第375話 紳士協定です

 照りつける日射しの中に立つ海部。

 着慣れた背広と猫背気味の野暮ったい姿、仕事に人間性を捧げた者が漂わせる軽く疲れたような表情。以前はどこにでも見かけた平凡な存在である。

 近くにいた大宮が軽い驚きの顔をしながら近づく。

「あんた、この辺りに隠れてたのかい? いやはや、すまない。いきなり悪魔とおっぱじめちまって」

「これはこれは、お気遣いありがとうございます」

 海部はごく普通の落ち着いた声で答えた。

「腹ぁ減ってないかい? 俺の食糧は多めに持って来たんでね、たっぷり食べても大丈夫なぐらいだ。菓子とかもあるんで遠慮しないでくれよ」

「ははぁ、あなたは良い人ですね」

「良い人と言われてもな、俺には余裕があるんで当たり前ってもんだろ」

「そこが良い方と言うのですよ」

 と、そこにチャラ夫が走り寄った。

「危ないっすよ、この人に近づいたら駄目っすよ」

 言うなり、大宮の腕を掴んで引きずりながら海部と距離を取るチャラ夫。そして両手を広げると、後ろの皆を守るつもりなのか、そのままバスケのディフェンスでもしているように素早く左右に動いた。

「ここは通さんっすよ。何しに来たっす!」

 チャラ夫の態度に、大宮だけでなく殆どの者は訝しそうにする。海部という名前を知る者は少数であるし、仮に名前を知っていても顔まで知っているわけではないのだ。何が起きたのかと遠巻きに見ているばかりである。

「いえいえ、皆様が何か楽しそうな事をしてらっしゃいますのでね。散歩がてら様子を見に来ただけですよ」

「とか何とか言って、何か企んでるっすね。はっ! 兄貴が計画した皆の戦力アップ計画を嗅ぎつけて偵察に来たっすね」

「おや、そんな事を計画されていたのですか。戦力アップと言うからには、近いうちに我々を攻撃する予定があるのですね。しかしご承知のように、キセノンヒルズには近づけませんよ」

「しらばっくれても無駄っす。DPの流れを見れば、そっちの弱――いだだっ!」

 後ろから伸びた手がチャラ夫の頭を掴んで強制的に黙らせる。

「コンプラ違反だぞ」

 亘は言葉少なに言った。 

 口の軽い者はついつい、その場のノリと勢いで物事を喋ってしまうが、仕事上の情報を他所で喋ればコンプライアンス違反になる。亘は公務員であるため、その辺りには割と厳しいのである。

 ただし違反を指摘したことで、信憑性は補足されてしまったことに亘は気付いてもいないのだが。


 亘は頭を下げる。

「あっ、どうも。お久しぶりです」

「いえいえ、どうも。どうも、どうもです」

 海部も同じように返した。

 社会人同士の会話スタートの軽いジャブの様な挨拶だ。

「しかしお久しぶりと言うほど時が経っておりませんね」

「それもそうでしたね。お散歩ですか。良い天気ですから、ちょうどいい」

「偶には運動しませんとね」

「運動は大事ですから」

 当たり障り無い会話をして、互いに微妙な距離感を探り合う。それが終わると、海部は視線を亘の手元に向けた。

「ところで、チャラ夫君は大丈夫ですか。声も出ないようですが」

「……ああ」

 亘はそこでようやくチャラ夫の存在を思いだした。適当に後方に放り投げると、空飛ぶチャラ夫をサキとガルムとスナガシが追いかけ――ただし受け止めたのはガルムとスナガシだけ――た。他の者も遅れて追いつく。

 悲鳴のような声が聞こえるが、亘と海部は気にもしていない。一挙手一投足とまではいかないが、お互いの様子を窺う。

「それで、御用件は何ですか」

「用件はありますけど、五条さんの様子を見に来た。それは事実で御座いますよ。なにせ暇なものですから」

「暇? ですか」

「キセノンヒルズの中も、いろいろ御座いますが。そういうのも何度か触りますと飽きてしまいますのでね。やはり趣味というものは大事と痛感するしだいです。私も五条さんに倣って刀剣でも触ってみましょうかね」

「それなら最初はオークションは絶対ダメです。値段だけに目が行きがちですけど変な刀ばかり集まって嫌になって趣味を止める原因なので最初こそきちんとした刀剣店で買うのがコツです。あと刃文の派手な備前伝系に目が行きがちですけどお勧めは大和伝系で一見地味でも出来が良くて何より値段が安い。もちろん新刀や現代刀だって良いですから自分の好きな時代を探すのも楽しいもんですから――」

 唐突に早口で語りだす様子に、海部は目を白黒させた。しかも亘が近づけば、引き気味となって距離をとる。余計な熱量で興味を減じさせている事は明らかであった。もちろん喋る方は少しも気付いていないのだが。


「まあまあ、それぐらいで。用件の方を話させて頂きます」

 長い話の合間を縫って、海部はなんとか口を挟んだ。

 辟易としているのはあきらかで、後方で見守っている者達も似た様子である。

「そうですか。でもアドバイスなら幾らでもしますから言って下さい」

「ええ検討しておきます」

「良い店ってのは人それぞれの感覚なので難しいですけど、良い品かどうかのアドバイスはできますよ。もちろん難しい世界なので絶対に間違えないということはありませんけど――」

「あのっ、そろそろ用件の方を」

「そうでしたね」

 亘は名残惜しげに頷いた。

 もはや海部が敵という認識を完全に忘れている様子さえある。一方で、海部のことを知らない者たちも七海やエルムが注意を促し警戒させていた。

「私が五条さんにお願いしたいのはですね、協定で御座います」

「協定? まさか刀剣類の……」

「違います」

 すぱっと海部は言い切った。そこには断固とした意思がある。

「協定と言いますのは、紳士協定です。紳士協定」

「はあ紳士ですか」

「つまり具体的には、お互いの服には手を出さない。破ったり汚したり、そういうことはしない。もちろん不可抗力は仕方ありませんが、故意にはしないという紳士としての協定ですよ。もちろん口約束で御座いますが、そこはお互いの信頼で――」

 服を剥ぎ取られ下着姿にされたことが、よっぽど嫌だったらしい。海部は熱心な口ぶりである。

 そんな話の最中に、チャラ夫が駆け戻ってきた。

「兄貴ってば酷いっすよ。それよかですね、こないだの、兄貴との服の脱がしっこに負けたからって何言ってんすか」

 大声でまくし立てる。

 七海から表情が消えて、神楽とサキが震え上がりアルルは明鏡止水の境地でアクセサリーと化している。事情を聞いている者は苦笑いだが、その他の集まっている者たち胡乱な目をした。


 後ろでヒソヒソ囁かれる雰囲気に亘は顔を引きつらせた。しかし、何かを言う前に海部の方が眉を寄せ反論した。

「脱がしっこなどとは酷いです。あれは私が一方的に脱がされただけなのですよ。むしろ私が被害者。ですけど、そこには触れずに協定という形で止めましょうと言っているのです」

「はんっ! そんなの、うちの兄貴なら問題ないっすよ! ほら、覚えてるっしょ。あの海でのひととき。皆の前で真っ裸で戦った兄貴の勇姿を! 全てをさらけ出しながら跳ねて揺らして戦う姿! まさに勇者! 伝説っすよ!」

 亘はチャラ夫の首根っこを掴んだ。そのまま後ろに放り投げるが、手加減は殆どしていない。放たれた矢の如く飛んで、砂煙をあげ地面に激突した。

 ちょっとしたクレーターの中でチャラ夫は横たわったまま動かない。

「チャラ夫さん、しっかり!」

「これは酷い。衛生兵っ! じゃなくって、神楽様!」

 大騒ぎする様子を、ちらっと亘と海部は見た。

「はいはい。ボクにお任せなのさ。うわっ白眼で涎と鼻水を垂らしてる」

「早く回復を!」

「ほんっとチャラ夫ってば余計なことばっかし言うんだからさ。ボクのマスターが脱がしっこなんて出来るわけないでしょ。そーいうのが出来るならさ、ボクが苦労するわけないもん」

「お願いですから回復を! 痙攣してますから!」

「そだね。あっ、でもなんだけどさ。マスターのことを悪く思わないであげてね。ちょーっとだけ力が入っちゃっただけだってボク思うよ。あと自業自得だし」

「分かりましたから回復を!」

 そんな騒ぎの中で亘は苦い顔をしたままだ。

 海部は困ったような笑いを堪えるような珍妙な顔をして額を叩いた。

「チャラ夫殿の言われるとおり、五条さんにはメリットのない話かと思いますが。しかし考えて下さいな。もしも私がされた事を、他の人にされたとしたら」

「…………」

 亘の脳裏に浮かぶのは七海の姿だ。もしも、七海の服に手をだされたとしたら。想像するだけでイラッとしてくる。否、イラッというレベルを超過しているぐらいだ。

「その御様子ですと紳士協定は受けていただけそうで御座いますね」

「もちろん」

「良かった、これでひと安心です。では――」

 海部は軽く身構えた。

「私も暇ですので、少しばかり前回の続きをいたしましょう」

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