第5話 確かに異界という雰囲気
暑さの消えた夜気に、点滅信号が騒々しい。
さっそく異界へと行くため大急ぎで支度し、アパートの部屋を出たところだ。二十三時の就寝予定時間まで残り一時間ほど。翌日の仕事を考えると、無駄にできる時間はない。
あれだけ渋っていたくせに、現金収入があると分かればこれだ。悪魔の甘言にのってしまったようなものだろう。
異界という場所を目指し、肩に腰かける少女に案内されるまま歩いていく。
「えっとね、あっちから気配を感じるよ。そこ左に行って……うん、あそこだよ」
「ほんとかよ。毎日歩いてるとこなんだが」
到着した場所は、いつも立ち寄るコンビニ裏手の路地だ。何気ない風景として目にしていた場所で、日常生活圏に悪魔が生息する不思議空間があるとは、にわかには信じがたい。
辺りを見回す。
コンビニの灯りを除けば、電柱に取り付けられた街灯や民家から零れる光があるだけ。そんな暗い路地には路駐の車や観葉植物、エアコンの室外機がある。それはごく普通の場所だ。
大通りに面したコンビニ駐車場を見れば、何人かの若者が車止めに腰掛け、ゲラゲラ笑っているのが見える。どう見ても、異界と呼ばれる特別な場所ではない。
亘は疑わしげに左右を窺いながら歩を進める。
「はい、止まって。そこが入り口だよ」
「何も無いように見えるが……入り口ってことは入る場所があるのか」
「むーっ、嘘なんて言わないよ。ちょっと待って――はい、どうぞ」
電柱とそこから伸びる黄色カバーがされた支線。その付近へと飛んだ少女が、何もない空間をドアでもノックするように叩いてみせた。
すると、その空間が水面のように波打ち揺らめきだす。丁度反対側の塀に張られた防犯ポスターの顔が嘲笑うように歪んでいる。
亘は思わず驚きの声をあげてしまう。
「おおっ! なんかそれっぽい」
「どう、これが入り口なんだよ。ほら、ぼさっとしてないで早く入ろうよ」
「お、おう」
促された亘は半信半疑のまま、その揺らめく空間に近づき――ギュッと目を瞑って突入した。何が起きるか分からず、少しだけ恐かった。
しかし、特別な感覚は何もなかった。
むしろそのまま、先にあった壁にぶつかってしまったぐらいだ。
「マスターってば、ドジなんだね」
「いつっ、つつ。おい、これはどうなってるんだ。何も……変わって……」
亘は文句を言いかけたが、周りが妙に明るいことに気付く。点在する明かり以外は暗闇だった路地が薄明るく見通しがきいていた。
思わず空を見上げれば、暗いはずの夜空は灰色となっている。そのまま視線を降ろし遠方を眺めていくと、数十m先で景色がぼやけ灰色の絵のようになっている。
そして何より静かだ。
先程まで路地とはいえ多少の喧噪が届いていた。本通りを行き交う車の走行音、若者のバカ笑いもない。コンビニを見れば、駐車場にたむろしていた若者の姿自体が消えている。
路地脇にある家々もひっそりと静まりかえり、エアコンの室外機が作動する音すらない。どこからも物音ひとつ聞こえず、人の生活する音という音が消えてしまっていた。
「なるほど。想像とは違うが、確かに異界という雰囲気だな」
異界という言葉に抱いていたイメージは、荒涼とした場所だった。それがどうだ、周囲はごくありきたりな街の風景でしかない。
しかし、まるで絵か写真の中にでも入り込んだような不気味さは異質な世界を感じさせる。。
「さあ! 張り切って悪魔を倒そうね!」
「まあいいか。それより悪魔との戦闘だな。今さらだが、少し恐くなってきたな。緊張する」
少女は元気よく片手を突き上げているが、亘は悪魔との戦闘を考え不安な様子だ。戦闘という言葉で簡単に片付けられているが、これから行うのは命を賭けた殺し合いだ。死ぬことだってありえる。覚悟はしたつもりでも、いざとなれば腰が引けるのが普通だろう。
気を取り直すため深呼吸をする。それから、自分の装備を確認してみる。
武器として持ってきたのは、アパートに護身用で置いてあった金属バットだ。防具は安全メットに軍手、安全靴を着用している。服はトレーナーにジーンズと動きやすい格好として、少しでも防御力を高めるため季節外れな厚手の防寒着を羽織っている。
「しかしだな、この格好だと完全に不審者だよな」
この姿でここまで来たが、途中誰かに見られていたら通報されていたかもしれない。
見つからず来られたのは、案内する少女に不思議な力があったからに他ならない。なんと、周囲の動きを察知できるのだという。なんと便利な能力だろうか。
