第21話 よほど伝えたいこと

 新藤社長は腕を組むと、しばらく考え込んでいた。ややあって深々と頷きながら笑ってみせたが、そうすると人を魅了する笑顔だ。

「なるほどそうですか……よし、決めました。いきなりで申し訳ないですが、どうです。我が社で働く気はありませんかね」

「えっ? それって転職のお誘いですか」

「そうですよ。表立っては保守部門の、そうですね次長扱いでどうでしょう。もちろん、実際にはDP対策班の実働部隊ですよ。どうですかね」

「はあ……」

 まさかのヘッドハンティングに亘は素早く思考を巡らせる。

 キセノン社といえば、就職人気ランキングに平均年収ランキングともに全国で常に十位以内をキープする超優良企業と、最近読んだ雑誌に掲載されていた。本社ビルのキセノンヒルズだって、この通り高級感あふれる先進的なものだ。

 そこを颯爽と歩くセレブな自分を想像してみる。

――悪くない。

 しかもキセノン社へと、亘が転職したことを職場連中が知ったなら……課長や同僚たちが、どんな顔をするか。さらに、これまで亘を一顧だにさえしなかった女性たちが、どんなにか悔しがるだろうか。

 想像するだけで愉悦の気分になる。

 そんな内心は表には見せず、亘はあくまで慎重に検討するフリをしてみせる。

「それはまた、いきなりの話で驚かされますな」

「思いついたら即行動、それが私の信条でしてね。どうですか、五条さんほどの方なら直ぐ対策班のエースとして活躍できます。ゆくゆくは隊長として部下を率いて頂きたいものですね」

「しかし……今の仕事にやりがいもあるので困りましたな」

「もちろん五条さんが国民のために働こうと公務員になられて、これまで努力されてきたお気持ちは重々理解しておりますよ。ですが、我が社での活動も同じく人々のためになるものです。是非ご検討を」

 亘が渋るのはフリだ。本当は今すぐにでも承諾したいが、直ぐに飛びついてお安い男と思われない為の小賢しい三文芝居でしかない。

 今の職場に未練などない。試験を受けて合格しただけのサラリーマン公務員で、人の為とか社会の為なんてものはナニソレオイシイノだ。昔は多少なり誰かの為という気持ちはあったが、世の中の公務員批判を見ているうちに完全に消えた。


 大人物である社長は、小人物の姑息な心境など知る由もなく是非にと膝を詰めてくる。

「勤務形態はフレックスタイム制ですが、残業された場合はきちんと残業代が支払われます。社宅はこの建物内ですが、ご自分でアパートを借りる場合は会社で全額負担しましょう。もちろん自宅の場合は手当がありますし、交通費は全額支給です。有給は年四十日ですが、残った場合は日数を買い取りですよ。まあ、基本残す社員は居ないですけどね」

「今の職場では考えられない厚遇ですよ……」

「おや、そうなんですか? まあ、うちは働く人のことを第一に考えてますからね、介護や育休も積極的に取得して貰って職場のフォローも万全です。福利厚生にも力を入れてまして、例えば社員が旅行に行く場合は、海外だろうが会社が全額費用を負担してますね」

「そんな会社があるなんて……」

「さて肝心の給与ですが、少なくとも手取り年収で一千万円は保証しましょう。異界に出撃すれば別途危険手当を支給しますし、討伐数や異界破壊に応じて追加報酬もありますから。実際には倍ぐらいの手取りになると思いますよ」

「…………」

 もはや声すら出ない。

 新藤社長が述べた待遇を正反対にすると、今の職場の待遇になる。だから聞くだけで涙が出てきそうな気分だった。

 ついに自分の時代が来たと感動する亘だが、ここで浮ついてしまい話を台無しにせぬよう気を引き締める。

 そうして亘が気を落ち着けていると、新藤社長が心配そうに尋ねてきた。

「どうですか。もしかすると国家公務員の方には給料が安すぎますかね?」

「え? とんでもないです。よく誤解されますけど、自分のようなノンキャリ職員の年収なんて世間の平均年収並ですから」

 よく国家公務員の給料は高いと誤解されるが、それは大いなる誤解だ。エリートキャリア組ならいざしらず、亘のようなノンキャリ職員は世間の平均年収になるようきっちり調整されている。何故か公務員全体で平均されると高くなるのだが。

