氷面鏡の恋

夢渡

第1話.出会いときっかけと

 私の彼は白血病だ。不治の病という訳では無いけれど、決して軽くは無い病気。

 隔離された病棟で、死のリスクを感じながら孤独感と闘わなければならない病気。

 そんな彼に――私は命を救われた。





「気分は大丈夫? 苦しかったら、すぐに先生に教えてね」


 深々と雪が降るこの季節。人工的な熱気と隣人の熱でむせそうになっていたが、着信を告げる微かな振動音が、熱源たる人物を追い払う。慌ただしく離れていくその様を呆れるように眺め、御互いの姿が見えなくなった辺りで、私は長椅子から席を立った。

 程なくして、自販機の設置されたエリアに辿り着いた私は、需要により隅へと追いやられた寒色達の中から一つを選ぶ。雪よりも温かく、室内よりも冷やかな缶を取り出そうと手を伸ばすと――ふと、利き手首に貼った絆創膏が視界に入った。

 それは病院に来る事になった頭の怪我に比べると、とても小さく些細な傷。けれど生れて初めて自分で付けた深い傷で、誰にも言えない重い傷跡。


 見ているだけで唇を噛みしめ、頭を掻き毟りたくなるような気持ちを、ここではまだ出すまいとする思考は、頬に伝わる冷たい感触にかき消える。


「えっと……これは君の買ったジュースで良いんだよね?」


 何時の間にか私の買った缶を手に取り、窺うようにこちらを見つめる若い男は、空調の効いた病院内だと言うのに赤いニット帽を被り、見ず知らずの私に問いかけていた。


「そう、ですけど……」


 あからさまに怪しい男に警戒し、なんとか声をひねり出す。よく見ると剃っているのか眉毛は薄く、なりは細いが一般人とは少し違う風貌に、私は後ずさりながら逃げるべきか声を張り上げるべきかを考えていた。


「あぁ違う違う。僕も飲み物を買おうとここに来たら、君が自販機の前で突っ立ってたままだったから、それで心配になって声をかけただけだよ」


 男も私の表情から察したのか、缶を持つ手を下し、弱々しい笑みで手を振り弁明する。恐る恐る男から冷えた缶を受け取ると、男は私が塞いでいた自販機で飲み物を選び出した。


「驚かせたお詫びと言ってはなんだけど、良かったらお菓子貰ってくれないかい? 実は売店で買いすぎちゃってね」


「いや、あの……流石に見ず知らずの人から頂くのはちょっと」


 そうかそりゃそうだと男は笑う。右手にぶら下げたビニル袋からは、確かに色とりどりのお菓子の袋が顔をのぞかせていた。


「いや本当にごめんね? 病院で制服姿の可愛い女の子なんて珍しいから、つい声をかけるついでに悪戯心が働いちゃって」


「その、ナンパ……とかなら、そういうのはちょっと」


「そっかー、駄目かー。残念」


 優男と例えるには些か遠く。儚く笑う男は、缶の蓋を開けて袋からお菓子を一つ取り出すと、封を切って口に運ぶ。こんな怪しい男に付き合う必要は無いのだけれど、つられて自分もその場で缶の蓋を開けてしまい、その場を離れる訳にはいかなくなった。


「――傷、痛そうだね」


「その、学校の階段で転んだ時に頭切っちゃったみたいで――」


「そっちじゃないよ」


「え?」


 彼が指差す先にあったのは、誤魔化すようにして貼られた腕の絆創膏。傷の度合いで言えば明らかに頭の怪我の方が重傷で目立つのに。心の中を見透かされた指摘に、さっきまで眺めて気分がざわついていたのを思い出し、吐き出さない様に息を吞んだ。


「何があったのかは知らないけど、折角の綺麗な体に傷つけちゃ駄目だよ」


「――――だっ!」


「霜霧さーん、霜霧しもぎり 幸奈ゆきなさーん」


 感情が爆発して目の前の男にぶつける寸前、よく通る女性の声が私を遮る。私の名前を呼ぶ看護婦さんから察するに、大方無言で離れた私を、先生が探しているのだろう。私は缶の中身を飲み干すと、彼に会釈をすると同時に気持ちを落ち着かせ、そそくさとその場を去ろうとした。


「お大事にね、幸奈ちゃん。また会えたら――綺麗なままの姿で会いたいな」


 だけど最後に投げ掛けられたその一言にだけ、私は後ろ髪を引かれながら、迎えに来た母親と共に病院を後にした。





 高校に入って一年目。私はよくある中身の無い理由で、女子グループから爪弾きにされた。どちらかと言うと大人しい部類に入る私がいじめ易かった――と言う訳では恐らく無いのだろう。

 ああいうのは、そもそも脈略も理由も時期も原因も突然なのだ。ただ運悪くグループの中で私の話題が出て、運悪くそれが悪質で伝播するものだっただけ。

 広がった悪性は悪意に変わり、ウィルスのように広がったそれに数名が感染し、残りは合わせてしまうのだ。そういうもの――集団心理と言う奴だ。だから一年は耐えられた。


 だけどそのウィルスは思っていたよりずっとたちが悪く、二年になった頃には更に症状を悪化させて私を攻め立てた。

 言葉や態度だけではなく、より行動的に、より直接的に。一度は担任に相談してみたが、今の世の中そういう噂だけでも立てたく無いのだろう。担任は必死になって私をなだめるだけしかしなかった。

