ナ ジ

里岐 史紋

第1話①

    ヨナ書(ヨナ書4・6~7)

 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。

日本聖書教会 新共同訳より


 山の麓は別の国で、村は山の中腹にあった。山の裾野に広がる広大な平地から村に来るためには、草木で覆われた道を登ってこなければならなかった。しかも、この村のさらに先は人の住めない山の頂上に続いている、激しい登山道になっていた。この村を通って、さらに人の住む地に向かうわけにはいかない。村の家々は山肌が露出した絶壁の下に、群生したキノコのように立っていた。その絶壁を東に回り込むと、今度は絶壁の頂点になった。したがって村は、山の中間点に存し、村を中心として村から山の上方に向かっての絶壁と地に向かっての絶壁を別々のところに有していた。

 地に向かう絶壁では山の傾斜がすとんと切り落とされ、そのはるか下に黒褐色の岩が不規則に連なり、その間を恐ろしい量の水がうねり、さらに次の断崖にむかって落下していた。その頂点にある、幅1メートル程の縁を、つるつると滑る岩肌に手を置いてそろりと2メートル程辿ると、そこに洞窟があった。その洞窟から二筋の水が流れ出てくる。洞窟の奥は深く、その突き当たりは低い棚のようになっていて、さらにそこの奥壁の二つの亀裂から清水が湧き出していた。流れ出た水は混じることなく、それぞれが小さな流れ路をつくり、そのまま洞窟の入り口から流れ落ちていくが、下まで落ちることなく、途中で霧消した。村人は、流れ落ちるとこに必要に応じて樋竹を渡し、その水を桶に溜め、生活に使っていた。水は枯れることはなく豊富で、桶はあっという間に水が溜まり溢れ出た。

 男は15歳の春を迎えると、成人の儀で、その洞窟に三日三晩を一人で過ごさねばならない。春とはいえ雪深い山奥の地であるから、岩肌に沿った1メートルの縁は年によっては、まだ氷で固められている。儀式に向かう男は、腰に命綱を巻いて、かんじきをはき洞窟に向かう。命綱の端は山桜の木に巻かれ、さらに村の男衆がその綱を握る。1メートルの縁をそろりと先に進むうちに突風に見舞われ絶壁に身を投げ出してしまうことも希ではない。男衆は綱を引き上げ、儀の男は再度挑戦することになる。

一度目よりも顔面の蒼白は際だって雪焼けの顔色が毒づいたように、赤みを帯びた黒青に変わる。


 嘗て、命綱は最近に儀を終了した二人の男によって支えられていたときがあった。

 ある年、儀をむかえる男の巨漢に比し支える男二人があまりに貧相であったにも関わらず、二人とも向こう見ずで、落ち着きが無く、さらに考える能力が欠如していて、兎角その様な者に言えることだが、饒舌演説好きで、人一倍見栄が強い。片方の男が断崖の縁に立ち、もう一人の男を肝っ玉が小さいと煽り始めた。一方の男も慌てて断崖の縁に寄ると、片方の足を断崖から宙に浮かせて見せて、おまえの方が腰抜けだと言い返す。村人は危ないから「やめろ」と怒鳴るが、手を出してはいけない仕来りであるから、どうしようもない。儀を行う巨漢の男は、自分が洞窟に向かえば、二人の馬鹿騒ぎも収まるだろうし、何時までも儀を行えないことに苛立ちを覚えてきたこともあって、幅1メートルの縁に足を掛けた。そこに特大の突風が吹き付け、まるで水泳の高飛び込みをするように派手に落ちた。二人のロープを握っていた者は、ロープの桜の木への結わいつけ方もいい加減だったので、ロープはすぐに外れ、心構えも出来ないまま、一気に奈落の底に落ちた。三人の命は瞬時に散った。

 その時以来、命綱の扱いは変わったが、儀式はその後もずっと続いていた。

 満月の夜、月明かりに照らされた谷底を見ると三人の男がふざけ走り回っているのが見えると言う。また春先の夜中、たどり着けなかった巨漢の男の恨みがましい声が洞窟から聞こえたと言う話も、まことしやかに村人の間に伝わっていた。そのことがこの儀を、それを迎える男に一層の恐怖を与えることとなった。

