第十章
第110話 流れる田園風景
五条亘はキセノンヒルズの社長室でくつろいでいた。
立派なソファに我が物顔で腰掛け、焙煎の深いコーヒーを味わっている。目を閉じ香りを楽しみ、軽く含んでから飲む。ほうっとひと息ついて余韻を楽しんでみせた。
冴えない容姿だが品性は多少なとある。だから違いの分かる男のフリをしても、ギリギリ似合っていた。
もちろん本当に似合っているのは、向かいに座る細い銀縁眼鏡の男だろう。サイドを刈り上げたオールバックの髪やワイルドな顎髭、堂々とした怜悧な顔は上流階級的な風格があった。それがキセノン社のトップで、この部屋の主である新藤社長だ。
「どうですか。自分で炭火焙煎してみたものですが、いいものでしょう」
「香ばしさが味に出て風味との味わいが良いですよ。炭の種類を変えたら、味わいも変わりそうですね」
亘は答えて微笑する。ただそれは、団扇片手に七輪に屈み込む社長の姿を思い浮かべての笑いでしかない。そうとは知らぬ社長は嬉しそうな様子だが、もしバレたら和やかな雰囲気はそこで終わりだろう。
「炭の種類。なるほど、そういうのもあるのか。言われてみればそうですね」
「あとは質もですね。例えば日本刀の鍛錬に使われるのは松炭ですけど、知り合いの刀匠は良質の炭を探すのに苦労してるそうですよ。出来が全然変わってくるらしいそうで」
「なるほどね種類と質ですか。私も焙煎に最適な炭を探してみるとしましょう」
うんと頷いた新藤社長がカップをソーサーの上に戻す。組んだ足の膝に両手を載せた。
「さてと、それはそれとして。今日来て頂いた用件はですね、ちょっとした異界の攻略をお願いしようと思いましてね」
「異界攻略なら構いませんけど……場所はどこです?」
「その前に、この資料に目を通していただけませんかね」
新藤が差し出すのは、一枚のA4用紙だ。ツヤツヤした紙質で、パッと見た内容は観光パンフレットだ。手書き風フォントの昔話に付箋が貼られているが、どうやらそこを見て欲しいらしい。
『かつて戦に敗れた侍たちが大ケガをして、村に運ばれてきたそうな。気の毒に思った村人は手当てをして匿ったが、ケガの治った侍たちは村を荒らし回るようになった。彼らに苦しめられた村人が侍たちを打ち殺すと、今度は化け物となって生贄を要求してくるようになったそうな。その祟りを鎮めるため、旅の偉いお坊様にお願いしお堂を建て供養して貰ったとさ。どんとはらい』
安易な人助けはするな、といった教訓のような昔話だ。内容はダークで重いが、お堂の写真を指差すユルキャラが全てをぶち壊している。最近の何でもかんでも、ユルキャラという風潮は少しウンザリだ。
「これを読んで、どう思われますか」
「他に紹介する観光名所がなかったのですかねえ」
「くくくっ、君は本当に面白い冗談を言いますね」
社長相手に冗談を言う輩もいないのか、新藤社長は楽しそうに笑ってみせる。なお、亘は真面目に答えたつもりだった。だが失敗に気付き、勘違いされている間に慌てて昔話を読み直す。
「……はははっ。まあ、化け物にお堂ですか。つまり、そういうことですか」
笑って誤魔化しつつ異界攻略と結び付け、昔話の中にある適当なキーワードを口にし、適当にフォローしておく。あとは分からないので、『そういうこと』という曖昧な表現をする。姑息な手段だ。
けれど案の定というべきか、社長は勘違いしたまま頷いてくれた。
「その通りです。この昔話は悪魔の出現を物語ったものです」
なるほどと思ったことは内緒のまま、亘はもっともらしく同意してみせる。
「でしょうね、生け贄を要求する化け物ですか」
「昔話では供養して終わっていますが、実はその後も生贄の要求が続いてましてね。七十年に一度ずつ、村の若い娘を差し出してきたようです」
「何とまあ勿体な……可哀想なことを」
生贄となれば身の清い娘が選ばれるのが定番だ。済んだ過去とはいえど腹が立つ。そんなことをするから、女と縁のない男が発生してしまうのだ。連れ去られた娘はそのまま悪魔に喰われたのか、それとも喰われる前に薄異本的なことをされたのか……妄想するだけで腹が立ってくるではないか。
亘は激怒した。必ず、かの邪智暴虐な悪魔を除かなければならぬと決意した。亘は女を知らぬ。亘は三十五歳の独身である。女に憧れ、ヘタレて暮らして来た。それだけに想像力に関しては、人一倍に逞しかった。
文学的に憤りながら頷いてみせる。
「許せませんな」
「ええ可哀想なことです。そして実はですね、生贄は今も続いているそうなんです」
目の前の小人物がバカなことを考えているとも知らず、新藤社長は同意するよう深々と頷いている。社長の正体は大悪魔だが、人の心の中までは読めないのだ。けれどもし、読めたとしたら自分が頷いたことを訂正しようと激怒することだろう。
「今もですか? この現代にまで?」
「続いているというのは語弊がありますね。最後は七十年前ですからね。心配になった親御さんがアマテラスに相談を持ちかけまして……それが我が社へと回ってきたのですよ」
「なんでまた、今になってですかね? もっと昔から依頼すれば良かったものを……それにアマテラスが話を回してくるとか、おかしくありませんか」
亘が指摘することも最もで、アマテラスは退魔の組織で遙か昔から存在していた。つまり今の時代に依頼せずとも、もっと昔に依頼することだってできたはずだ。そうなれば生贄問題など、とっくに片付いていたに違いない。
さらにそのアマテラスが自分でやらず、わざわざキセノン社へと依頼を回すことも妙であった。
そんな亘の指摘に新藤社長は肩をすくめて見せた。
「過去のことは分かりませんね。ですが、今回のことは分かります。協力体制という名目で我が社にやらせ、成功すれば良し。失敗すれば……ということですよ。この前に色々とやり過ぎましたからね」
それは、七海が攫われた時に新藤社長が仕掛けたビジネスアタックに違いない。あれでアマテラスの経営に大打撃を与えたと聞いている。そうなると、今回の仕事が回ってきた責任の一端は亘にもあるかもしれない。
「それなら引き受けます……ただ昔話になるぐらいなら、随分古い異界でしょうね。成功は確約できませんよ、なにせ安全第一ですから」
「構いませんよ。我が社からも何人かを派遣します。ああ、別に深い意味はありませんよ。実を言いますと……」
そこで新藤社長がニヤリと笑う。インテリヤクザにも見える顔は、凄みがあって悪だくみでもしているようだ。しかし言葉の内容は違った。
「実働部隊と、研究班の何人かを向かわせるつもりなんですよ。要するに、社員旅行みたいなものですね」
「え? じゃあ依頼は」
「そのついでですよ。事前調査によれば、古いわりに大した異界ではなさそうですから。もちろん気は抜けませんがね」
「それなら、自分たちが行く必要はなさそうですが……」
戸惑う亘に対し新藤社長が再度ニヤリと笑ってみせる。
「近場に海水浴場がありましてね。季節もちょうど良いですから、お仲間の方と一緒にバカンスされてはどうですかね」
◆◆◆
そして数週間後、亘は列車の中で旅人となっていた。列車の規則正しい揺れは、乗る人を心地よい眠りへと誘うものだろう。しかし、今の亘は睡眠無効状態にあった。
なぜならボックスシートの隣と対面に女の子が座っているのだ。どちらも女子高生で、明るい未来に満ちあふれ弾けんばかりの若さがある。この状況下で、どうして眠気が起きようものか。
隣に座るのは、優しげな顔立ちの肩にかかる黒髪をした舞草七海だ。Tシャツにジーンズ姿で、並んで座るため二の腕が触れてしまう。その胸はグラビアアイドルをしているだけあって、横からでも視界に入ってしまうほどだ。お陰で、ついそこへと亘の目が泳ぎそうになる。
けれど対面に座る金房エルムがいるため堪えねばならない。ポニーテール風に髪を縛り、悪戯っぽい表情を浮かべている様子から亘の葛藤に気づいているらしい。しかも、こちらはキャミソールシャツにショートパンツ姿だ。お陰で健康的な太ももが目の前にあり、やっぱりついそこへと亘の目が泳いでしまうのだった。
二人とも本来であれば三十五歳の冴えない亘などと接点のない少女たちだ。
それがこうして一緒に旅行までしているのは、悪魔を使役するアプリ『デーモンルーラー』のおかげだ。世の中一寸先は闇というけれど、本当に何が起こるか分からない。
「はいどうぞ、次は五条さんが引く番ですよ」
七海が二枚のカードを差し出してきた。この時ばかりは、視線をカードへと向け集中してみせる。
「よし、これだ!」
迷いに迷ってカードを引くとジョーカーだった。素知らぬ顔して、エルムに自分の手札を差し出すが惜しくもジョーカーの隣を引かれてしまう。ババ抜きの最中だ。
次の手番で七海のカードが無くなると、エルムとの一騎打ちになる。だが、どうしたことか、ことごとくジョーカーを避けられてしまう。
何度かのやり取りで、ついに亘は負けた。
「なんて豪運な奴なんだ……」
「あっはっは。五条はん弱すぎや。うぷぷっ」
「エルちゃんたら、笑ったらダメですよ。うふふっ」
「?」
意味深にチラチラ向けられる視線に気付き、訝しく思った亘が後ろを振り向く。そして座席の背もたれの上にニヤッと笑う顔を見つけ、全てを悟った。
どうやら後ろで合図をしていたらしい。女の子の薄着に目を奪われ、相手の目を見ていなかったことが敗因だろう。
「兄貴お疲れ様っす!」
こちらも同じく『デーモンルーラー』の使い手となる長谷部祐二だ。本名が仮の名に思えるほど、誰からもチャラ夫と呼ばれている。茶髪のトップを立ち上げアクセサリーを身につけた姿、なにより顔自体が剽軽なせいでチャラチャラした印象が強い。実際に性格も軽いが、芯はしっかりしているため単なるチャラいだけではない。亘にとって貴重な友人である。
「くそっ、やられたな。後で覚えてろよ」
「だはは勘弁っす」
さして悔し気でもない亘の呟きに、嬉しそうな笑声と共に茶髪が座席の向こうに引っ込んでいった。
チャラ夫だけ別席なのは、仲間はずれだからではない。本人が望んでそうしたもので、そちらの席には同行するキセノン社のお姉様方がいらっしゃるのだ。背中越しでも、大はしゃぎするチャラ夫の様子が伝わってくるぐらいである。
「五条はんのラフな格好は珍しいですな。似合っとりますで」
「そうか? はははっ。まあ旅行だからな」
嬉しそうに頭を掻く亘の姿は、目を引く赤い五分丈のシャツにジーンズとスニーカーだ。ただし、これは本人のセンスで選んだものではない。最初はカチッとしたカッターシャツに灰色のスラックスだったものを、亘の従魔が頑張って頑張って、ここまでにしてみせたのである。その苦労をひと笑いで自分のものとしている亘だった。
「志緒さんも、来られると良かったですよね」
「仕方ないさ。社会人は仕事があるからな。かく言う自分も、夏休みの取得が危なかったし……」
電車の外を流れる田園風景を眺めしみじみと呟く。チャラ夫の姉である志緒は公安関係に勤めるため休暇が取得しにくいが、亘の方も負けず劣らずの職場に努めている。
「そうなんや。なあ五条はんの夏休みって、何日ぐらいなんや」
「うちの職場だと三日間だな」
「えーっ! 少ないわあ。もしかして、この旅行で全部終わりです?」
「まあな」
その三日間ですら、課長から承認を貰うことが非常に辛かった。課長自身は夏期休暇を取りつつ出勤してくるような人間なので、チクチクと嫌味を言いながら承認の印鑑を上下逆に押して、ようやく認めてくれたのだ。
なお、上下逆に押印することは、賛同してないが立場上押印せねばならないとの意味がある。押印としては非常に失礼な部類のもので、それを態々やってみせるとは何とも嫌味ったらしい。
「少ないわー。ああ、ウチは一生学生のまんまで居たいわ」
それは誰しも思うことだろう。
今は慣らされてしまった亘だが、就職して最初の年は休みの少なさに愕然とした覚えがある。世界では夏休みが一か月単位という国もあるのに、なぜか日本では三日の夏休みでも取りにくい。おかしな国だ。
「そうや、ウチ卒業したら五条はんに養って貰おかな。そしたら、ずっと休みや」
「つまりニート希望か」
「たははっ、そんなつもりあらへん。ちゃんと炊事洗濯はしますで」
「ダメです。炊事洗濯は毎日となると大変なんですよ、だから養って貰うとか軽々しく言ったらダメなんです」
冗談めかした言葉に七海がしっかりと言いきると、エルムはむしろ嬉しそうな顔をする。
「ニシシッ、もちろん炊事洗濯だけやのうて、もちろん他の方も任しときや」
「もうっ! 五条さんも、何で鼻の下を伸ばしてるんですか」
「そんなことないぞ、伸びてないぞ」
「ウチ、お買い得ですよー」
「ダメですってば!」
女の子同士で可愛らしくやいのやいのする姿を眺めると、苦労して夏休みを取った甲斐があったと感じ入ってしまう。
この旅行で何か良いことあったらいいなと考えつつ、窓ガラスを見て鼻の下が伸びてないか確認する亘だった。
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