撃ち落とされるまで、あと何分?

飛野猶

第1章 日本

第1話 破壊される美しい古都

 アレッポは、1986年に世界文化遺産に登録されたほどの、シリアが世界に誇る美しい古都だった。


 紀元前10世紀に建設され、12世紀から14世紀にかけてモンゴル帝国や十字軍からの攻撃にも耐えたアレッポ城。

 スークと呼ばれる、アラブ世界で典型的な美しい市場は世界最大規模のもので、人々は商いをするため、ただ語り合うために集まり、常に賑わっていた。

 スークの北側にある大モスクグレート・モスクは、その建築様式が他のモスクの手本となったと言われている。


 この街で産まれ、この街で育ったエルカシュは、この美しく古い街が大好きだった。

 人々は、ささやかな日常を楽しみ、家族や友と日々穏やかに暮らしていた。

 それが一変したのは、2011年からだ。


 その、何千年もの長い月日をかけて人々が築き上げてきたものが、今は、無残に破壊しつくされている。

 アレッポ城の城砦は爆撃によって大きな損害をうけ、大モスクグレート・モスクを始めとする多くのモスクは全壊した。

 スークも大半が焼失し、昔の面影はない。




 ロシアと政府軍の軍用機は、夜となく昼となく、だいたい毎日同じ時間に飛んできた。

 昨日落下した樽爆弾で瓦礫がれきだらけになった近所の表通り。

 エルカシュは、その瓦礫を手でどける作業を手伝っていた。


 まだこの瓦礫がれきの下には、近所の家族が埋まっている。その中には、まだ歩き始めたばかりの子どももいた。笑顔のかわいい子だった。

 せめて、子どもたちだけでも掘り出してあげたい。


 崩れた瓦礫から舞い上がる塵で、黙々と作業を続ける男たちの顔も頭も服も、すぐに白くなる。

 それでも、男たちは手を止めようとはしなかった。

 ここに埋まっているのが自分ではないのは、単なる偶然でしかない。明日は我が身だ。


 ふいに、一緒に作業していた仲間の一人が、「おい」と声を上げた。

 エルカシュは、屈めていた腰を伸ばすと。塵まみれになった顔を、同じように真っ白になった服の袖で拭う。


「来るぞ!」


 その声で、全員が作業の手を止め、一瞬にして辺りに緊張が走った。

 耳を澄ませたエルカシュの両耳に、低い唸りのような音が聞こえてくる。


 毎日聞いている、悪魔のような音だ。

 この街に、安全な場所など一つもない。

 爆音が轟く。


「落ちたぞ!」


 誰かが叫んだ。

 さっそく、攻撃が開始されたらしい。

 皆が、空を見上げる。


 落ちてくるのが樽爆弾ならば、軍用機から自然に落下してくるだけなので、投下からの数秒の間にだいたい落下地点が予測できるのだ。ほんの数秒だが、その数秒が命の境目になる。運が良ければ、逃げることもできた。


 しかし、通称「エレファント・ロケット」と呼ばれるものは、落下地点が予想できない。まるで象の断末魔みたいな気味の悪い音をあげて落下してくるロケットだ。


 飛行機の音が、こちらに近づいてくる。

 あの陰鬱な象の断末魔が聞こえた。


「エレファント・ロケットだ!」


 誰かが叫んだ。次の瞬間、その声も、爆音と激しい振動でかき消される。


 巻き上がり吹き付ける砂埃。エルカシュは腕で目を庇いながら、爆風を遮る。

 通りの奥、エルカシュたちがいるところからほんの100メートルほど離れた場所で大きな黒煙が上がっていた。その黒煙は通りの両側に建つ7、8階建ての建物よりもさらに上部まで膨らみ、辺りを包み込む。




 2016年秋。 

 160万人が暮らすシリア北部最大の都市、アレッポは瓦礫の山になろうとしていた。

 5年前から始まった紛争の末、アレッポの街は周囲を政府軍に包囲され、人の移動はもちろん補給路すら絶たれ孤立していた。

 そこに、政府軍とロシア軍の軍用機が日に何度も飛び交い、地中貫通爆弾バンカーバスターやクラスター爆弾、樽爆弾を雨のように落とした。


 それは絨毯爆撃とも、いえるものだった。

 食料すらつきた街の中で、飢えと落下してくる爆弾から逃げながら、人々は肩を寄せ合い死を覚悟していた。


 シリアは、アサド政権とそれを支援するロシアとイラン。ヌスラ戦線をはじめとする反政府勢力とそれを支援する西側諸国。それに、内紛の中で育ったIS(イスラム国)が三つ巴になって、戦いを繰り広げている。


 ここアレッポは、元は穏健派の反政府勢力が支配している地域だったが、そこに対して政府軍とロシア軍は協働して数か月に渡る徹底攻撃を行っていた。





 被害の状況を目を凝らして見ようとしたエルカシュの隣で、仲間が手を振り上げる。

 指さされた上空に目をやると、ちょうどエルカシュたちの真上を通り過ぎる軍用機の影が見えた。


 象の断末魔が聞こえる。

 その軍用機が去ったすぐ後に、日光を受けてきらきらと光るものが一つ見えた。


「次、来るぞ!」


 それは、軍用機の後を追うようにエルカシュの頭上から飛び去った。

 それから数秒の沈黙のあと、再び地響きと轟音がエルカシュたちを襲う。着弾したのだ。

 どこに落ちたんだ?

 エルカシュは、胸元のシャツをぎゅっと掴む。


(なんだろう、この嫌な感じ)


 妙な胸騒ぎが、ふつふつと沸き起こってきた。

 轟音がした方向から、煙と粉塵が舞い上がる。

 周りの建物よりもはるかに高く伸びあがった化け物のようにモクモクとした煙を見上げ、はっとエルカシュは息を飲んだ。

 そして、現場を放り出して駆けだす。噴煙の立ちのぼる方へ。


(あっちは、ナディムがいる方向だ!)


 嫌な予感が、どんどん強くなる。

 政府軍にアレッポの街を封鎖されてから、街の外からの物資の補給は絶たれていた。

 それ以降、人々は空き地という空き地に畑を作り、なんとか自給自足で命を繋いでいる。


 エルカシュは、弟のナディムと二人暮らしだった。両親はとうに亡くした。

 ナディムは、今日も公園にいるはずだ。あそこには、この地域の住民たちが作る畑がある。

 昨日、働きが良いからって畑から取れた芋を少し多めに分けてもらえたんだ、と嬉しそうに調理していた弟の姿が脳裏に鮮やかに蘇ってきた。


 通りを駆け抜けていく。

 ふいに、道路の脇で舞い上がる噴煙を眺めていた街人の世間話のような会話が耳に飛び込んできた。


「どこに落ちた?」

「公園だってさ」


 はっとして、足を止めそうになったがなんとか堪えて、そのまま走り続ける。

 神よ。弟を。ナディムをお守りください。

 唯一、絶対のアッラーよ! どうか!

