第十一章

第129話 非日常の言葉

 天井吊りの古い扇風機がブオブオと鈍い音を響かせるが、生温い風を送り出すだけで涼しさは全くない。むしろ紙書類をバタつかせ、時に飛ばしてしまう鬱陶しいものでしかなかった。

「ふうっ」

 官公庁の地方事務所の執務室にて、五条亘は額に浮き出た汗を袖で拭う。冷や汗の多い職場だが、これは純粋な暑さからくる汗だ。

 隣の席では後輩の水田がウチワで顔を扇いでいたが、やおら立ち上がると壁際へと向かった。

「超暑すぎ、こんなんじゃ仕事になんないですよ。エアコン点けますよ、そんじゃあポチッとな」

 壁面パネルの前で室内を振り仰ぐと、声をかけながらスイッチを押す。ワンテンポ遅れ、業務用エアコンが軋み音をさせながら稼働しだした。水田は無意味な扇風機を停止させ、開け放たれていた窓を閉めて回る。

 良くやったと安堵し亘が笑顔でいると、少し離れた席の下原課長が仏頂面しながら顔を上げた。手招きされる。

「五条係長、ちょっと来なさい」

「なんでしょうか?」

 亘は作業の手を止め立ち上がり、嫌な顔にならぬよう表情を取り繕う。かしこまって課長の前で背筋を伸ばすが、またどんな厄介な仕事を命ぜられるのかと心構えをした。


 課長はクールビズでノーネクタイ、下着シャツなしで素肌にワイシャツ一枚の姿だ。おかげで見たくもない、おっさんの透け乳が見えてしまう。さらに汗臭い体臭と生乾き臭いもあって、視覚嗅覚から職場環境を悪化させていた。

 ふんぞり返った姿勢からジロリと睨み上げてくる。

「なんでエアコンを点けるの。外からの風もあるじゃない、扇風機でもいいじゃない。エアコンを点ける必要はあるの。そこんとこ、どう思ってるの」

「え? 点けたのは自分でなくてですね……」

「エアコンを使うルールは知ってるよね。温度と湿度で不快指数を確認し、規定値を超えていたら使用するのが決まりだよね。それ確認したの? どうなの?」

「してないようですが……」

 亘には、そう告げるのが精一杯だった。

 チラッと視線を向けると、青い顔した水田が窓に手をかけたまま固まっていた。その所在なげな姿を指差し、『エアコンを点けたのはヤツです』と言ってやりたいが、そんなことしても意味がないだろう。

 なにせ水田は宣言までして、課長のすぐ側にあるスイッチを押したのだ。それで亘が呼びつけられ叱責されているのだから、水田犯人説を主張したところでムダである。

 関わり合いを恐れた皆はそろって下を向いて仕事をしている。なんて同僚愛に満ちた職場だろうか。静まり返った職場に課長の声だけが響く。

「いいかい。君はね係長なんだよ、根拠を持った行動をするよう部下を指導せねばならない立場なんだよ。何で部下の行動を黙ってみているわけ? 指導する気はないのかね?」

「……はぁ、すいません」

「それにだね、この程度の暑さで弱音を吐くなんて気合いが足りてない証拠だよ。いいかね私の若い頃だなんてね――」

 小言を始めた課長の姿を、亘は表情のない目で眺めた。説教する理屈は分からないでもないが理不尽すぎる。言い返さない亘も悪いかもしれないが、この上司は少々おかしいと思うのだ。

 そもそも上司と部下の関係とは対等のはずである。例えば江戸時代の武士であれば、上意討ちが許されると同時に部下も武士の一分として刃向かうことが許されていた。現代のように上司側が一方的に叱責し、部下だけが堪え忍ぶ状態は本来異常だろう。


 亘が脳内で課長をなます斬りしていると、背後で電話が鳴りだした。

 鳴ったのは亘の席で着信音からすると内線電話だ。課長の説教が続くため、代わりに水田が電話をとったのだが、不意に背筋を伸ばしハイッハイッと高めの声で返事をしだした。

 その様子に気付き課長は説教を止め、亘と一緒になって視線をむける。こういう類いの反応は良くないパターンだと知っているのだ。

 受話器を戻した水田が額の汗――これこそ冷や汗――を拭い、そして亘に告げる。

「先輩、事務所長がお呼びです。事務所長室まですぐ来て欲しいとのことです」

「すぐだって?」

「ええ、そうです。すぐだそうです」

 パターン通り良くない電話だった。

 事務所長とは、名前の通り事務所の長である。単純な階級だけでも亘より軽く五つは上だ。そこから直々に呼び出しとなれば、絶対碌でもないことしか思いつかない。

 亘が意気消沈すると課長が睨んでトドメをさしてきた。

「早く行きなさい、事務所長をお待たせしてはダメでしょう。言っておくけれどね、君が頼まれたことは君が責任もってやるべきだからね。あと、ミスとかの発覚だったら私にまで迷惑をかけないでくれよ」

