第十五章

第204話 いちゃつきゾーン

 長い行列の中で、五条亘はぼんやりと視線を上げた。天色をした秋空は、爽やかに澄んでどこまでも続いていそうなほど高く美しい。

 そうとはいえ、日差しは夏の気配を残し焼け付くようだ。おかげで足元から押し寄せるアスファルト舗装の熱気はうだるようだった。

「ふぅっ」

 暑さにやられ息を吐き、僅かに滲んだ首筋の汗をハンカチで拭う。

 黒のラガー系シャツを選んだのは失敗だったに違いない。いや、それより最大の失敗は帽子を用意しなかったことか。日差しに含まれる紫外線が容赦なく頭部を襲っているのを感じる。もちろん髪は豊富だ。その点は間違いない。

 しかし、こうしたダメージが蓄積することで致命的ダメージに繋がるのだ。

「ふぅっ」

 先ほどとは違うため息が出るのは、ふいに風が押し寄せたためであった。

 人心地がつく涼しさで髪へのダメージも払拭されたような――実際にはそうではないだろうが――気がした。心地よさに目を細め、周囲を見やる。

 前も後ろも人の列だ。

 興奮した子供が走り回り、母親に叱られ呼び戻されると父親に抱っこされ拘束されたりしている。同じような家族が多数おり、あとは友人や恋人といった組み合わせだ。誰もが明るい顔をして、軽い興奮状態で笑っている。

 遊園地なので当然と言えば当然だろう。

 より正確に言えば遊園地のゲート外で開園を待ち律儀に長い列をつくっているところであった。子供が柵に駆け寄り、その向こうに見える観覧車やジェットコースターに興奮の声をあげる。

 これからの楽しみに心躍らせ、開園を楽しみにしている人々の中で、一人で並ぶ自分になんとなく引け目を感じてしまう。

「ふう」

 今度は気落ちした息を吐いた。

 もし一年ほど前の亘を知る者がいれば、その変わりぶりには驚いたことだろう。軽く腕を組んだ姿には、落ちついた大人の雰囲気。背筋を伸ばし軽く胸を張り、どこかしら堂々として佇んでいた。

 かつてのような、人目を気にし自信のない様子は……ちょっとだけある。


 亘は耳をつく、けたたましい笑い声に眉を寄せた。その発生源は目の前でいちゃつくカップルであった。かなり鬱陶しい。

 言明しておけば、羨ましいとか嫉妬している感情はない。全くない。

 ピンクのハート柄シャツをペアルックで着るようなカップルなんて、誰が羨ましく思うだろうか。先程から視線を上に向けたり、周囲に目をやっていたのは視界に入れたくないぐらいだ。

 ペアルックは『恐らく』と付けねばならない。ヒョロリとした男はともかくとして、横幅二人分の体型をした女は推定ハート柄なのだから。

 そんなカップルは、すこぶるハイテンションだ。頭につけた触角のようなカチューシャを揺らし、ケタケタケタケタと歯茎を剥き出しながら笑いをあげている。間違いなく鬱陶しい。

 その大きく開いた口にゴミでも放り込みたい気分だ。

 楽しい気分なのは良いことだろう。しかし、程度ってものがある。何事にも、ある程度の自制は必要。周囲への迷惑になる行為は慎むべきだろう。

 女が鼻詰まりしたような声で甘えた言葉を放ち、幼児語を使う男を抱きしめる。これが迷惑行為と言わずして、何を言おうか。

 いつもの亘であれば、嫌なことがあれば、さっさと身を引くのが常である。それを我慢し耐えているのは理由があった。

 あと少しで開園ということもあるが――。

「それにしたって遅いな……っと、ちょうど来たか」

 盛大にため息をつき視線を向けると、向こうから歩いてきた赤い細フレーム眼鏡をかける少女の姿が目に入った。


 青いブラウスに白のスカートといった清楚な姿で、少女らしさと大人っぽさが感じられる。手足はスラリとしてスタイルも良く、背筋を伸ばした歩き姿からして美しい。自然と周囲の視線を集める可憐さと美しさがそこにあった。

 もし気の利いた男がいれば、即座に声をかけに行くのは間違いない。実際、周囲には互いを小突き合い少女を見やる様子も多かった。

 気づいた亘は慌てた。

 向こうは一人で歩いて目立っても、亘は大勢の中の一人。見つけるのは簡単ではないだろう。きょろきょろと列に目をやり歩く姿には、少し困った色が見て取れた。

 亘は軽く手を挙げ、指先を動かし招いてみせた。気づいてくれなかったら間抜けだな、と不安に思っていたのだが少女は――七海は気付いて表情を輝かせる。

 安堵と喜びの顔で駆けてくるではないか。

 それは思わず目を奪われてしまうぐらいの可愛さだ。この子が自分を好きと思ってくれて、それを態度に示してくれている。それだけで天にも昇る心地となる。

――いかんいかん。

 しかし亘は自制する。

 これまでの経験からすると、調子にのると後で必ず失敗するのだ。

「お待たせしました」

 しかし目の前で、意外に子供っぽい仕草でピョンッと七海が立ち止まると、そんな自制なんて一瞬で消し飛んでしまった。吸い込まれるような瞳で見上げられるだけで、もう気分は最高だ。

