしゃぐ子供のように明るい。辺りは徐々に淡い煤を溢して暗くなり、空にはいつの間にか白い月がぽっかりと浮かんでいる。見知った顔も見知らぬ顔も祭の韻に中てられてか、頬を紅潮させ目をきらめかせ――ああ、クレープ屋の屋台のおじさんの笑い声、「春に」の歌いだしに似てるな。この香りは焼き鳥だ。あとでかき氷食べないと。それから、それから……。

「なつくん」

 思考がぶつんと切れる。視界のピントを合わせると、目の前には不思議そうに覗き込んでくる安藤がいた。

「あ……ごめん、何か言ったか?」

「ええ? 聞いてなかったの? ショックだなぁ」

 唇を尖らす安藤にもう一度ごめん、と言って、俺はかき氷が食べたいと続けた。すると安藤はふふっと吹き出してから、

「もーそんなこと考えてたの? 何味がいい?」

と歯を見せて笑った。

 しかしその笑顔は、なぜだか腑に落ちなかった。


 しばらく俺たちは祭を楽しんだ。かき氷の冷たさに頭を抱えたり、全然当たらない射的をしたり。視界の端っこに輝いたのは、今ポイで掬い上げられた出目金。跳んで回る子供たちの草履の音が雑踏に混ざる。太鼓櫓で声高に歌うおじさんは、もう半分くらい酔っぱらっているようだ。

 そうしているうちに夜は更けていく。空はもうすっかり暗く、しかし薄絹で包んだような月影と、祭提灯の朱、煌々とした屋台の照明のおかげで、人の顔を識別できるくらいには明るい。

「あ、なつくん、今何時?」

「今……八時半だな」

「確か九時から花火だったよね。そろそろ見やすいところに移動しようか」

 本日二杯目のかき氷をストローでしゃりしゃり言わせながら、俺は太鼓櫓を見上げた。

「ああ」

 そのときだった。

「あ、広ちゃんだ。広ちゃーん!」

「菜津じゃーん!」

それは俺と安藤のクラスメイト、見明広だった。

 彼女は中学校の頃から安藤ととても仲が良いらしい。安藤の話の内容によく出てくる人物の一人だった。

「やあやあ谷藤もいたのか! 相変わらずお熱いことで」

「そ」

「そんなんじゃないよ!」

 俺が否定の言葉を発しようとした瞬間、安藤がものすごい勢いで反論した。その場にいた人が、安藤の大きな声になんだなんだと振り返る。俺も驚いて安藤を見ると、うつむいて表情は見えなかったがかき氷を持つ手がなんとなく震えている気がした。見明はといえば――。……ん? 今俺のこと睨んでなかったか? 気のせいだろうか。

「ごめんて菜津~、怒んないで」

「怒ってないよ。大声出しちゃってごめん」

 顔を上げてへらりと口元を緩める安藤が、やはり俺には不自然に感じた。いつもの安藤じゃない。それは、汗が引いて冷たくなった指先で宙の言葉を掴むように、漠然とした感情だった。

