眠り空

水谷りさ

プロローグ

 小さな丘の上に彼女は立っていた。

 ここではない別の世界を見ているような、不思議な瞳をしていた。




 つばさは、爽やかな風を肌に感じながらゆったりと歩いている。

 部活やめてから、家に込もってばかりだったからなあ。それにしても、春風ってこんなに気持ちよかったっけ。


 なんか喉渇いたな……。

 近くにコンビニを見つけて、緑茶のペットボトルを買う。いつもならなんとなく炭酸飲料でも選ぶところだが、変な刺激を加えて今の穏やかな気持ちを壊したくなかった。


 店員の機械的な「ありがとうございましたー」という挨拶を背中で聞きながら、翼はコンビニを出た。そしてすぐにペットボトルの蓋を開けると、中身を一口含んで、渇いた口の中でゆっくりと転がすように飲んだ。それから小さく息を吐いて、考える。


 これからどうするかなー。


 考えながら今度は勢いよくお茶を飲み干し、空になったペットボトルをコンビニの入り口近くにあるゴミ箱に軽く放る。再びふらふら歩いてみることにする。


 それなりの広さの畑がぽつぽつ見える、田舎の風景。視界を遮るような高い建物は建っていない。それでも歩いていれば何件かはコンビニが見つかるぐらいの適度さ。


 これぐらいがちょうどいいのかもしれないな。

 周りを取り巻く環境も、そして何より土地も。


 翼の父親は、先日この町に家を買った。建てたのではない。あくまで築十年ほどの中古だが、念願のマイホームだ。前の持ち主は現在海外に住んでいるそうで、当分日本に戻らないからと土地ごと翼の父親に売った。


 引っ越しはまだもう少し先だ。今は3LDKのアパートに家族四人で住んでいる。翼は弟と二人でひとつの部屋を使っていたが、新しい家(といっても中古だが)では一人部屋が貰えることになっている。


 今日はそんな「我が家」の初めてのお披露目会だった。父親は家族に内緒で家を改装していたらしく、母好みの庭を造っていたり、キッチンに最新機器の設備を入れていたり。家族、特に自分の妻を喜ばせるのが好きな人なのだ。

 ほんとに平和な家族だよなあ。

 思い出し笑いをする翼。


 翼は今、その引っ越し先の町を散策中だ。両親は弟を連れて近所に挨拶に回っている。

 これから通うことになる湊渡(みなと)中学校は既に見てきた。校舎は前の中学のものより綺麗だった。広いグラウンドでは、活気に溢れた声が響いていた。校門の辺りで、ランニングしている男子集団とすれ違った。威勢のいい掛け声に合わせて走るその様子は、見ていて気持ちがよかった。

 翼はふとつぶやく。


「あの学校にも陸上部あるかな」


 引っ越しの関係で数週間前にやめてしまったが、陸上部に所属していて短距離の選手だった。基本的に、走るのが好き。風と一体になるようなあの感覚はやめられない、と思う。


 なんだか身体がうずくのを感じた。ああ、この感覚は……。

 ふっと身体が軽くなった。高ぶる気持ちのまま。翼は走り出した。


「うー、なんか久しぶり、この風」


 やっぱこの風は格別。


 車の通りが少ないところも、やはり田舎だ。しかし、おかげで周りを気にすることなく走れる。


 ちょっと身体が鈍ってきてるかもな……。息が切れるのが早い。


 ペースを緩め、しばらく走ると、随分と違う風景に出会った。ビルの立ち並ぶ都会ではなく、かといって田畑に埋もれた田舎でもなく……あえて言うなら、自然。都会や田舎といった住む人間に影響された言葉では表せない。手つかずの自然。荒れているわけではない。それらはそのまま、美しい姿を誰にも荒らされることなく存在している。


 名も知らない草花が揺れる。どこまでも透けて見えそうな澄んだ空気に満ちている。呼吸するのがとても心地よい。

 一面の野原に色とりどりの可憐な花が咲き散っている。


 野原の真ん中は小高い丘になっていた。


「あれ」


 丘のてっぺんで、白い何かがゆらゆらしている。最初は背の高い花かと思った。


「……人?」


 しかし近づいて行くうちに、それが人間のシルエットだということに気づいた。白いワンピースを着た……少女。


 次の瞬間、思わず目を疑った。

 目の前から少女が消えた。


 ……消えた?


 翼は急いでその丘をかけ上った。すると、反対側の麓に何かが倒れているのを見つけた。


「まさかここから……落ちた……のか?」


 すっと血の気が引いていくのを感じた。呆然としそうになり、慌てて意識を覚醒させた。


 恐る恐る丘を下る。一歩一歩踏みしめるように。時折足下の草花にふんわりと脚を持っていかれそうになる。足を地に下ろす度、自分が自然と同化していくような感覚。


 上りよりいくらか時間をかけて、翼は麓まで下りた。すぐ足下に白い何かが埋もれている。風が吹いて、周りの花と一緒にわずかに舞い上がる。


 翼はそっとその場にしゃがんだ。目の前の背の高い草をかき分けながら、そこに埋もれているものを確かめた。


 少女は気を失っていた。草花がクッションになったのか、目立った怪我はなさそうだ。それに安心する。しかし長い髪が乱れ、白いワンピースは土で汚れてしまっている。


 こんな風景にたたずんでいたためか、その少女はまるで人間離れしていた。

 ワンピースの白がかすんでしまうほど透き通って見える肌。閉じられた目元には長い睫毛が影を落とす。


「生きてるよな?」


 翼は少女を揺り起こそうと手を伸ばしかけて、ためらった。触れたらその瞬間崩れてしまうのではないかと思われるような繊細な美しさ。まるで天使のように安らかな表情。

 風に吹かれた草花が優しく少女の頬を撫でる。


「早く起きなよ……天使さん」


 自分でも、どんな思いでそう言ったのかわからない。ただ心の奥の方から優しい風が吹く。翼は自分の発した言葉に驚き、こんな気持ちは初めてだと思った。


「あ……」


 翼の口から溜息のような声が漏れた。


 少女のまぶたがゆっくりと持ち上がった。濃い藍色の瞳が静かに辺りを見渡して、その後何度かまばたいた。

 少女はより一層頭を草の茂みにうずめ、やがて形のいい唇をわずかに開いた。


「……飛べると思ったのに」


 それは天使の歌声さながらに高く澄んだソプラノで、すっと耳に染み込んで心地よい。


「本物の天使……?」


 一方翼は内心穏やかでいられなかった。心臓が大きく音を立てる。

 まさか本当に……?


 横になったまま、少女は顔だけ翼の方に向ける。


「……誰」


 翼は緊張した面持ちで答える。


「俺は、ツバサ。君、は?」

「私は………………」


 少女は身体を起こそうとして小さく悲鳴を上げた。どこかを痛めているらしい。翼は反射的に手を差し出した。わずかに少女が右腕を浮かせると、翼は彼女をそっと立たせた。


「ありがとう」


 少女は澄んだ声で言った。


「君って天使なの?」


 翼が尋ねると、少女は驚いた顔をした後少し笑った。


「秘密」


 そして翼に背を向ける。


「さようなら」


 遠ざかる少女の背中を、翼は不思議な気持ちで見送った。


 夢でも見ていたみたいだ。

 それは暖かな春の眠り。春の夢……。



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