閑27話 一文字ヒヨの朝は早い

 一文字ヒヨは退魔組織アマテラスに所属している。

 その退魔に関する才能はアマテラス内でも希有であり、本来なら実戦部隊に配属されるべき人物であった。しかし、組織内の有力者である家族が本人の希望を無視して手を回し、危険のない事務職に配属されていた。


 そんな一文字ヒヨの朝は早い。日の出前に起床し、浴室のシャワーで水垢離を行う。子供の頃からの習慣のため慣れたものだが、実は最近少しだけ辛い。

 いい加減止めようかなと口にしたことがあるが、『年をくうと辛いんだよね』と上司が笑ったため意地でも続ける決意をしている。

「まだ若いもん。これぐらい平気なんだから」

 二十五歳はまだ若い、絶対若いから水垢離なんて平気。そう自分に言い聞かせ頑張る。止めた瞬間に、何かに負けた気がするのだ。

 今日も今日とてシャワーの冷たい水を被り、ヒヨは可愛らしい童顔を歪ませながら耐えている。水弾きの良い肌は、控えめな胸のおかげもあって水をすんなり流してくれた。

 水垢離を終え、冷え切った身体をバスタオルで丹念に拭う。それから灰色の地味な色合いの事務服へと着替える。子供の頃は和服しか着れなかったヒヨにとっては、洋服というだけで嬉しい。

「いただきます」

 ご飯と味噌汁に漬け物で朝食にする。アマテラスの社宅でひとり暮らしをするようになって、最初は憧れのパン食にしてみたがしっくりこず結局和食になった。

「んー、美味しい!」

 タクアンを囓り、熱々のご飯をパクつく。

 そんな食べ方でも、行儀作法が身に付いているので上品だ。ショートのボブで童顔なヒヨが満面の笑みを浮かべると、まるで子供のようだった。


 お腹いっぱい食べると簡単に化粧をして出勤する。社宅からアマテラス本部までは徒歩10分。静かな森の中を歩いて到着すると、ヒヨ専用の部署へと向かう。入室すると同じ事務服姿の部下たちが挨拶しながら出迎えてくれた。

「ピヨ様、おはようございます」

「おはよう。それから、私はヒヨですよ」

「これは失礼しました」

 退魔組織アマテラスの中で、一文字ヒヨは別格扱い……その割りに部下たちの態度は少々気安い。あまり畏まられても困るが、もう少し敬意があってもいいと思うのだ。

「むむっ!」

 自分の席に向かったヒヨだが、『室長席』と書かれたプレートに『ピヨ席』の紙が貼られていた。しかも、ご丁寧にヒヨコの絵まで付けられているではないか。

「もぉ! こんなふざけたことしたの誰です! 許しませんよ!」

「あー、それですか」

 頭をかく部下を、お前が犯人かと睨む。けれど童顔のせいで迫力は全くなく、子供がプンスカ怒った程度にしか見えない。

「それ、雲林院様の仕業です」

 上司の名前にヒヨは驚きの声をあげてしまった。

「ふぇっ!」

「朝方見えられて、鼻歌交じりで修正されていかれました」

「ううっ……ムダに上手な絵まで描いて」

 ヒヨコの絵が可愛らしいため、剥がした紙を破り捨てることができない。きっとそれも見越しての仕業に違いなかった。ヒヨコだけハサミで切り出し保管すると、残りはゴミ箱に捨てておく。

