第351話 優しい人はエゴイストかもしれない
「本当はここまでする気はなかった。様子だけ見て帰ろうと思っていた」
かつては人で賑わったであろう場所で、亘とアマクニ様は向き合っている。一緒に来た七海たちは傍らで大人しく静かに見つめるばり。雨竜くんだけは、はらはらと落ち着きなく様子を見ている。
「でも母親という存在は実に凄いね。たったひと言で君を変えてしまった。そう、君は変わった。変わりつつある。だから、私もやろうという気になったのだよ」
「はい?」
「ふふふっ、もちろん最後の一押しであって、君が自力で成長していたことも大きいのだがね。何にせよ、今の君であれば間違いなく大丈夫だ」
亘は困惑した頭で考え続けたが、目の前のアマクニ様は、そういった心情をお見通しに違いないと思い当たった。優しげな笑みにある面白がるような様子がその証拠だ。
意識を素早く切り替えるのは、これまでの仕事で培われた経験からである。
上司の指示が分からないまま突っ走れば途中でコケる。そうならない為には、しつこく思われようと、まず最初にしっかり確認しておくべきなのだ。それができずに何度酷い目に遭ったことやら。
「その大丈夫と言う意味は何です?」
「もちろん力を使いこなすということだよ」
アマクニ様は微笑む。
楽しんでいるのか、嬉しいからなのか、それとも別に理由があるのか、じっと見つめてくるので、亘は少しだけ緊張した。やはり女性に見つめられることは苦手だ。
「力というものは強さだが、心を病ませる誘惑の力でもある。それを使いこなすには、常に自分の心を律しなければならない。君にはそれができるだけの状態にある」
「そんなことは無いと思いますが…………」
「昨日の夜に女子会をして、いろいろ君の話を聞いたよ。君はいつだって一生懸命だったそうだね。他の者のために犠牲を厭わず、その姿勢は献身的ですらあったそうじゃないか。実に立派で自分を律していると言える」
「それは自分の為にやったからで、結果としてそうなっただけなので……」
「ん? そんな事は当たり前じゃないか」
小首を傾げたあとで、アマクニ様は整った顔に、わずかに優しさを滲ませた。道理の分かっていない子供に優しく言って聞かせる大人のような顔だ。
「どんな生き物も、自分の為に行動をしている。誰かを助ける行為も自分がやりたいからこそ、つまり自分が満足するための行動でしかない」
「え?」
「自己献身も自己犠牲も、突き詰めれば自分を満足させるために行われる。無論、それを自覚しないまま行う者もいるだろう。しかし、そうした者ほど残酷だよ」
全ての物事は自分の意志で行われる。生き物は自分の為に行動する。即ち、全ての物事は自分の為の行動だ。
例えば相手に優しくして迷惑がられる時もある。それは相手の意志を無視して自分が満足するために行われるからで、つまり優しさを振りかざした暴力に他ならないからだろう。優しい人はエゴイストかもしれない。
「他の誰の為でもない、自分がそうしたいから、そうした。大いに結構。自己満足だと自覚している君は立派だと、私は思うよ」
アマクニ様は何気なく言ったようだが、亘はその言葉の中に深い年月と数え切れない人の運命を見た重さを感じた。同時に、自分が本当に評価されているのだと思った。照れくささと恥ずかしさがある。
亘は考え込んでいたので、さあ始めようかというアマクニ様の言葉を、危うく聞き逃しそうになった。アマクニ様は優雅な姿とはかけ離れた仕草で、威勢良く腕まくりをしている。真っ白で美しい二の腕が日の光に眩しいぐらいだ。
「さあ、手合わせをしよう。本気で来なさい。そして戦いの中で力を使いこなす方法を見出すといい。私が手助けしてあげよう」
そう言って、すたすた歩いてアマクニ様は少し距離をとった。
左右に壁のように存在するビルと駐車場に挟まれた空間の、真っ直ぐに道路が延びた場所で、亘は困り果てた。ちらりと助けを求める視線を七海たちに向けるが、どうやら事前に話がしてあったらしく、特に何も言わない。それどころか、仕方なさそうに肩を竦められてしまう。
ここに車で来るまでの間に、皆の口数が少なかった理由はそれだったに違いない。
「どうしたのかな? 仕方がないね。来ないなら、私からいくよ」
