第9話 生きたいかという問い
獣が飛びかかってきたのを、剣斗は紙一重ですり抜け、左拳をその顎に叩き込んだ。
鈍い音が響き、獣はよろけながら後ずさった。だが、獣もそれだけでは終わらずに巨大な尻尾で、拳を振り抜いた状態の剣斗にそれを叩きつけた。
「ゲアッ⁉︎」
あまりの衝撃に吹き飛ぶが、それでも何とか受け身を取りながら拳を握る。
二匹の獣が駆け出す。
それは、互いが互いの命を狩るための行動だった。
獣の牙が剣斗の喉笛へと向かい、それを拳で叩き落とす。
隙が出来れば、剣斗の拳が獣を捉え、その巨体にそれを叩き込む。
獣の毛皮は針金の様に硬く、殴りつけるたびにその拳が傷ついていく。
だが、獣もその毛皮があるからといって、殴られた場所が決して無事とは言えなかった。爪は何本か砕かれ、その部分を庇うように動いている。
それでも獣の速度は剣斗の動体視力では追いつけないレベルのものである。
それにどうにか付いていけているのは、身体に纏わり付いているオーラを眼と両腕に集中させているからだ。
ジヴァに教えられたのは剣術の基礎だけでなく、魔術の運用方法も習っていた。
それの応用をして、身体を纏うオーラを動体視力に向けたことで獣の動きに対応しているのだ。
「クソが‼︎」
「グラァウ‼︎」
それが、どれだけ続いただろう。
剣斗の身体は刻印によって強化されているが、それでも基本的な身体能力は人間のものである。
激しい攻防によって、身体が限界に近づいていることに剣斗は気がついていた。
それは、どうやら獣も同じ様で、側から見れば、動きが鈍っているのは明らかだった。
だから、互いに次の一撃が最後だと、最期になると理解していた。
剣斗がズタズタの右腕をかくしながら、左拳を構える。
獣が低く唸り、その牙をきらめかせる。
「終わりにしようぜ、イヌッコロ」
「ーーーーーーーー‼︎」
同時に駆け出し、最期の一撃を放った。
交錯したのは、ほんの一瞬の間。
二つの影が重なり、位置が入れ替わった。
「ガハッ……!」
少しの間が空き、剣斗がその膝をつき、大量の血をその口から吐いた。
その右腕は紅く染まっており、千切れそうなほどズタズタだ。
だが、倒れ伏したのは獣の方だった。
頰肉を引き裂かれ、その眼は岩石の刃で貫かれていた。
剣斗は、獣が突き立てた牙に対抗するために右腕に強化を廻した。食い千切られそうになりながらも、獣の牙を砕き、頬を引き裂いた。そして、余っていた左腕で、先ほど獣の眼に突き刺した岩石の刃を引っこ抜き、もう片方の眼に突き刺したのだ。
これで倒れてくれなければ今度こそ剣斗は命を落とす。落とし穴に玉砕覚悟の攻撃。この二つを放った時点で、剣斗は万策尽きている。
だからこそ強く願った。
どうか、そのまま生き絶えて欲しい。
そう、願ったのに
「マジ……かよ……」
獣が倒れることはなかった。
その顔はズタズタに引き裂かれ、両目は潰れ、もはや何も見えてはいない。
それなのに、獣が剣斗から闘志を外すことは無かった。
そこで漸く分かった。
今まで自分が対峙していたのは、ただの巨大な獣ではない。
戦士だ。
なるほど、それなら勝てるわけもない。
自分はただみっともなく生きるために抗った。
だが、獣は、彼は、戦うために戦っていた。
どちらが正しいというわけではない。
どちらが高尚というわけでもない。
剣斗には、ただ生きるということにしか考えが行かず、攻め手が僅かに緩んだ。
それに気がついたのは随分と後の事だが、命を奪うという経験をまともにしてこなかった彼は、無意識のうちに戦うことを躊躇っていたのだ。
そんな甘い考えだったものが、生き残り、尚且つ相手を殺しきろうとする気概を持ったものに勝てるわけがない。
激痛にうなされる中で、甘んじてこの戦士に命を絶たれようと、剣斗は目を閉じた。それで、良いと思った。
「あ……れ……?」
それで良いと思ったのに、震えが止まらない。みっともなく、逃げてしまいたい衝動に駆られる。
「なん……で……」
訳が分からず、頭を捻りながらも、その身体は逃げようとしている。
『生きたいか、小僧』
そうしていた剣斗に、問いかける声が何処かから聞こえた。
決して遠くからではなく、寧ろ目の前にいるような近さの声だった。
その声に導かれ、剣斗は虚ろな目を向けた。そこにいたのは、今の今まで対峙していた、獣の戦士だった。
『俺も……もう、永くはない……』
「え……喋って…………」
もう、ここまでくれば何でもありだ。
獣の戦士が発する言葉に、剣斗は耳を傾ける事にした。
『倒れることは……魔狼族の恥だ……高いところから、話すことを許せ』
息も絶え絶えになりながら、獣が話を続けた。
『俺が死ねば……俺の肉を食え……それで、傷は癒えるだろう…………』
優しく、動揺している剣斗のことを諭すように獣の戦士は言葉を紡いで行く。
『お前は、私に勝った……ならば、これからも、この世界で、生きろ…………』
そうして、遂に獣の戦士が倒れ伏した。倒れることは恥だと言いながら、それすらも出来なくなってしまったのだろう。
その姿からは、ほとんど生気を感じ取れなかった。
「お、おい…………」
動かなくなった獣の戦士に駆け寄り、その頬に無事な左手を添えた。
一人の一匹の間には、先ほどの命をかけた空気はなく、剣斗は相手に対して危機感など持ってはいなかった。
「あんた……なんで…………」
『追いかけ回して……悪かったな……』
そう言い、獣の戦士は命の炎を消した。
剣斗には分からなかった。
なぜ、自分を殺そうとしていたものが、謝り、あまつさえ「生きろ」と言ったのか。
「なんなんだよ…………」
どいつもこいつも狂ってる。
今の剣斗には、そうとしか思えなかった。
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