「さあ、今日も頑張ってお仕事しましょう!」

 気を取り直して仕事を始める……のだが、実のところヒヨの出番はあまりない。術式の解析などは得意だが、書類仕事はからっきしだ。そもそもパソコンを扱えない。

 パソコン作業を始めた部下のためお茶を煎れだすが、それでも室長は室長だ。


「ピヨ様。諜報課の報告では、寺社系列に不穏な動きが見られるそうです。どうやら五条亘に対する襲撃を計画しているようです」

「ふぇっ! それは拙いです。その派の門主へ警告を通達して下さい。あと、私はヒヨなんです」

「承知しました。警告への署名はどうされますか」

「文面が完成したら私に下さい。花押を書きます」

 出来上がった警告文にヒヨが『一』の花押を入れる。単純な字のようだが、一の字の首と尾に力を入れ鍵形に入れている。この意味は、見る人が見れば分かるものだ。

 大したことないが、一仕事した気分のヒヨは満足げに頷く。

「ところで五条亘の動向はどうなんですか?」

「そうですね、どうやら昨日から海に旅行に出かけたようですね」

「海でバカンス……ううっ、私だって海で遊んでみたい」

 ヒヨの脳裏に青い空に白い砂浜、輝く綺麗な波打つ水面の光景が浮かぶ。そこで水着姿の自分と恋人――想像にしか存在しない――が寄り添う。浜辺に座り込み、そっともたれかかり口づけを……しかし何故か恋人の顔が五条亘の姿になっていた。

 四六時中、その動向に気を揉み、その姿の入った資料ばかり見ているせいだ。

「違う違う、私の恋人はこんな人じゃないの!」

 ヒヨは必死に手を振り回し、妄想をかき消そうとしている。それは、まるっきり怪しげな仕草だが、よくあることで部下は誰も不審がりはしなかった。また何か妄想しているよ、ぐらいの反応で笑っているのだ。

 しかし、入り口の扉が開き、壮年の男が入室してくると部下たちの顔が引き締まった。

「朝から元気そうだな、ピヨ君」

「これは雲林院様。あの悪戯はなんですか、酷いですよ。それと私はヒヨですから」

「忙しない娘だな。それよりもだ、今度の休みは暇かい?」

「なんですそれ、私こうみえたって忙しいんです。暇なわけないじゃないですか」

「ほお、どんな予定があるんだ」

「テレビを見て、あとネットをする予定なんです」

 胸を張った答えに、雲林院のみならず部下たちまでも呆れ顔をする。しかしそんな反応にヒヨはキョトンとするだけだ。

 雲林院はやれやれと頭を振ると、ヒヨへと紙を突きつける。

「まあいい。ところで、そんな君に見合い話が来ている。ほれ、釣り書きだ」

「雲林院様、デリカシーなさすぎです! 職場でそんな話なんて!」

「そうか断るのか。それなら……」

「あわわ、待って下さい。見ます、見ますから!」

 ヒヨは釣り書きの紙を引ったくる。

「はわっ、イケメン!」

 写真を眺め顔を輝かせるが、うっとりしたつつだらしない顔だ。厳格な家に育ち異性との出会いも皆無だったため、ヒヨは恋に恋する乙女だった。

「行きます、やります! いつですかっ!」

「お、おう……」

 雲林院が思わず怯んでしまうほどの意気込みだ。

 善は急げと熱烈ヒヨ歓迎な希望によって、次の日曜日に見合いが決定した。その週のヒヨはとても上機嫌で、歩く姿も雲の上を歩くようだった。


◆◆◆


「それでは、後は若い者同士に任せますかな。うははっ」

 見合い当日、顔を合わせ紹介が終わると仲人が去って行く。

 二人っきりになり、新緑色した着物姿のヒヨは頬を染め緊張する。そんな様子に相手の男性は優しく笑い、素敵な笑顔で微笑んでみせた。おかげでヒヨの緊張は強まり、顔も上げられないほどになる。

「一文字さん、少し辺りを散策しませんか」

「……はい」

 隣を歩く男性をちらりと見上げ、ヒヨはさらに頬を染めた。

 写真で見るより一段とイケメンだ。まるで俳優のように端正な顔で、口元は涼しげで優しげ。毎日眺めねばならなかった五条亘と比べ、なんと格好いいことか。

 ヒヨは天にも昇る心地で、すでに新婚生活まで妄想していた。

「ちょっと失礼、電話してきますよ」

 相手の男性が席を外した間も、ヒヨはカフェの席にちょこんと座ったまま幸せな未来を想像し続けた。


 上機嫌そうなヒヨを遠くから眺めつつ、男が電話をする。

「おう親父か。ああ、なかなかの上玉だ。ムリに勧めてきた時はどうかと思ったけどな、あれなら楽しめそうだ」

 男が低い笑い声をあげた。ヒヨに見せていた爽やかな笑いとは、全く別種の嫌な嘲る笑いだ。これまで、数多くの女を手玉にとり食い散らしてきた男からすれば、世間知らずで初な箱入り娘を騙すなんて容易いものだった。

