春の香り
久遠
第1話 春の香り
どこからともなく、桜の花の香りが届いたある日の夕方でした。
食卓の筍を見て、パパの顔が思わずほころびました。
「パパはなにがそんなにうれしいの?」
いろはちゃんが首を傾げてたずねました。
「パパはね、春になって、筍を見るといつもこうなのよ」
ママも、パパの横でやさしい笑みを浮かべています。
「パパは筍を見ると、子供の頃のある事件を思い出すんだ」
「あるじけんって?」
弟のひなた君も目を輝かせました。
「パパはね、小さな山村で生まれ育ったんだよ……」
パパは、ほろ苦くてあたたかい思い出を静かに語り始めました。
それは、パパがいろはちゃんと同じ、小学校四年生の春のことでした。
麗らかな陽気の日曜日の午後。友だちの家へ行くため、川沿いの道を歩いていたパパは、橋のたもとに見知らぬ少年が立っているのを見つけました。
――誰だろう?
そう思いながら近づくと、少年の方から話しかけてきました。
「ぼく、ゆういち。君はあつし君だね?」
――えっ? どうしてぼくの名前を知っているのかな……。
パパは、少年が自分の名前を知っていることに驚きましたが、なぜか胸の中に、なつかしさがこみ上げて来るのを感じていました。
「ねえ、あつしくん。いまから、ぼくと山へ筍を取りに行かないかい?」
パパは謎めいた少年の眼差しに、返事を迷いました。でもそのとき、パパはおじいさんが、筍が大好物だったのを思い出したのです。頭の中に、おじいさんの喜ぶ顔が浮かんだパパは、声をはずませました。
「うん、行く! ゆういち君は筍が生えているところを知っているの?」
「いっぱい生えている山を知っているよ」
ゆういち君は胸を張りました。
二人は筍をたくさん採りました。パパは、その中から大きな筍を三本選び、持ち帰ることにしました。
帰り道で、奇妙なことが起こりました。
ふと気づくと、ゆういち君の姿が消えてしまっていたのです。
パパは、
――あれ、おかしいな?
とは思いましたが、すぐに
――家に帰ったのだろう。
と、気にも留めませんでした。
パパは、得意満面で家に帰りました。ところが、おじいさんにほめられるどころか、
『よその山の筍を採ってくるとは、なんてことをしたんだ。あつしは泥棒をしたんだぞ』
と、こっぴどく叱られてしまいました。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
さんざんべそをかいたパパは、山の持ち主の家へあやまりに行くことになりました。
パパは、庭先に出て来られたおばあさんにおわびを言いました。
すると意外なことに、おばあさんは怒るどころか、とてもにこにこ顔で、
「あれあれ。今年は森田さんちのあつし君でしたか……。筍は供養だと思って、どうぞ食べてやってちょうだい」
と、妙なことを言われました。
「くようってなんですか?」
パパがたずねると、おばあさんは黙ったまま家の中の方を指差しました。
「あっ……」
パパは、驚きで声が出ませんでした。
仏壇の上に、笑った顔のゆういち君の遺影が飾ってあったのです。
「ゆういちは、私と山に筍を採りに行くのが大好きな子でね。五年前に、病気で死んでしまったのだけど、私が筍を採りに行ったときにはいつも現れて、辺りを走り回っていたの。腰を痛めた私が山へ行かないので、一人では寂しいのでしょう。去年は、中川さんちのかずひこ君を誘ったのよ……。来年の春には元気になって、私が山へ行かなくちゃね」
笑って話すおばあさんの目には涙があふれ、いまにもこぼれ落ちそうでした。
「じゃあ、ゆういち君は幽霊ってこと?」
いろはちゃんは目を丸くしています。
「そういうことになるね」
「パパはゆういち君とお友だちだったの?」
ひなた君も、不思議そうにたずねました。
「そうだよ。パパは、おばあさんの話を聞いているうち、ひなたと同じ五歳のとき、わずか半年間だったけど、幼稚園でゆういち君と一緒だったことを思い出したんだ」
そう言ったパパの目はうるんでいました。
このときパパの頭の中は、ゆういち君とかずひこ君の三人で遊んだ思い出が駆け巡っていたのでした。
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