第2話 任務
「来たぞ」
耳元から聞こえてきたその声に、先織杏は眼を覚ました。
(眼を覚ました?)
内心の声に、疑問を抱く。そして、バネが弾けたように、床から躰を引き剥がし、右腕につけている腕時計で時間を確認した。長針と短針がほぼ重なり、上を向いている。
(0時2分31……32秒)
どうやら眠っていたのは、ほんの数秒程度だったらしい。先織はホッと胸をなでおろす。
仕事中に居眠りとは、我ながら呆れ返る。だが、もう既に丸二日間、ろくな睡眠も取っていない。躰も頭も、極度に疲労していた。
先織は頭を振り、こめかみに指を当てた。鈍重な頭に、霧が掛かったような思考。まだ夢からの完全には覚醒していない。頭の体操がてら、現況の整理を行う。
名前は先織杏。26歳。女性。公務員。未婚者。彼氏持ち。現在いる場所は、神奈川県横岳市西区。住民街である北区を離れ、ビルが建ち並ぶオフィス街。その建物の一つ。五階建の廃ビル。その四階。窓辺――ガラスが全て割れている――に座り、頭から毛布をかぶって、正面の通りを双眼鏡で監視していた。
固まった肺に、冬の冷たい空気をいっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出す。躰中の血管に、冷水が流されるような感覚。反射的に躰が震えた。今日は特に冷える。先織は両腕をこすりながら、全身をピッチリと覆う戦闘服を意識した。
この服は、荒事をまかされることが多いこの仕事において、実質的なデファクトスタンダードとなっている。鎖を編みこんだ高い防御力と、各所に設けられた収納部、そして、優れた可動性に羽毛のような軽さ。こと近接戦闘において、これ以上の機能性を持つ服は望めないだろう。だが残念なことに、敵の攻撃から身を守ってくれるこの服も、冬の寒さから身を守るという点においては無力だった。まるで、全裸で外に放り出されているかのように、冬の夜風で先織の躰は冷えきっていた。
先織は、寒さからかじかんだ手に、白い息を吐きかけ、掌をこすり合わせる。監視を初めてから三日目。いい加減に、暖かいお風呂に入って、ゆっくりと躰を休めたい。
そして何よりも、躰を洗いたかった。
自身から漂う汗の臭いにそう切に思う。肩まで伸ばした黒髪。トリートメントを欠かさないその髪も、いまは艶もなくパサついている。躰も頭も念入りに洗いたい。熱めの湯船に長時間浸かりたい。そして、風呂あがりには、美味しいお酒を飲んで――
(……って、何を考えているんだ。私は)
先織は頭を振って、不要な雑念を追い払う。
とここで再び、左耳に装備したインカムから、仲間の声が聞こえた。
「そっちに行った。注意して確認してくれ」
躰に緊張がはしる。窓から正面の通りを確認する。携帯している双眼鏡は暗視スコープとしての機能も持っていたが、月明かりが強い今晩は、十分に肉眼で対象物を確認できる。
通りの奥から二台のトラックが姿を現した。
至ってシンプルな外観をした車体に、法定速度をきっちり守った――測ったわけではないが、きっとそうなのだろう――今時珍しいぐらい模範的な運転をしている二台のトラック。一見すると、特別に怪しいところがあるわけではない。だが先織は確信した。
(あの中に、違法取引の商品が詰まっているというわけか)
違法取引の商品――つまり『器』だ。
先織は窓枠から少し離れると、戦闘服に内蔵している装備品を素早く確認する。拳銃と小型ナイフが数本。爆薬が少量。スタンガン。鉄製のワイヤー。あとは換えのマガジン。
一通り装備品を確認し終えると、先織は大きく深呼吸をした。気持ちを落ち着かせ、これから自分がすべき行動を、ひとつひとつ頭のなかで確認していく。
失敗は許されない。しくじれば、今までの苦労が、すべて水泡に帰してしまう。
先織は覚悟を固めると、窓の外を覗き見る。二台のトラックはスピードを緩め、正面右側の建物にゆっくりと入っていった。
そこまで確認して、先織はインカムを通して、仲間に連絡を取る。
神奈川県警本部組織犯罪対策部組織犯罪対策治安維持強行課第二係。
通称、強行課二係。
その任務がいま、開始される。
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