 そう、何度も何度も心の中で呟いた。


 あの角を曲がれば、公園が見えるはずだ。

 エルカシュは走る勢いも殺さず、踏み込んだ足に力を込めて無理やり角を曲がる。

 そして公園にまっすぐに駆けつけようとした。


 しかし、エルカシュの足は、急激に速度を落とし、ついに歩くだけになり、立ち止まった。

 辺りの景色が。

 自分が記憶している、公園周辺の景色とは一変していた。


 まだ、辺りには黄色い粉塵が煙幕のように舞い上がって、視界は悪い。

 しかし、それでも。粉塵の濃度が一番濃い部分は分かる。それは、公園が位置する場所と重なった。


 道路には吹き飛んで来たのであろう、瓦礫が散乱している。

 その瓦礫に躓きそうになりながら、横転して転がっている車を避けながら。

 エルカシュは公園へと近づいた。


 公園を取り囲んでいた煉瓦づくりの塀も、あちこちが吹き飛んでしまっている。

 公園の中は驚くほど、静かだった。

 たくさんの人が、ここで作業をしていたはずなのに。

 いまだ、黄色い粉塵が視界を遮るが、腕を掲げてエルカシュは目を凝らした。


「……ナディム? ……ナディム! どこだ、ナディム! 返事してくれよ!」


 少しの静寂の後、うめき声を聞いた気がして足元に人影を探す。

 うめき声の主はすぐに見つかった。

 足元に、全身粉塵で真っ白になったまま転がっていたのは、子どもの頃からよくナディムと二人でお使いに行っていた雑貨屋の親父だった。

 足がありえない方向に曲がっている。


「大丈夫か?! いま……」


 医者をと言おうとして、エルカシュは唇を噛んだ。

 政府軍に包囲されてから、どこでも医薬品は枯渇してしまっていた。医者のところに連れて行ったところで、包帯すらないのだ。


「……エ、エルカシュか……」


 エルカシュは、ひざまづいて親父の手を取ると両掌で握りこんだ。


「親父さん! しっかりしろよ!」


 親父は僅かに頬を歪めた。痛みでそうしたのかもしれないし、もしかしたらエルカシュを元気づけようと笑ったつもりだったのかもしれない。


「お前の、弟は……ナディムは、あっちの奥の畑で、今朝方、みかけた……行ってやれ」


 エルカシュは、親父の手を握ったまま大きく頷いた。頷いた拍子に、雫が落ちる。

 いつの間にか、双眸から涙が溢れていた。


「でも、親父さんをこのまま置いておくわけにも……」


 辺りを見回すも、薄まりつつある粉塵の中、動いている人影は自分以外見当たらない。

 ふと、握っていた親父の手が重みを増すのを感じた。力なく垂れた腕。

 既に親父は事切れていた。

 エルカシュはそっと親父の手を地面に置くと、掌で静かに彼の瞼を閉じてやる。

 そして立ち上がると、腕で乱暴に自分の涙を拭った。


 インナー・リッラーヒ・ワ・インナー・イライヒ・ラジウーン

(まこと、我らはアッラーのもの。まこと、我らはアッラーの許へ帰るのだ)


 アッラーフ・アクバル

(アッラーは偉大なり)


 死者に送る決まり文句を唱え、その場を後にする。

 そして再び、弟を探した。今度は、雑貨屋の親父に教えてもらった方向に目星をつけて足を繰り出す。


「……ナディム。ナディム! 返事をしてくれよ、ナディム!」


 その付近の現状は、凄惨を極めていた。

 爆心地はこの付近だったらしく。地面は掘り返されたように大きく抉れ、爆破の衝撃は公園の隣に立っていた建物にまで及んだようだ。

 建物は、まるで食べている途中のケーキのように公園側が削り取られていた。


 散乱する木々や瓦礫、その間に物のように転がる人間らしきもの。

 その誰もが、力なく横たわっていた。ある者は、地面に。ある者は瓦礫の山の中に。

 エルカシュは夢中で、ナディムの名を呼びながら、弟の姿を探し続けた。


 何人もの遺体を確認した後、エルカシュはついにその姿を見つける。

 最愛なる弟は、体半分を瓦礫の下に埋もれさせながら横たわっていた。


「ナディム!」


 エルカシュは、弟の身体の上の瓦礫を手で払いのけた。手が瓦礫の角で切れて血がにじむが気にせず弟の身体にのる重たいものをどけ、その身体を引っ張り出す。

 弟の身体は頭の先から靴まで、真っ白になっていた。

 その砂まみれの頬に、滴が一つ二つと落ちる。エルカシュが落とした涙だった。


「ナディム! ナディム! おい……起きてくれよ、ナディム!」


 エルカシュは、ナディムの頬を何度も叩いた。しかし、弟の四肢は糸の切れた操り人形のように、ぐったりと力ない。

 イスラム教では、死は人生の終焉ではないと説いている。

 今世での行いは来世に影響を及ぼす。今世で良い行いをしたものは、来世で天国へと行ける。だから、死は決して嘆くようなものではないのだ、と。


 それでいくと、ナディムは何の問題もなかった。

 敬虔で、だれに対しても優しく、誠実だった弟。

 皆に好かれ、友達も多くいた。

 人付き合いが苦手な自分と違って、誰からも好かれる弟のおかげで、爆撃と飢えにさらされるこの地でも、周りの人たちに助けられながらなんとか二人で生き延びてこられた。

 弟は、間違いなく、天国へと行けるだろう。


 でも。

 心を闇が覆う。黒い黒い闇がエルカシュを襲う。

 身体の真ん中に大きな穴が開き、そこに空っ風が吹きすさんで荒れ狂い、その奥にどす黒い感情が渦巻き始めるようだった。


「ナディム!!!!! 頼む、目を覚ましてくれ!!!!! お前まで、行ってしまわないでくれ!!!!」


 エルカシュは、弟の身体をかき抱くように抱きしめ、叫ぶ。

 まだ、弟の身体は温かかった。


「誰だよ。ナディムを、こんなにしたやつは。……許さない……許さねぇ……。ロシアの異教徒め!!! アサドの犬どもめ!!! ナディムがお前らに何をした。なんで。なんでこんなことするんだ……お前らはどれだけ奪い続ければ、気が済むんだよ……!!!!!!」


 きっ、とエルカシュは顔を上げて天を睨んだ。そこには、とっくに軍用機の機影などは見えはしないが。


「許さねぇ!!!!!!! お前ら一人残らず、同じ目にわせてやる。神の裁きを受けろ!!!! ぶっ殺してやる!!!!!!」


 エルカシュの叫びは、粉塵の中に木霊した。

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