 両親には話せない。母に心配をかけたくないと言うのもあるけれど、私の父は一昔前の厳しい性格だ。きっと話してもいじめになんて負けずに立ち向かえとでも言うのだろう。

 何より身内に担任と同じ対応をされた時を想像するだけで、振り降ろされる恐怖に最後の壁が壊されてしまいそうで、とても口には出来なかった。

 行き詰まりを見せた私の心は、今まで他人事としてしか知らなかった行為に手をかける。直接的に相手取るには数が多すぎるから、私の命と引き換えにあいつら全員と、逃げ腰の学校側もせいぜい世間から爪弾きにされれば良いと――


 でもいつも寸でのところで手が止まる。何回やっても何回決意しても傷だけが数を増やして、いじめるあいつらや親にまで隠す日々が続く。

 家でも休まる時間が減って、最後の壁にヒビが見え始めた頃。私はついに階段から落とされた。

 上辺だけ心配する先生達が騒ぎ立て、隠す様に病院に連れ込まれた。幸か不幸か傷は浅く、軽い治療で済んだけど。私は頭を打ったからなのか、遂におかしくなったのか、家に帰れば今まで手が止まっていたその先がやっと行えるのだと、あの瞬間までは確信していた。





「本日はどうされましたか?」


 病院入口の受付で看護婦さんに呼び止められる。制服を着た学生が、一人できょろきょろしていれば当然だ。


「あ――えっと、人を、探してて……」


「面会ですか。病室番号かお名前はわかりますか?」


「え⁉ いや、えーっと……」


 聞かれて初めて気付いた。私は彼の名前も何も知りはしない。そもそも病院服ですらなかったのだから、ここに入院してる訳では無いはずだと容易に判断出来たはずなのに。


 あの頭の怪我で訪れた日、家に帰って一線を越えようとした私は、脳裏にちらつく彼のあの儚い笑顔と再会の一言に阻まれて、のうのうと今日まで生きている――いや、生きていると言うよりも、今日この日まではただ最後に残された未練だけで体が動いていた。

 ただ漠然と、衝動的にもう一度会いたくて、同じ曜日の同じ時間まで、ただただ生きながらえただけなのだ。


 眼前の看護婦さんが、あまりにも挙動不審で怪しく見えた私に対して、彼女が鋭い目つきで言葉を発する寸前。あの日一度だけ聞いたあの声が、二人の間に割って入る。


春風はるかぜさんのお知り合いですか?」


「えぇまぁ、知ってる子です。どうしたの? また怪我でもしたの?」


 探し人は先週と変わらぬ赤いニット帽に赤いダウンジャケットを着て、もう一度私の前に現れた。

 

「春風さんは何時もの定期検診ですね」


「あ、はいそうです」


「では準備が出来たらお呼びします――分かりやすいとはいえ、病院を待ち合わせに使わないで下さいね」


 看護婦さんのお小言に生返事で返す彼を見て、思わず笑みが漏れてしまう。突然現れたのは私の方なのに、それでも彼は私を迎えてくれたのだ。





「僕を探してたって、一体どういう事?」


「それだけですよ。会ってもう一度話したかっただけです。それにあの時また会えたらって言ったのは、そっちじゃないですか」


「それは――」


 彼がばつが悪そうな顔で首筋を掻く。初めて出会ったあの自販機の前で同じ銘柄の缶を持った彼がそれを飲み干すと、ゆっくりと口を開いて答えてくれた。


「あれは、おまじないみたいなつもりだったんだけどね」


「おまじない?」


「あの時の君、今にも死にそうだったからさ。そうさせない為の、また会うおまじない」


 あの時と同じく息を吞む。心が締まる感覚に襲われて手に持つ缶を落としそうになる。


「――どうして、そう思ったんですか?」


「僕にもそんな時期があったからね。幸奈ちゃんは白血病ってしってる?」


 そこから聞かされる彼の事。白血病だと告げられた時の虚脱感。入院の末、好きでやっていた仕事を辞めざるおえなかった事、闘病中の痛みや投薬による副作用、生きる希望を失いかけて、何度も自殺も考えた事。


「でもね、ある日同じ病気の人達を見て、僕は酷い思い違いをしてたんだと痛感したよ」


 自分と同じように絶望し、生きる希望を失った人。以前は自分より酷い症状だったのに、懸命に生きようとする人。

 彼から聞かされる人達は、同じ病の筈なのに、全く別の病気じゃないのかと疑う程の差があった。


「僕みたいに投薬だけで治る人もいれば、そうじゃない人もいる。僕より酷い症状だった人が笑って生きようとしてるのを見たら、ここで終わりだなんてとてもじゃないが思えなくなったよ」


「それで、私を励ましてくれたんですか?」


「励ましたんじゃないよ。言っただろう? おまじないだって」


 励ますなんて出来やしない。その苦しみや辛さは同じ質量であったとしても、当人にしかどう感じるか分からない。だからこそのきっかけ。だからこそのおまじないだと彼は言う。


「結局は本人次第だから、大丈夫だなんて易々と言えやしない。重要なのはどれだけ多く、どうすれば良いかを考えて、どれだけ多く挑んで貰えるかなんだよ」


 どうせ死のうとするのなら、視野を最大限に広げて、他に何か出来ないかを考えてからでも遅くないよと、そう語って検診に呼ばれた彼を見送る。

 そこに出会った時に感じた儚さは無く、今の私にはとても輝いて見えたから。私は帰って来た彼に甘えて、自分の事を時間の許す限り話し続けた。





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