「これで名家の名前が手に入るんだろ、チョロいもんだぜ」

 通話を終えた男はスマホを鏡代わりに髪型を整える。表情を爽やかなものに戻し――ようやく自分を囲む事務服姿の男たちに気付く。その無表情な感情のない目に身を強ばらせた。

「な、なんだお前ら」

「騒ぐな。大きな声を出すな」

 事務服たちは感情のない声で告げ、男を人の気配がない場所へと連行していった。そこで男の首根っこを掴むと、その喉元に刃物を突きつける。その仕草は荒事に慣れたもので、男は情けなく震えるのみだ。

「ヒヨ様を騙そうとしたこと許しがたい」

「ひっ! 違う俺は親父に言われただけ……」

「黙れ。貴様の親父も今頃警告を受けているだろう。いいか、これ以上はヒヨ様にちょっかいを出すことは許さん。今すぐ失せれば命は助けてやる」

 脅しではない。暴力の世界に生きてきた殺し屋そのものの雰囲気があった。

 転げる勢いで逃げ出す男の姿を黙って見送る事務服姿の男たち――ヒヨの部下たち――の顔に、ようやく表情が浮かぶ。それは猛々しく獰猛な笑みであった。


 彼らはアマテラスの主家の分家や、分家の分家の次男三男として生まれ育った者たちだ。長男のスペアとして家を継ぐこともできず、いずれ悪魔との戦いで使い潰される運命でしかなかった。

 そこから救いあげてくれたのが、一文字ヒヨその人だ。

 命の恩人、生きる意味を与えてくれた相手。そして日々接する内に、おこがましくも妹的な存在とさえ感じている。そんなヒヨに近づき騙そうとする男など、断じて許せるはずがなかった。

 彼らはヒヨを大切に思う雲林院と共に、日夜ヒヨの出会いを潰している。

 今回は政治屋のゴリ押しのため見合い話を潰すに潰せず、相手の様子を見て実力行使をしたのだった。雲林院が最初に皆の前でデリカシーなく見合い話をしたのも、まずヒヨに断らせようとしてのことである。

 何も知らぬのはヒヨだけだ。


◆◆◆


「遅いなあ……どうしたんだろ」

 待ちぼうけのヒヨは何度目かのため息をつき、心細く時計を見つめた。相手の男性が席を外してから随分な時間が経っており、足をブラブラとさせ不安顔になっている。

 そこにドヤドヤっと足音がした。

「ピヨ様、お疲れ様です」

 現れた部下たちの姿に、ヒヨはぽかんと口を開ける。ピヨ呼びを否定しないぐらい狼狽していた。

「ふぇっ! 皆どうしてここに!」

「実は雲林院様から連絡がありまして……実は相手の方には恋人がおられたそうです」

「ふえぇっ! そんな嘘でしょ!」

「ご実家の命令で無理矢理……あとは説明せずとも、お分かりですね」

「そんなあ……」

 ヒヨは肩を落とし、さめざめ涙した。幸せな気分は一瞬で霧散していた。二十代半ばを過ぎ焦る気持ちが強いのだ。もう泣くしかなかった。

「まあ気を落とさずに。それより近くに美味しいケーキバイキングの店があるのですよ」

「美味しいケーキ……バイキング……」

「そうです。よければ皆で行ってみませんかね」

「食べる。食べてやるんだから!」

 着物姿のヒヨは机を叩くようにして立ち上がった。そして、場所も知らないまま先頭をきって歩きだす。事務服の男たちは、それを苦笑しながら追いかける。

 そして……やけ食いしたヒヨが恐々と体重計に乗る日々がしばらく続くことになった。

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