『遺失』(2007年01月12日)

矢口晃

第1話

 すみません。落し物が届いていませんか。たぶん昨日の夜中、私の寝ている間にどこかに落としたと思うのですが。ええ、いつものように自宅の寝室のベッドで寝ている間にどうも失くしたらしいのです。朝方、何だか下半身の方がむずむずするなと思って目を覚まして見ると、そこにあったはずの足が無いのです。二本とも。ベッドの中は血だらけでした。最初は夢かと思いましてね。だって想像もしていませんから、ある日突然自分の下半身がなくなるなんて。それが現実に起こったのですから、下半身が無いという状況をうまく飲み込めなくてですね、そうだこれはきっと夢なんだと思って自分の頬を叩いて見たりしました。ほらよく言うじゃないですか、夢の中では叩いたりつねったりしても痛みを感じないって。それがねお巡りさん、痛いんですよ。叩くと、確かに痛いんです。ああ、これは夢じゃないんだなって初めてその時思いましてね、こんなことしちゃいられないと言って跳ね起きたのはいいんですが、いつもと勝手が違いますからバランスを崩してベッドから転げ落ちてしまいました。隣室には妻が寝ているはずですから、とにかく妻に真っ先にこのことを知らせなきゃと思いましてね、私は腕で体を引き摺りながら懸命に隣の部屋まで這って行きました。ええ、もともと部屋は別々なんです。私が昼間働きに行って、妻が夜勤が多いものですから。お互い寝る時間が合わないから部屋も別にしているんです。で、自分の部屋のドアは何とか開けられたんですけれども、妻の部屋のドアは、私のいる廊下側に引いて開けなければならないから開けるのに大変難渋しましてね、やっとの思いで開いたと思ったら、寝ているはずの妻の姿が見えないんです。こういうとき、人間と言うのは思いもよらない反応をしてしまうものなのですね。私はベッドの上に妻のいないことを発見すると、突然腹の底から笑いが込み上げてきましてね。おかしくてたまらないんです、自分の下半身と一緒に、妻までなくなっちゃったと思うと。それから家中どこを探しても妻はいないんです。家出でもしちゃったのかなと思いました。恥ずかしながら、そういう前触れも今までになかったわけではないのです。もともと気性の激しい妻でしたからね。そこへ行って私がまあ意地っ張りと言うか頑固な性質でしたので、年中衝突は絶えませんでした。夫婦間は冷え切っていたのです。子供ができないのもそのせいなんですがね、まあともかく妻がいないというのが分かりまして、今度は私は居間へ向かったのです。六畳の畳の部屋ですが、その炬燵の上に置手紙でもないかなと思いましてね、見にいったんです。お巡りさん、畳の上に肘をついて這ったことがありますか? あれは見た目以上に大変な労力を必要とするものですよ。見てください。おかげで肘がこんなに擦り切れてしまいました。今でもひりひりします。それはともかく、私は急いで机の上を見てみたんです。でも、置手紙らしいものはどこにもありませんでした。それでも私は確信しているんです、家出だって。なぜならつい一昨日の晩にも出て行く出て行かないの大喧嘩をしたばかりでしたから。ついに愛想をつかして出て行ってしまったんだと思ったのです。さてこの次にどうしようかと思いまして、机の上に置いてあったリモコンを取って、何気なくテレビを点けてみたんです。映ったのはちょうど朝のニュースでしてね、警察の鑑識がたくさんいる物々しい現場の風景が目に飛び込んできました。アナウンサーとリポーターのやり取りを聞いていますとね、どうも今朝方、道路脇の植え込みから切断された男性の下半身が見つかったと言うことらしいのですね。それがこの近所とというじゃありませんか。私はもう一度画面の中を隅々までよく見てみました。するとなるほど、確かに見たことのある風景なのです。内の近所の、団地の一角に間違いありません。その時私ははっと思いつきました。その下半身は、私のものに違いないってね。どうして寝ている間に、そんなところに落としてしまったのだろうって。そう言えば夕べも、仕事帰りに夜遅くまで友人と酒を飲んでいましたから、酔っ払って気が付かない内にあの辺へ落としたのかも分かりませんし。そしてその後さらに驚いたのは、そのニュースの画面の右下隅に、他でもない私の妻の顔写真が映ったではありませんか。私はそれを見て魂を消しました。その次に狼狽しました。もしや妻が、何かの事件に巻き込まれたのではないかと思いまして。これは何としても早く妻に会わなくてはいけない、そう思いまして、そのためにはともかく今の体のままでは探すのも大変ですから、私の下半身を見つけた人が交番に届けてくれてはいないかと思って、苦労して家からここまで這ってきたんです。あれは恐らく私のものに間違いないだろうと思うのです。お巡りさん、それらしいものはまだ届いていませんか。もし届いていれば、私はその下半身すぐに返してもらって、一刻も早く家出した妻を探しに行きたいと思うのです。よく頭を冷やしてみたら、やっぱり自分も大人げなかったのです。目玉焼きに妻が醤油ではなくソースをかけたくらいで、何もあんなに怒ることはなかったのです。そしてそれより、今は妻が何か重大事に巻き込まれていないか、そればかりが心配です。だから早く妻を見つけ出して会いたいと思うのですが。お巡りさん、私の下半身は届いていないでしょうか?

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『遺失』(2007年01月12日) 矢口晃 @yaguti

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