アマクニ様は仕方なさそうに笑ったが、突然に近づいてきた。何気ない足取りで、あっという間に目の前に来た。ひょいと伸ばされた手は自然な動きであって、そのまま亘の額を指先で弾いた。
瞬間、亘は凄まじい衝撃を受け後ろに引っ繰り返ってしまう。頭がもげるかと思ったぐらいだ。路上で大の字になって空を見上げれば、目眩がして視界がちかちかとしていた。
ふと、チャラ夫との稽古を思い出す。ここまで酷い事はしていないはずだ。多分。
「そらそら、寝ていていいのかな。動かないでどうする?」
聞こえてきた声は、どこか遠くから聞こえてくるかのようだ。辛うじて目を向けた先で、ふわりと跳んだ姿は、まるで重力など感じさせないぐらいだ。嫋やかに迫る姿に、亘は全身に寒気を覚え、咄嗟に横へと転がって逃げた。
アマクニ様が着地と合わせて踏みつければ、アスファルトの道路が大きく窪んで、亀甲状にひび割れが広がった。あのオオムカデを一撃で消し飛ばせるという話から考えれば、かなりの手加減ぶりだろう。
立ち上がった亘は、先程の指で弾かれた額を手で押さえている。
「さあ、もう一度小手調べをしよう。そろそろ戦って本気を出さないと大変だよ」
言ってアマクニ様は、また静かに向かってきた。少しも体幹が揺るがず、平素な動きの歩みだ。ひょいと手が突き出され、亘は先程の一撃を思い出し両手で額を防御する。しかし、それは全くの見当違いだった。
アマクニ様の手は亘の胸を、とんっと押した。
「がっ!!」
悲鳴と言うより一瞬で息が吐き出されたような声をあげ、亘は吹っ飛んでしまう。そのまま滑空してビルのシャッターに激突、金属が大きく歪んで激しく嫌な軋み音が、静かな空間に響く。
普通の人間であれば全身打撲で肋も折れて、更には血反吐を撒き散らして、間違いなく死んでいるに違いない。だが、亘はそうではなかった。
「本気でと言われても……」
流石に打撃は効いていて、痛そうに顔をしかめて、胸に手を当てている。息をするのも辛い状態だが、逆に言えばそれぐらいの範疇でしかないダメージでもあった。
「アマクニ様と戦うなんて嫌ですよ」
「そうかい? だったら仕方がないね。君の仲間も合わせて攻撃しようじゃないか。こういう場合も考えて、その子たちを連れてきたのだからね」
「なっ!」
亘は驚き声をあげたが、アマクニ様は特に気にもせず、ピヨは仕事で来ないとはけしからんと呟いている。そして美しい顔立ちが冷酷さを帯びた。
「脅しじゃないよ。私はやると言ったことはやるから」
じろりと視線を巡らせ亘の大事な者たちを見据えれば、その三人が三人とも身構え戦いに備えている。どうやら本当に攻撃するつもりらしい。
「そちらも覚悟はいいかな?」
「もちろんです。実は五条さんへの攻撃が酷くて怒ってますから」
「実に良いね、
今の一撃を七海たちが受けてしまう。その考えは亘を、ぞっとさせた。
アマクニ様は神で人ではない。
人が無造作に他の生き物を蹴散らせるように、神もまた人など歯牙にもかけず、人を攻撃することに躊躇いはない。流石に命こそ奪わないだろうが、手加減の度合いはどんなものかは分からない。
そう考えただけで、亘の全身が熱くなる。
七海たち三人が痛がって苦しむ姿を見たくない。守らねばと考えるのは、亘にとって三人が庇護すべき、弱くて守らねばならない存在と思うからである。そして何より、自分のものを傷つけられたくはないからでもある。
亘は身体の中に意識を集中する。
その中で蠢くDPの存在を捉え、それを巡らせ強め暴走させだす。途端に全身に力が込み上げるが、それだけでは及ばない。もっと強く激しく力を求めていけば、気持ちも強く猛々しいものへと変化した。
本気でと言われた言葉を思い描き、それであれば本気でいってやろうと考える。望み通りに本気で容赦なく全力で攻撃すればいいのだ。
傍らにあったコンクリート塊を掴むと、これを投げつける。恐ろしい勢いと音をたて飛翔するが、それをアマクニ様は片手で叩き落とすと、待ち構えていたように向き直った。
明るい日射しが差し込み、亘とアマクニ様を照らす。
路上に散るガラス片にも光があたり、静かな空間にキラキラと輝いている。先程の衝突で大きく歪んだシャッターから金属片が落下、大きな音を響かせるが、それを合図に亘は思いっきり飛び出す。
戦うべき相手へと拳を振り上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます