第十九章

第291話 仲間として認めている

 広めな執務室の壁は白い。

 天井の化粧ボードは、トラバーチン模様と呼ばれる不規則な虫食い穴のようなデザインで、ところどころに雨漏りの水染みが存在する。剥き出しで設置された蛍光灯は昔ながらの直管で、そろそろ交換時が近いらしく電極付近が黒ずんでいる。

 壁や窓付近の隙間をガムテープで塞いである様子を見るにつけ、官公庁の建物はどこも同じなのだなと、五条亘は思っていた。

 ただし目の前で眉を寄せる正中は天井など見ていない。

「私は竜退治をお願いしたはずだが……」

「そうですね、そう指示されました」

 正中の言葉に亘は天井から視線を戻し素直に頷いた。

 支給品の黒いジャケット――特殊部隊から流用された戦闘服――の姿で腕を組み、そこから顎の辺りを擦っている。偉そうな仕草だが、本人にその意図は少しもない。ただ単に、そうやって腕組みせねば手持ち無沙汰というだけだ。

「分かっているのであれば、どうして竜を仲間にして帰ってくる?」

 正中は亘の足元を指さした。

 ちょこんとした様子でいる竜は、亘の新たな従魔になった雨竜くんだ。

 NATS本部での報告で、正中には竜退治の真実を告げておこうと呼び出し紹介しているところであった。

 あのダム湖では巨大な姿を誇っていたものの、今はデフォルメされたSDキャラの如く小さくなっている。竜顔を緊張させ生真面目に背筋を伸ばし二足歩行状態だ。

 初めての場所、初めての環境、初めての状況に落ち着かなげだったが、正中の言葉を聞いて項垂れてしまい、両手の指を付き合わせ居心地悪そうにしている。

 亘は顎を擦っていた手で口元を覆い驚いたような素振りをした。

「えっと、マズかったですか……」

「マズいマズくないの以前にだね。そもそも、どうして倒しに行った竜が仲間になるのか。私には理解し難い。これをどう報告をしろと言うのだ」

「じゃあ、なかった事にしましょうか。残念だな、雨竜くんは良い従魔だったのに。こうなっては恨むのなら正中さんを恨んでくれ」

 亘が視線を巡らせた先で、雨竜くんはガタガタ震えだした。涙目となって腰が抜けたのか、くたくたと座り込んでしまう。

 かつては何度となく襲われ、死を味わわされた相手。無理矢理仲間にされたが、これで殺される事だけはないと思い、無理矢理納得していたところ。やはりシリアルキラーはシリアルキラーだったと、もう完全に心を挫かれている。

 そこにいたイツキが素早く前に出ると、両手を広げ雨竜くんを庇った。

「小父さん酷いぞ。雨竜くんを苛めるな」

「おっと、勘違いするな。正中さんが倒せと言うからで、仕方ないだろ」

 亘は心底困った様子をしてみせ、物憂げな息を吐きさえした。

 たちまち、イツキの鋭い視線は正中に向けられる。

 これには、さすがの正中も慌てた。

「待て待て、待ちなさい! 別に倒せとは言ってない」

「そうです? てっきり正中さんは、竜を倒したと報告するためだけに、可哀想な雨竜くんをこの場で仕留め二度と復活出来ないようにして、既成事実をつくれと命じているのかと思いましたが」

 ついに雨竜くんはめそめそ泣きだし、短い手で涙を拭っている。

 このあまりにも哀れな姿に、正中は強い罪悪感を抱いてしまった。なおNATSの者たちは、とうの昔に雨竜くんの味方だ。

「そのような酷い事は、私は少しも考えていない。そちらの竜の、雨竜くんだったかな。君の安全は、この私が必ず保証しよう。どうか我々の仲間として、これから頑張って欲しい」

 雨竜君は、今度は嬉し涙で両手で顔を覆い何度も頷きだした。その周囲に皆が集まり、優しく親しげに声をかけ撫でてやったりと……もうすっかり人気者だ。

 特にNATSの実働部隊や一部の者は何か通じるものがあったらしい。見慣れない悪魔の、しかも竜という存在を完全に受け入れ仲間として認めている。

 めでたしめでたしだ。

 亘が満足していると、イツキが軽く口を尖らせちょっと睨んで文句を言う。

「でも、小父さんも酷いんだぞ」

「別にそんな事はないが」

「雨竜くんを泣かせたのは小父さんなんだぞ」

「結果としてそうなったが、しかし雨竜くんの事は大事な仲間と思っている」

「あんま酷い事すると、小父さんのこと嫌いになっちゃうぞ」

「すまない。以後反省する」

「ちゃんとだぞ」

 口をへの字にしたイツキに睨まれ、今度は亘が頭を掻き大弱りだ。

 そんな様子に同席していたサキは意外そうな顔をする。

 式主たる亘の性格は他人に対する警戒心が強い。もし怒られ、さらには嫌いという言葉を使われると、間違いなく深く傷ついてしまうだろう。しかし、このイツキという人間に対しては、それが全く見られないのだ。つまり、それだけ信頼があるという事なのだろう。

 なるほどと小さく呟いて、サキはイツキに対する仲間認識を強めておいた。


◆◆◆


「そっか、雨竜くんも仲間なんだね。よろしくね」

 合流した神楽はあっさり言って雨竜くんを認めた。

 これが猫であれば先住が新入りを受け入れるまで時間もかかり威嚇や喧嘩もあるところだが、悪魔同士はそれがないらしい。

 ロビーという場所でも、神楽は亘にベッタリ甘えている。

 もしかすると、それが雨竜くんに対するマウンティング行動かもしれない。もしくは、ただ単に離れていたので寂しかっただけかもしれないが。

 何にせよ雨竜くんにとっては、小さな虐殺者の興味が自分にないと知って、表情が崩れるほど安堵した。そしてイツキに呼ばれると目を輝かせ、ぽてぽてスキップするぐらいに駆けて行ってしまった。

 そして亘は神楽に纏わりつかれたままだ。

「あのさそれでさボクさ、マスターから言われた通りしっかり頑張ったんだよ。いっぱい悪魔とか倒してさ、ナナちゃんたちもしっかり守ったの。それからあとね――」

「なるほど、そうか」

「空にいたのも全部倒してさ、あとついでに人間の怪我とか直してあげたでしょ。お礼にお菓子貰ったけどさ、あっそれ内緒にするんだった。ちょっと今のは忘れてね。それでね、ボクね建物とかは出来るだけ壊さないように気を付けたの。偉いでしょ」

「そうか偉いな」

 神楽は亘の頭に張り付きながら喋り続ける。先程からずっと、この調子なのだが、しかし亘は穏やかに頷き少しも嫌がらず聞いてやっている。だから神楽のお喋りは止まる様子はない。小さな手を伸ばし亘の頬をペタペタ触れ、顔をスリスリする。

「それでねボク頑張って攻撃してババーッて倒してさ。ナナちゃんたちの様子を見に行ったらさ、ドッペルゲンガーが居てさ。ドッペルゲンガーって知ってる? 姿とか本当にそっくりになるんだけどさ、でもナナちゃんってば凄くってさ……あー、うん。この話は止めとくね」

「そう言われると、むしろ気になるな」

「ええっと……別に大したことないよ。つまり何て言うかさ、ナナちゃんがしっかり偽物を見抜いて倒したってだけの話だから」

「なんだそうか。流石は七海だな」

「うん、そだね」

 神楽は肩にいる。

 だから、その表情は亘には見えない。てっきり自分の活躍を語りたい神楽が七海の話を控えただけだと思っているだけだ。

「別に七海が活躍したからと、神楽の頑張りを否定したりはしないぞ」

「そだね、マスターはそのまま幸せでいて」

「なんだそれは?」

 亘は首を傾げるしかない。

 しかし神楽はそれには答えず、どこか遠い目をしたまま頷くばかりであった。

 そんなところに、ぱたぱたと上機嫌な足音が聞こえて来た。

 亘にはそれが七海だと気付き振り向くのだが、やはりそうで満足げに微笑する。足音だけで分かった自分も中々のものだと感じ入ると、しかし七海も同じぐらい自分を理解してくれているのだろうかと少しだけ不安になった。