そこで大事なことに気付く。
「そういや、名前を聞いてなかったな。ちなみに自分は五条亘だ。そっちは?」
「そーゆーのは最初に聞くべきだとボク思うよ」
「悪いな。気が動転してたんだ」
「まあいいけどさ。でもね、ボクの名前はないよ。だって従魔の名前は召喚したマスターが決めるものだからね。というわけで決めてよ」
「そうなのか。いやしかしな、いきなり言われてもな……」
腕組みして考え込んでしまう。
名前は一生背負うもので、人生を左右する重要なものだ。趣味や流行で名付けるものではない。自分の子供には、まともな名前をつけようと決意して、はや十年チャンスがない。
キラキラとした眼が、今か今かとワクトキしながら見つめてくる。プレッシャーだ。
改めて観察するが、明るく元気な女の子だ。活発的な雰囲気に、不思議と巫女装束がよく似合う。折角なので和風な名前がいいが、躍動感のある活発な名前がよいだろう。間違っても、静とか姫とかいうお淑やかな感じではない。
巫女といえば、祈祷や占い神託を告げる存在で神楽を舞って奉納する。そこで、ちょっと安易ながら名前を思いつく。
「そうだな……神楽でどうだろ?」
「うん! ボクその名前がいいよ。マスター、ありがとう!」
神楽は口角をあげ、心底嬉しそうな笑みを浮かべる。
くるくると回り、舞を舞うような姿に、名付けの重責を果たした亘まで嬉しくなってしまう。そんなことをしている間に、亘の感じていた緊張と不安は随分と薄らいでいた。
「ここをあまり離れず、いつでも逃げられるようにしながら悪魔を探してみるか」
「うん。でも探す必要ないかな」
「なんでだ?」
「ほら、お客さんだよ」
「え?」
直後、ヒタヒタとした足音が聞こえてきた。異界は静かなため些末な音さえ響く。きっと先ほどからの亘と神楽の会話も、周囲によく聞こえていたことだろう。
前方の薄闇の中に朧げな人影が現れる。
子供と思える上背だが、近づいて輪郭がはっきりしだすと、それがそんなものと全く違うことが分かる。
肌は死人のように土気色。髑髏に皮が張り付いただけの頭からは、髪の大半が抜け落ちている。ボロ布を腰に巻いた身体はアバラが浮かぶほど痩せこけるが、腹だけ異常に膨らむ。
黄色く濁った目にジッと見つめられ、自分が獲物だと気付いた亘は総毛立った。
「これが図鑑にあった餓鬼だよ、ボクが魔法で倒すから大丈夫。『雷魔法』」
神楽はバチバチする雷球を発生させ、自然な仕草で放つ。
大丈夫と太鼓判を押すだけあって、それが命中した餓鬼は悲痛な鳴き声をあげ倒れ伏す。だが、一撃とまではいかなかった。
「あれ? まだ動いてら。うーん、思ったよりしぶといんだね」
倒れた餓鬼はそのまま、もがくように這いよって来る。その目は亘を見据えたままで、せめて一口と狂おしい渇望さえ感じられた。
「マスターぼさっとしないで安全な場所に、ってええぇ!? ちょっとマスター! 何する気なのさ!」
「うっしゃあああっ!」
亘は雄たけびをあげ、飛びだした。
這い寄る餓鬼目がけ、渾身の力で金属バットを叩きつける。
重く湿った手応え。同時に何かの液体が飛び散るが、無我夢中のまま金属バットを振り上げ何度も叩き付ける。骨が折れ、皮膚が裂け、肉や臓器がはみ出すが手を緩めない。
餓鬼が細かな粒子になり霧散すると、金属バットがアスファルトを叩いて硬い音を響かせた。
「はあっ、はぁっ……どうだ、倒したぞ」
「マスターが自分で戦うなんて、ボクの存在意義が……はあっ、もういいや。それよりマスター、そろそろスマホを出して」
「ん? どうしてだ」
「DPが消えちゃう前に取り込まないとダメだよ」
その指摘に亘は慌ててスマホを取り出す。まだ震えの残る手でスマホをかざすと、短い電子音が鳴り、画面に3DPと表示された。
どうやってかは不明だが、DPという物質がスマホに取り込まれたらしい。
「はい、これでDPが取り込めたよ。やったね、初勝利おめでとー」
「おおっ、そうか」
ぱちぱち手を叩く神楽の声を聴きながら、亘はようやく肩の力を抜く。
今しがた倒した餓鬼の身体は完全に霧散している。DPでできた概念的存在が、元のDPに戻ったということなのだろう。死して屍すら残らぬとは、なんと無常なことだろうか。
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