 儀の男は無事洞窟にたどり着いても命綱を身体から離すことはない。三日三晩は一切の連絡を絶ち洞窟の奥で座り続けなければならない。しかし三日目の夜に男が洞窟から出てくる気配が無ければ、村人は命綱を引っ張りその消息を確認することになる。

語り草になっている話であるが、儀を執り行っている男が、三日目の夕暮れになっても顔を出さない。心配した村人が、親父を先頭に命綱を引いてみると、泥から藁を抜くように、簡単に引っ張れてしまう。命綱の先が切られていた。青くなった親が声を限りに子の名前を呼ぶと、大きな目が赤く光った熊の顔が出てきた。

 この話が由来になって、儀を行う前に、五本の松明が洞窟に投げ入れられることになっている。

今年は儀を執り行う子供がいない。儀を行う子供がいない年は、村に悲しみが襲う。

働き盛りの男が二人死んだ。


 村に冷害が襲い作物が採れず、味噌や獣の肉の薫製の備蓄も底をつき、二人の豪腕な壮年の男が槍を持ち獣を取りに山に入った。かんじきは履いているが、降り続いている雪で早くは歩けない。必死で斜面を上がっていく。早朝に里を出たが、日の覆われた雪山は闇が訪れるのが早い。慌ててカンテラに火打ち石で明かりを灯した。

 鹿の足跡も野鳥の鳴き声もなく、ネズミ一匹さえ得られなかった。空腹で村にもどる足取りは重く、疲労も収穫のない肩に重くのし掛かっていた。

やがて庵が闇を濃くするように黒々と見えてきた。

 気絶しそうに怠い男共の周りに、まるで銀色の人魂のような目がうようよと浮かんでいた。やはり食べ物が無く里に下っていく狼の群れに囲まれていた。いくら豪腕でも意識も薄らぎ足場が悪ければ力はでない。さらさらとした雪の上に鮮血が飛び散る。しんと静まりかえる暗黒の雪景色を地の果てまでも引っ張るように、隠されていた最後の力が悲鳴となって飛んで行った。

 どの村人も雪に閉ざされた庵の中で、心を深閑とさせ、その音を耳の奧で聞いていた。

 囲炉裏の灰の中から、爆ぜた団栗の実を火箸で摘み上げていたマヤ婆と村人から呼ばれている老婆は、その絶叫を、皺で覆われた肌の全身で受けとめていた。

ゴム長にかんじきを結わいつけると土間のひび割れた壁にへばり付いている鋤を掴む。引き戸を押し倒すように開ける。降り続ける雪は吹雪になっていた。

悲鳴の余韻が残る闇をがむしゃらに走る。

マヤ婆の形相は夜も引き裂く深い祈りを滲み出していて、その射すような眼光は、一心不乱に獲物を食い続け、波のようにうごめく狼の背に向けられていた。振り向いた一匹の狼は、口から獲物の血を滴らせながら瞬時に凍り付く。時が止まったその目の中心に老婆の持つ鋤の刃が真っ直ぐに突き刺さっていった。狼どもは、仲間の瞬時に命を終わらせたことを知ることを拒むように、獲物をむしゃぶり食い続けた。その背の蠢く筋肉の固まりのところに、鋤の刃がぐさりぐさりと差し込まれた。

背中から血をドクドクと流している狼は、まだ自分の死が信じられず、首を下げ雪の上に佇んでいた。

 狼にあらかた食われてしまった、男の一人はマヤ婆の一人息子だった。マヤ婆は二人の男の肉片や骨を、雪の地でも不思議に枯れずに秋になると実を付ける無花果の木の根本に集め、手を合わせた。

雪はさらに降り積もり、亡骸はやがて白のベールに覆われていった。手を合わせた老婆の上にも粉雪が降り積もる。

マヤ婆は、息子どもを食った狼の足を持つと、一匹また一匹と村まで運ぶ。狼の死骸が横たわった前に、村人共がよれよれになった藁人形のように立っていた。マヤ婆の鬼気迫る全身の表情に、声をかける者はいない。しかしやがて、村の儀を執り行う者の一人が、家で火を着けた松明を持ち出し死した狼の頭に振りかざす。それは村の皆のために命を落とした男衆の敵を討つためであり、またその狼の腹に治まった、男衆を荼毘に伏すためでもあった。村人はその松明のもとに集まり手を合わせた。