「……あ、はい」

 ありがたい言葉を背に亘は歩きだした。


◆◆◆


 亘が勤務する某省庁某局の地方事務所を民間企業で例えるのは難しいが、支社の支店ぐらいだろうか。そして、その支店長にあたる人物が事務所長になるが、概ねキャリアと呼ばれるエリート職員である。

 キャリアとは分かりやすく言えば将来の官僚で、同じ職場にこそいるが亘のようなノンキャリア職員とは厳密に言って雇用形態が違う。キャリアは東京にある本省庁所属であって、ノンキャリアは地方局所属だ。これまた例えは難しいが、大学教員とその附属高校教員ほど違いがある。つまり、大枠だけ一緒で全く関係ないということだ。

 さて、そのキャリアだが正しくエリートであり、能力と才能は凄いのひと言になる。一を聞いて十を知るとか、一度見聞きしたことは忘れない程度は平然とやってみせ、物事を見る視点も大空から俯瞰するほど一歩先二歩先を見通している。

 ただしその分だけエリート意識に凝り固まった人や、意固地で頑固な人、突飛もない発想で周囲を困らせる変人も多いのが難点だろう。


 そんな事務所長が待つ部屋に向かう亘だが、嫌な予感はあっても戦々恐々とまではしていない。今の事務所長は穏やかな人物で――例え表面上であったとしても――部下の事情を斟酌してくれる。理不尽な叱責や暴言をするタイプでないため、その点についても安心だ。

 ドアをノックし、神妙な顔でもって入室し一礼する。

「失礼します。お呼びと伺いましたが……あっ、すいません来客中でしたか、それでは出直します」

「五条係長さん。入って下すっていいですよ。こちらの方と、関わりのある話ですから」

「はあ、分かりました。それでは失礼致します」

 戸惑いながら、事務所長室へと入室する。

 広めの部屋で一般職員なら十人は働けるスペースがあり、その半分が応接用となっている。これは市町村の長などが挨拶に訪れるためだ。

 所長専用の机と椅子は豪華な――ただしキセノン社の社長室と比べると貧相な――もので、一般職員が使用する数十年物スチールデスクやチェアより立派だ。程良くエアコンが効き快適温度であることも含め、ちょっと羨ましい。


 その応接スペースの来客用ソファーに見覚えがない男がいた。

 黒いスーツをビシッと着こなし、顔立ちは知性的であって活力に満ちた表情をしている。座る仕草や態度から自信が感じられ、ひと目でキャリア系の人間だと分かってしまった。

 そうなると、亘には呼び出された理由が判らなくなる。

「どうぞ五条係長さんもソファーに座って下さいな」

 事務所長は立ち上がると、執務デスクを回り込みながらやって来た。そして亘に座るよう促し、自身はそのまま男の隣へと座る。

 不自然な座り位置だ。本来なら身分は違えど同じ所属の事務所長と亘が並び、部外者である男へ相対するはずである。

 そんな亘の困惑を他所に、黒スーツの男が前置きなしに話しかけてくる。

「コンポトン特派大使については、知ってるかな」

「ええ、まあ……ニュース程度の知識でならですが」

 亘が戸惑いながら事務所長を見やると軽く頷かれた。どうやら話すように、との合図らしい。

「親日派の物理学者で医学博士。近々、日本で開催される世界エネルギー問題の国際会議に出席する予定ですね。でも、過去にICBM関係の研究をしたとかで、反核団体が来日の反対デモをして騒いでいる。この程度ですが、よろしいでしょうか」

「大いに結構、それだけ知っていれば充分だな。但し、親日派ではなく知日派とだけ訂正しておこうか」

「そうですか、それはすいません」

 謝る必要は全くないが、男の堂々とした態度につい謝ってしまう。そんな亘に対し男は苦笑してみせ言葉を続ける。

「さて、実は五条係長にお願いがある」

「はあ……」

「大使の護衛をお願いしたい。協力してくれるか」

「は? いきなり何を……そういうのは、警察がする仕事ではないでしょうか。残念ながら私では役には立てませんよ」

 亘は目を瞬かせ戸惑う。一体何が目的で言っているか分からぬが、どうやら誰か別の人と勘違いされているらしいと結論づける。

 しかし男は平然と言ってのけた。

「なに問題ない。なにせ五条係長は悪魔と戦う力があるだろう」

 それは日常の象徴である職場で飛び出す、非日常の言葉だった。亘は茫然とその言葉を聞いていた。

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