「そう? まあ、私はあんたらがくっつこうがくっつくまいが、カンケ―ないんだけどさっ」

 見明は手に持った綿菓子の割り箸をくるくると回して見せる。そして平然とした顔で、

「そう言えば菜津、今日誕生日じゃんね。おめでと」

そう、軽々しく言ってのけた。


「え」


 時間が息をひそめて、俺を取り巻いていた音がさっと離れていく感じ。

 あの、まさに場が凍りつく感じ。

 俺はとっさに安藤の浴衣の袂を掴もうとした。しかしそれは叶わず、ふわりと浮き上がった袂が俺の指を掠めていく。それはそのまま目の前まできて――。

「えいっ」

「いったぁ! いや、痛くはないけども! 何で叩くんだよ!」

 見明の頭部に振り下ろされた。

「広ちゃんのばーか。折角なつくんに問題だしてたのに!」

 頭頂部をさすりつつ、見明はぽかんとした顔をしたあと、後悔の念を表情に滲ませた。

「ごめん」

そう言うと、見明はしばらく黙った。安藤も何も言わなかった。俺は――何も言えなかった。

「じゃ、行こうかなつくん。広ちゃん、またね」

 安藤の声に引き戻された俺は、雑踏に紛れていく安藤を目で追った。

 そのとき、鳩尾に手刀が刺さる。見ると、見明がこちらを睨んでいた。

「馬鹿野郎だね、あんた」

「……」

「早く行きなさいよ。これ以上あいつを待たせたら、私が承知しないんだから」

「……ああ」

 見明の言っている意味はよくわかった。否定できない自分が情けない。

 俺は安藤を追って雑踏に足を踏み出した。


   *


「ごめん」

 そう言った自分の声は情けないくらい震えていた。あれ、泣いてるわけではないんだけどな。

 こういうときばかり、察しのいい自分の頭が嫌になる。

 菜津は、谷藤を待ってたんだ。谷藤に、「誕生日おめでとう」って言ってもらうのを、待ってた。数秒前の空気読めない発言をした自分を殴りたい。だって、知ってたじゃない。もう、ずっと前から知ってたじゃない。菜津が、谷藤のこと好きだって。それで、応援するって言ったじゃない。何考えてんの、私ってば。自分が一番邪魔してるじゃん。

「じゃ、行こうかなつくん」

 菜津は笑った。こっちが痛いくらい気丈に。

「広ちゃん、またね」

 彼女はそう言って手を振ると、雑踏の中に消えていく。

 隣の馬鹿野郎はショックでぼーっとしてるのか、今起きましたみたいな顔してやがる。腹が立って鳩尾に一発食らわせてやった。ついでに目いっぱいのガンもつけてやろう。

「馬鹿野郎だね、あんた」

 谷藤は何も言い返せない。

「早く行きなさいよ。これ以上あいつを待たせたら、私が承知しないんだから」

「……ああ」

 彼はやっとそれだけ絞り出すと、菜津の消えていった方へ走り出した。こちらを振り返ることはないだろう。だからいいんだ。ちょっとくらい泣いたって。

 ごめんね、菜津。私、お前が思ってるほどイイコじゃない。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだけど、このまま拗れることを望んでる。ごめんね、菜津、ごめんね。

 私の小さな独白は、誰も知らない夏の夜空へ溶けていった。


   *


 手に持っていたかき氷はとっくに溶けてしまっていた。俺はそれを喉に流し込んで、近くのゴミ箱にカップを投げ込む。

 安藤はどこだ。

 行き交う人込みの中で、蘇芳色の朝顔はなかなか見つからない。人の声がだんだんと遠ざかっていく。待って、待ってくれ。俺、言いたいことがあるんだ。


 ドン。


 それは真夏の空の下に両手を広げて笑う向日葵のように。

 見上げた夜空、そこには大きな枝垂れ花火。

「……あ」

 思い出す。

 小学二年生の夏休み。基臣神社の裏山の樹に登って花火を見た。二人だけの秘密基地だって言いながら。帰って親に話したらこっ酷く叱られて、あれから二度と登らなかったあの大樹。

 きっとあそこだ。根拠はないが、確信はあった。

 だから待ってて。走っていくから。


   *


 私は小さい頃、おままごとなんかよりも虫取りや木登りのが方が好きな子だった。なつくんは、そんな私に付き合って、一緒に遊んでくれた。あの頃は、なっちゃん、なつくんって呼び合う仲で、どこに行くにも何をするにもいつも一緒にいた。小学校に入って、友達が増えて、他の子と遊ぶことも増えたけど、それでも登下校は一緒だった。

 中学に入ってからだ。なつくんが、急によそよそしく――安藤、と私を苗字で呼び始めたのは。なんでだろうと不思議に思った。だけど、口には出さなかった。きっとそういうものなんだなって。まわりの子たちもいつの間にか男女では下の名前を呼ばなくなっていったから。私も変えるべきか迷った。でも、なんだか小学校までの私たちが否定される気がして、私は頑としてなつくん、と呼び続けたのだ。

「どうして名前で呼んでるの? 付き合ってるの?」

 と言われたことがある。私は曖昧に笑って誤魔化したが、そのとき気づいた。

 私は、私だけのなつくんに浸っていたかったのだ。

 その頃からだ。私がなつくんに対して何か特別な感情を持っていることに気づいたのは。

 それからはずっと待っていた。もしかしたら、なつくんも同じ気持ちなんじゃないか――という一縷の可能性に縋っていたかった。

 でも……もう待てないよ、なつくん。

 私、なつくんが好きだよ。


   *


 息を切らして走る。こんなに一生懸命になったのは久しぶりだ。あの一際大きく、途中から真っ二つに割れたように枝を伸ばしたあの樹。その幹に凭れる、蘇芳色の朝顔を見つける。

「安藤!」

 それは自分の声じゃない気がした。それでも構わなかった。伝えられるなら、何でもよかった。

 呼ばれるのを待っていたかのように、彼女はこちらに顔を向け、樹の向こうに咲く花火を背にして立った。

「あのね、なつくん」

彼女はそう前置いて、ほんの少しだけはにかんでみせたようだった。それが昔と寸分違わなくて、俺は息を飲む。

「何回も練習したんだけど、噛んじゃったらごめん」

 風が吹いて安藤の髪を揺らす。表情は逆光でほとんど見えなかった。

「あなたのことが、だいすきです」

その言葉も、今にも泣きだしそうな声も、自分で言って照れて頬をかくしぐさも。

 胸が痛い。走ってきたのとは別の意味で、心臓を鷲掴みにされて地面にたたきつけられているような。

 何も言えない。言葉が見つからないのだ。彼女に見とれていると言えばそれまでだが、俺はいつもこうだ。肝心な時に何も、言えない。自分の気持ちを言葉にするのが苦手な、臆病者。

「……あああああ!!」

 怒りとも悲しみともとれる咆哮に俺は目を見張る。

「……なつくんの、ばかぁ!」

 気が付くと、彼女の瞳から大粒の睦みあった菫色が零れ落ちていく。

「あほ! 鈍感! へたれ! 口下手! 女の子にここまで言わせといて、何も言わないとか何なの!?」

「安藤」

「なによ」

 思えば簡単なことだ。言えないなら、言わなければいい。その代り、行動に示す。それなら、いいだろ?

 俺は一歩、また一歩と安藤に近づく。せめて手が届く距離まで。

 安藤は眉を八の字にしかめて、ぽろぽろと涙を零し続ける。

 俺は手を伸ばす。安藤は動かない。そして、俺の右手が彼女の頬に触れるとき、そのまま涙を拭ってやる。

「……俺、その、何を言っていいかわからないから。ばかであほで、鈍感でへたれで、口下手、だから。でもこれだけ、言わせてくれ。――俺、お前の泣いてる顔、見るのは嫌だ」

「……」

「だから、泣くな」

 左手で安藤の右手を引き寄せる。触れる彼女は思っていたよりずっと華奢で、驚いた。いつの間にこんなにも体格差が生まれていたのか。昔は――なっちゃんは、俺より背が高かったのに。

「泣かないで、菜津」

 氷菓子が溶けていく。俺たちの曖昧な関係が終わりを告げた瞬間だった。

 花火は小さく砕けた飴を散らしながら宵闇を照らす。足元に見える基臣神社は、赤く煌いて見えた。時間が止まっているように感じた。

「もう、なつくん……遅いよ」

「……悪い」

 小さな手が、俺の背中を優しくなでる。それがなんだか子ども扱いされてるみたいで、ほんの少しむくれながら、俺は菜津の頬を両手で挟んだ。

 きょとんとした菜津の目が俺を捉える。

 少し考えて、やっぱりそれは恥ずかしくて、意気地のない俺は手を放す。が、彼女がそれを許さなかった。

「へたれめ」

 同じように俺の頬を両手で包むと、小さく呟いた。それからついばむような感触が唇を覆う。

「――え」

「あっほらなつくん! ナイアガラやってるよ」

「あ、え」

 基臣神社の境内の開けたところにライン状に引かれた、一際明るい花火を指さして、菜津は笑う。


   *


 溶けた氷菓子が元に戻ることはない。それを掬って、俺は、俺たちはこれから、また新しい関係を築いていくのだが、それはまた別の話。

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夏に揺れる のぶなが @nobunaga0108

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