 マヤ婆は最後の一頭を足下をふらつきさせながら引き下ろしてきた。松明を持った村人はマヤ婆の前で狼の遺体を焼き滅ぼそうとしていた。

 マヤ婆は腹から絞り出すように「やめれ」と叫ぶ。

「息子どもは命を擲って村民に獲物を持ち帰ったのだぞ。食わねばならねえ。食って生き延びなければならねえ。村が滅んだら、息子どもは成仏することはねえ。息子どもの魂は黄泉に辿り着くことは出来ず、朽ち果てた村の間を、無表情のままで、呪うでもなく、恨むでもなく、ただ漂っているだけだよ。食ってくれ。みんなで食ってくれ。肉を残すことなく食ってくれ。息子どもの肉が皆の腹に治まれば、息子どもの魂も皆の身体のその奧の神様が宿るところに納まるはずじゃ」

 マヤ婆はそこまで言うと、誰一人見ることなく自分の庵に向かった。

 村人も狼の死体をそのままにして、庵に入り、門を閉めた。

 マヤ婆は休むことも白湯を飲むことも、囲炉裏の火を消すこともなく、ただ箕を着込み、かんじきの紐を締め直すと、また引き戸を開け、外に出た。

 吹雪が急に治まり雪雲がちれぢれに夜気に吸い込まれて、銀河が目前に迫る星夜となっていた。

 マヤ婆は我が庵を、村を、狼の死体を振り返ることなく山に向かった。

山からの微風が雪の粉を舞上げ星明かりに照らされて、マヤ婆を包み込んだ。山の奥深く、吐く息は、一瞬間近の夜空に留まったかと思うと、すぐに闇に融けていった。

狼の遠吠えが聞こえる。ヒタヒタと雪を踏みしめる足音が聞こえる。幾重にも闇に浮かぶ白い影が、遠くに老婆を囲む。足は蹌踉めき、腰から倒れもんどり打ち、また前につんのめり、しかし眼光だけは目前の坂の雪を見据えて、血の出た両手で雪を掴みながらマヤ婆は山奥へと進んで行った。

『足が止まり身体が動かなくなり、目だけが自分の顔を覆っていく弔いの夜気を見るようになればよい。そこまで進んでいく。そうなるために進んでいく。自ら死にに行くわけではない。生の突き詰めるところまで、血を流し、皮膚を削げ落としながら山の奥に突き進んでいく』

 すでに立って歩くことはできなかった。髪を後ろで束ねていた紐はほどけ、白髪の残バラ髪が顔を覆い、手からしたたり落ちる血がその白髪を赤黒く染めていた。

狼の群れの囲いが急に狭まってきた。


村はシンと静まりかえったが、大人で寝入っているものは誰もいない。マヤ婆は村を出て行った。その気配は、起きている村人の誰もが感じ取っていた。


 自分を捨てに行く。


 マヤ婆が若く、子を連れて平地から山に登ってきた頃、村に一人の老婆がいた。

 子がなく夫とは死に別れ、一人で暮らしていたが知恵者で何かと村人の相談相手となっていた。村人の中には村を守る霊界と通じているのだと思う者もいた。しかし老婆はそのような振る舞いをすることも、語ることもなかった。だが、畑の作物や山での収穫はまず老婆のところに持ってこられた。老婆は特に有り難がる様子もなくそれを受け取った。山の獲物が少なく、子等に充分食べさせることもできない時でも、わずかな収穫を老婆に持ってくるものもいたが、老婆はジロリと睨むと受け取らなかった。老婆は自らの食べ物ぐらいは、手に入れる術を持っていた。

 ある年、日照りが二ヶ月も村を襲い、さらに山火事が発生し間近に迫った。しかし村人は山を下ることはできない。山を下って平地の民が住むところに逃げることなど思いも及ばない。しかし火が間もなく村に襲いかかるところで突然の豪雨になり、あっという間に鎮火してしまった。しかし今度は、灰となった木々や草、燃えた動物の死骸が土砂をさらに増大させ村に流れ込んできて、貧弱に生えた畑の作物を押しつぶしてしまった。村は大飢饉となった。