 ただし、そんな不安も次の言葉を聞くまでだ。

「お帰りなさい!」

 穏やかな優しい顔立ちは笑顔に彩られ、溌剌としている。自分に会えた事を心から喜んでくれているように見えるが、しかし自意識過剰かもしれないと亘は自戒した。どこまでも自尊心が低いのである。

「向こうで雨竜くんに会いましたよ。雨竜くんも仲間になったのですね」

「いろいろあってな。これで陸海空のそろい踏みだ」

「凄いですよね」

「七海のアルルだって凄いさ」

「はい、とっても頼りになります」

 七海の手に包まれたアルルは、綿毛のような頭に線のような手をやって照れている。実際のところ、そのレベルは極めて高く七海と共に高い実力を備えている存在だ。ほとんど目立たないが、本当は凄いのである。

 微笑む亘を七海はじっと見つめた。

「五条さん、少しお疲れな感じですね」

「そうか? 別にそんな事はないが」

「いいえ、特に肩が凝っているように見えます。そうですね、肩を揉みましょう。任せて下さい。椅子を持って来ますから、待っていて下さいね」

 七海はテキパキと決めて、向こうに置かれたパイプ椅子を取りに行った。しかも、どのパイプ椅子が良いのか吟味までして熱心だ。

「やれやれ、そんなに疲れてないのにな」

 その女の子らしい後ろ姿を見やり、亘は軽く鼻の下を伸ばし照れて困って喜んで落ち着かない。だが、神楽は妙に真面目な顔で頷いた。

「あのさ、ナナちゃんが言う事だから間違いないよ。マスターは疲れてるって、ボク思うよ。マスターよりマスターのことを把握、ううん。理解してるから疲れてるって分かるのだからさ」

「七海に理解されているか。なるほど……なるほど照れるな。しかしな、理解しているからって疲れが判る筈なかろう」

 だがしかし、神楽は静かに頭を横に振った。

「そなことないよ。ナナちゃんはさ、マスターの動きと反応速度を見てさ。それを普段と比べるとかして疲れ具合を判断したって思うからさ」

「お前は何を言っているんだ」

「うん、分かんないよね。そだね、ボクも分かんないからさ」

 カチャカチャと音をさせつつ七海がパイプ椅子を運んできた。それを置いて広げて座れる状態にすると、冗談めかした仕草で手で指し示す。

「はいどうぞ、座って下さい」

「そうか」

 いそいそと椅子に腰掛ける亘だが、ちょこんとしか言い様のない風情で座っている。後ろに回った七海に緊張しつつ、その気配を感じては目を右に向けたり左に向けたりと落ち着かない。

 そして七海の手が触れたところで背筋を軽く伸ばすぐらいだ。

 細く綺麗な指が優しく亘の肩を揉みほぐす。しかも、どんどん上手くなっていく。まるで揉むほどに、どこが良いのか把握されているかのようだ。

「久しぶりにダムに行ったけどな、まあ見事な操作具合だったな」

「そうなんです?」

「うん、ゲート開度を最大にしてフリーフロー状態にしてあった。あれなら流入と流出が同じだからな。操作していた奴らは、そこまで考えてから逃げたのだな」

「なるほど凄いですよね」

 答えながら七海は極限まで集中し、寸分漏らさず亘の様子を観察し肩を揉んだ際の反応を把握し頷いている。それを見る神楽は呆れたような顔で頭を振っている。

 だがしかし、亘は気持ちよくされ気持ちよく喋り蕩けてしまいそうな気分であるばかり。そんな時間がずっと続くといいと思い――キビキビとした足音に気付いた。

 誰だか分からないが、この心地よさを邪魔する不幸の使者である事は間違いない。そしてそれは間違いではなかった。

 相手は正中だ。

「五条君、そろそろいいかな」

「「…………」」

「予定していた打合せの時間だよ」

 亘と七海に睨まれ、それでも正中は要件を告げた。おそらく他の誰も声をかけられないため、わざわざやって来たのだろう。なかなかにフットワークが軽く、しかも胆力のある男なのだ。

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