 だらしなく緩みそうな顔を堪えるだけで精一杯となる。

「実は車を探して迷ってしまいました」

「確かに駐車場も凄い台数だからな。これは帰りに見つけられるか心配になるな」

「大丈夫です。もう把握しましたから」

 七海は周囲に軽く会釈し隣に並んだ。

 優しげな顔立ちに落ちついた雰囲気で、同い年の少女よりずっと大人びている。しかし、先程のように子供らしい仕草もある。きっといつまでも変わらず、この雰囲気を持ち続けるに違いない。

「はい、これ。車の鍵をお返しして起きますね」

 小さく笑う七海からスマートキーを受け取る。無骨な革小物を付けたそれが素晴らしい贈り物のように思え、そっとポケットに仕舞い込んだ。


 七海はとても上機嫌だ。ニコニコしながら見上げてきて、抑えきれない嬉しさに満ちているようだった。

 亘が誘って以来ずっとこの調子で、心ここにあらずだったらしい。

 その情報はエルムと、七海の家に居候するイツキの両方から様子が変だと連絡があって知っている。そして、実際に今日などは珍しく車内に忘れ物をしてしまったぐらいだ。

 間違いなく七海は浮かれている。

――こうも喜ばれるなら、もっと早く誘えば良かった。

 亘は嬉しさの中に微かな後悔を交え苦笑した。

 『デーモンルーラー』のアプリを通じ知り合った仲間で、友人であって戦友。そして互いに好きだと分かっている相手だ。

 実のところ自分のような者が彼女の隣に立って良いのかといった悩みもある。年齢差もあるし、住む世界だって違う。そもそも自分という存在が不釣り合いなことも分っている。

 それでも気持ちは抑えられない。ある決意と共に、この遊園地へと誘ったのだ。

――関係をさらに進めるためには、つまり要するに……。

 思考の中ですらウニャウニャっと言葉に出来ない亘は一人勝手に緊張しきる。

 今日の決意を胸に朝まで寝付けなかったぐらいだ。

 亘は気を落ち着けるべく辺りを見回す。

「しかし遊園地ってのは随分と混むもんだな。入場前だってのに凄い人の数だ」

「前にエルちゃんと来ましたけど、ここまで混んでませんでしたよ。列も半分ぐらいだったでしょうか」

「そうなのか。ふむ、時期によって違うのかもしれんな」

「きっとイベントも関係しているのでしょうね。ところで五条さんは遊園地に来たことはありますか? そのう、誰かとデートとか……」

「まあなんだ……これが人生初だよ。そう初めてなんだよ、はははっ……はぁ」

 亘の笑いは少しずつしょんぼりしていき、最後は自嘲めいた寂しげな息をつく。これまで友達なし彼女なしで遊園地に来る機会など皆無であった。ついでに言えば、親に連れて来て貰ったことさえないのだ。


 背中を煤けさせた亘の横で七海がグッと手を握る。

「じゃあ私が初めての相手ですね。お任せください、五条さんの初めてを頑張ってリードしてみせます!」

 聞きようによっては、かなり危ないことを言っている。

「そ、そうか。なんだか自信満々だな」

「ええ今日の為にしっかり調べてきましたから。しかもですね、じゃんっ。これがエルちゃんが用意してくれた攻略本です」

 友人の名前をあげ、七海はポシェットから小さな冊子を取り出した。少し得意そうに胸を張っているが、そんなことされると目のやり場に困ってしまう。なにせスタイルが良いので。

「そうか。どれ、事前勉強で見せてくれるかな」

「待って下さい。五条さん用に預かったのもありますから」

「これ手作りなのか……」

 簡易な中綴じの冊子を渡された。

 中を開けば、遊園地の簡易マップに画像を小綺麗に配置した体裁よいつくりになっている。さらにメモが書き込まれ、分かりやすく情報がまとめられていた。知り合いの少女であるエルムの意外なマメさを初めて知った思いだ。

 しかしだ。

 『ここでキーッス!』、『好感度アップポイント!』、『いちゃつきゾーン』などと、花丸とともに余計な書き込みがされているではないか。後書きには『健闘を祈る! 事後報告よろ』などとあり――そっと冊子を閉じる。

 ありがたい情報だが、初っぱなからハードルが高すぎではないか。もちろん、今日の目的はそっち系統であるのは間違いないが、最初から高い目標を設定されては困るではないか。

――いや、ここで怯むわけにはいかんのだ!

 空を眺め拳を握り決意を新たにする。

 まずは手を繋いで、雰囲気の良い景色を見ながらさりげなく。そう、さりげなくキスなんぞするのだ。きっと恐らく多分出来るはず。可及的な努力に基づき実行するべし。高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応すればいいのだ。

「そろそろ開園みたいですよ。ほら、スタッフの人たちが準備しだしてます」

「さよか」

 嬉しげな七海は開園が待ちきれないといった様子だ。寄り添うぐらいの距離で、なんやかやと楽しげに話しかけてくる。距離感は近いが、亘もすでにそれが当たり前のように意識していない。最初に会った時は、怪しまれない立ち位置で悩んでいたのが嘘のようだ。

 流れる曲が活発なものに変わる。

 開園を告げるアナウンスが流れた。

 列が動き出す。

「はぐれないようにしないとな」

「じゃあ、こうすれば大丈夫ですよ」

 七海が抱きつくように腕を絡めてきた。至福の柔らかさに腕が触れ、亘は鼻の下を伸ばしそうになる。けれど情けない顔を見せぬよう、頑張って表情を取り繕いゆっくりと歩きだす。

 前に並ぶカップルは妙にしおらしく、また周囲の男は砂を噛むような侘しい顔をしていた。

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