 

 村人はこの飢饉を乗り越える術を何も持てなかった。弱いものから死んでいくことになる。しかし弱いものと、強いものが生き延びられる日数にそう隔たりはない。村人はみんな衰弱していた。

間近に餓死者がでてくるだろう。老婆は庵の床にゴザを引き、そこに仰向けに寝ると、天上の薄い板の節穴からこぼれ落ちる青い陽の光を見ていた。どこからか甘酸っぱい香りが漂ってきた。

 その周りを村人が囲むように座っていた。

老婆は何を思ったか、すくっと立ち上がると、暫く山に行くと村人に告げ、出て行った。二日後の朝、息も絶え絶えにまるで屍のようになって戻ってくると、庵に入り、死んだように寝入った。まだ村人の誰もが生きていた。村人が寝静まった夜中にむくっと起き出すと、庵を出る。夜中に家を出ることが二回続き、三回目から背中に野菜、玉子、米等が入った藁袋をしょいごに背負って戻ってくるようになった。それが二週間も続いた。その後急激に、山から猪や野鳥の動物が出現するようになる。あらかた燃えてしまった思われた木々から芽が吹き始める。荒れた畑を耕すと、蒔いた種が勢いよく発芽する。     

村人の一人一人の顔に精気が戻ってくる。しかし老婆の顔はますます痩せ細り青ざめていった。

 カラスが鳴く。その鳴き声が湯気のように夕焼けの冷えた空気に吸い込まれる。山は暗く黒くなり始めた。黄昏を背に老婆は家を出る。生地が薄くなり、所々から埃のように黒くなった綿がはみ出している褞袍を身に纏い、山に向かう。一人の村人がそれに気づき声を掛ける。

「婆様どこに行きなさる」

 老婆は一人の村人の方に向き直る。落ち込んだ瞼の奥に、射すような瞳が光っている。

「山に自分を捨てに行く。それが村の掟じゃ。しばらくは誰にも言うな」

 村人は三日間そのことを誰にも言わなかった。他の村人は三日の間、婆様は山に入ることがあったので心配することは無かったが、三日目の夜に婆様が帰ってこないので心配する声が起き始めた。そこで村人は初めて話し始めた。

「婆様は帰ってくることはあるまい。自分を山に捨てに行った」

 村人はざわざわと潮が満ちてくるように泣き始めたが、誰もが心の奥底でそのことを了解しているようだった。

四日目の朝方、平地の屈強な男が三人、それぞれが脇差をズボンに帯で結わいつけ、村に入ってきた。村の年寄りが、屈強な男の前に謙って出て

「何かお尋ねでしょうか」と、聞いた。

 脇差しの柄に左手を置いた男が「老婆はどこに居るか」と、隠したらだだではおかぬとゆう物腰で言う。

 年寄りは山の方を見ると、

「山には入った、もう四日も戻っては来ない」と言う。

男がさらに質問を重ねることを制するように、年寄りは話を続ける。

「もう帰って来ることはない。村人の一人に、自分を捨てに行くと言っていた。もう帰ってくることはない」        

 男共は、疑うこともなくその話を信じた。村の風景を横切る風は薄墨に濡れて、自分を捨てる天命を孕んでいるように思えた。

「山に行く。その山に案内しろ」と、男共は年寄りに命じた。しかし年寄りは頭を振り、わからないと言った。年寄りは山への道の方を見つめて自分に語るようにぼそぼそと言葉を続ける。

『そこの獣道から入る。それはだれでも知っている。そこから丸一日獣道を辿って歩き続けるそうだ。もし道を見失ってもどうせ自分を捨てるのだ。運良く捨て場に辿り着けば、そこで即身仏になるまで座る。僅かな時間だ。そこに辿り着くまでに生の力はほとんど尽きている。そこは瓦礫の山で先祖の白骨が散乱していて、この世の意識を持ったままで黄泉の国に辿り着くそうだ。この村からどのくらいの年寄りが自分を捨てに行ったかはわからぬ。わしもそう言う年齢になっているが自分を捨てようとは思わぬ。しかしどの年寄りも突然、山に行くことを決意するそうだ。 わしも分からぬ。しかし捨てたくはない。一度山に入った年寄りが、戻ってくることがあるそうだ。しかし、なにかが違う。村人はすぐには気がつかないが、やがてなにかが違うことに気づいてくる。