「そうですか。では承知して頂ければ、すぐ人事担当を呼びますよ。転職手続きの細かい部分は、こちらで全て手配致しますので、ご安心を」

「そうですね、キセノン社への転職も悪くないですね……」

 亘はカップを手に取り、もったいぶって一口飲む。


 そろそろ承諾する頃合だ。ここまで躊躇してみせれば、お安く見られることもない。あまり渋りすぎて台無しにするのもまずい。ここらが決め時だ。

 亘が承諾の意を伝えようとした――その時。

 フードから合図が送られてきた。無視しようとするにも、蹴ったり叩いたりとよほど伝えたいことがあるらしい。

「すみませんが、一度頭を冷やして考えたいと思います。少し席を外させて貰っていいですか」

「どうぞどうぞ、もちろん構いませんとも」


◆◆◆


 席を外しトイレに向かう。

 他に内緒話ができそうな場所がないため、男子トイレの中で話すが、そこで女の子の神楽と話すのは少し気が引ける。もっとも神楽がそれを気にする様子はないが。

「どうした、今凄く大事なところだったけどな。何かあったのか」

「あのねボクねマスターにね、伝えないとダメなことがあるんだよ。恐かったけどさ、言っとかないとダメなの」

「焦らなくていいから、ゆっくり話そうか」

 神楽は目の前でジタバタ腕を上下させる。どうしても伝えたいことがあるが、しかし気が急いてなかなか話せないらしい。

 ゆっくり話せと宥めているが、亘の心情としては早く話せと急かしたい。万一社長の気が変わっては、せっかくの話がおじゃんではないか。


 神楽は数度深呼吸をすると、ようやく落ち着いてきた。

「あのね。あの人は人じゃないよ」

「何を言ってるのやら、さっぱり分からん」

「だから、あの人は人じゃないの! マスターが話してた相手はさ、人間じゃないってことなの!」

「……は? いやいや。神楽よ、お前は何を言っとるんだ。あの人は今を時めく、通信大手の社長なんだぞ。それが人じゃない? またまた御冗談を」

「本当だよ! 嘘じゃないもん。あれはボクと同じ悪魔だもん! それも相当高位の存在だよ!」

「えっマジで……本当に?」

 ぷんすか怒る神楽を前にどうやら本当だと悟る。

 亘は顔を引きつらせた。

 業界の異端児だの、化け物や怪物だのといった言葉が週刊誌の見出しを飾るが、社長の正体が悪魔と思って書いているわけではない。当然だ、誰もそんなこと思いやしない。

 社長が最初から悪魔だったのか、それとも途中で悪魔が入れ替わられたのか。どちらにしても、その下で働くのは……かなり危険ではないか。

「どうしよう」

 トイレの鏡に映る顔は青ざめていた。


◆◆◆


「どうも遅くなりまして」

 社長室に戻ると、新藤社長はチャラ夫や七海を相手に気さくに話し、にこやかな笑いをあげていた。戻って来た亘に対しても、楽しげに頷いてみせるぐらいだ。

 その笑顔を思わずまじまじと見つめてしまう。


 疑うわけではないが、どこをどう見たって人間だ。しかし神楽が嘘を言っているとも思えない。その探知能力は折紙付きで、何度も助けられてきたのだ。

 すると、やはり目の前にいる男の正体は悪魔なのだろう。このにこやかな笑みの下に、一体どんな悪魔の顔が潜んでいるのか。

 そんな相手の下で働く。

 今の職場も地獄の労働環境だが、少なくとも周りは人間だ。しかし社長は悪魔だ。その悪魔が経営する会社は、社員も悪魔かもしれない。転職してしばらくしたら、悪魔に取って代わられる可能性もある。


 思えば、悪魔が甘言虚言で人を誘惑して騙す逸話は枚挙にいとまがない。先の厚遇もその類なのだろうか。危険だ。どんなうまい話より命の方が大事、命あっての物種だ。

「どうですか、我が社への転職にお心は決まりましたか」

「……だが断る」

「……おや、これはまたどうされました」

 新藤社長の目がすっと細まる。

 いったいどの口が言ったのだ、と亘は心の中でダラダラ汗をかく。穏便に断るつもりが緊張のあまり、きつい言葉になっている。

 社長の機嫌を――それも人の皮をかぶった悪魔の機嫌を損ねてどうするのか。

 慌てる亘をよそに、さすがは一代でのし上がった社長だ。無礼をそれ以上気にする様子はない。まだ笑みを浮かべてくれている。少なくとも表面上は。

「おや、何か条件で気に入らない部分がありましたか。何でしたら五条さんのご希望を言っていただければ、それに合わせますよ。私はビジネスで嘘を言ったりしません。何でしたら書面にでも改めましょうかね」

「必要ない」

 またしてもきつい言葉になってしまう。

 頭の中では、『そんなことまでしていただく必要ないですよ』だったはずの言葉が、口から出る時には単語となってしまうのだ。緊張のなせるわざだろう。

 新藤社長のこめかみがピクリと動く。どんな感情を持ったのか、想像するまでもない。

――拙い。

 社長は悪魔だ。機嫌を損ねさせてはダメだ。危険なアプリを開発し、大勢の人間へと無差別に悪魔を配布した首謀者。それが原因で人が死のうと気にせず、警察やマスコミ、さらにネットでさえ気にしないと豪語する会社のトップ。下手すれば裏社会のボスかもしれない。なにせ社長は悪魔なのだから。社長は悪魔、社長は悪魔。

「そうですか、できれば理由をお聞きしたいですね」

「……社長は悪魔、なので」

 混乱の坩堝へと陥っていた亘は、つい考えていたことを口にしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る