わしは老婆は以前から何回も山に行っていたような気がする。老婆はいつのまにか、あの老婆になっていた。そして村人は以前の老婆を思い浮かべなくなっていた。老婆は誰にも言わずに捨てに行った。しかし村にこれから起きる窮乏を知った。それで戻ってきたのではないかと昨日思ったのだが。しかし老婆の変容は、この間の飢饉が起きる、ずっと以前に起きているような気がする。

 男共は今、誰と語らっているのか分からなくなる。先ほど話していた老人は山の道とは反対側に向かって、長い髪を強風に煽られて真横に棚引かせながら、さらに遠ざかっていく。

男共は殺意がいつの間にか消え失せてしまったことに慌てて、脇差しの柄を握る。老婆の財宝を見つけ出せば老婆もろとも村人を殺し尽くす。

 男共は山に入る。男共は五日たっても戻ってこない。夜になると山の遥かから狼の遠吠えが風に乗って飛んでくる。村人の脳裏から急速に男共のことが消えていく。村に以前の静かさが舞い戻ってきていた。


 その老人は村で生き続け、そして村で死んだ。村はずれの段々畑の下、踊り場のような広場に薪が積み上げられその上に、老人がいつも着ていた寝間着のまま乗せられて、さらにその上に藁が布団のように掛けられ、薪の下の方から火が着けられる。村人はその周りを囲み、手を合わせ、それぞれが天に向かう老人に託すように願い事や、懺悔や、許しを祈るように唱える。どろっとした雲の下でその祈りが、一つの読経となって辺りを覆っていく。薪のしたから白い煙がもくもくと上がり、赤い火の粉が爆ぜる。一つの読経となった村人の祈りが周りの山を押しやるかのように激しくなっていく。


 その村人のなかに、一人の女とその息子がいた。その女と息子はいつの間にか空き家になっていた老婆の馬小屋の家に住み込んでいた。自分と息子がそこに住むことが当然の如くの振る舞いに村人の誰もが、その素性を聞くことをしなかった。しかし、女とその息子は平地から来たことだけは明らかだった。この村に辿り着けるのは平地の人間しかいない。

 女が息子を連れて平地から山に上がってきて、老婆の家に続いている馬屋に住み着いた。    

 これで、女と息子の素性は、村人には充分に知らされた。即ち老婆が招いたのだ。そのことを、村人は女と息子に問いただすことは山に入った老婆の気配から出来ることではなかった。女のことを、村人は馬屋(マヤ)と呼んだ。


 薪が勢いよく燃え始める。真っ赤な炎が火の粉を振りまきながら、黄昏の空を焦がすように吹き上げていく。その炎の中で真っ黒な老人の死体がエビのように仰け反ってから、まるで踊りを踊っているように激しく動きスクッと立ち上がったかと思うと、一気に灰になって崩れ落ちた。            

 女の息子は死したあとの肉体の処遇を脳裏に焼き付けた。しかし後々、自身は狼に食い千切られて死ぬことになった。


 時は過ぎ女は年を取り、村人はマヤ婆と言うようになっていた。息子は断崖の洞穴で成人の儀を無事に終了させると、年齢を重ねていった。山に入っては獣仕留め、その昔の老婆が耕していた二分の一反ほどの畑で作物を作った。息子は仕事を季節の節目を辨えて律儀におこなった。息子と同年代の男が村に後二人いたが、その男の一人は最近嫁と二歳になる娘とを連れて、平地から上がってきて、小さな空き家に住み着いた者だ。平地から山に生活の場を移す者は、平地に居られないよほどのことがあった者だ。山の民は平地の民から蔑まれ人間扱いされず、呪われた忌まわしい境遇で獣以下の醜い生き物とされてきた。山は先のないどん詰まりで、一度入ってしまえば平地には戻れない。

 息子は山の成人の儀を行ったが独身を貫いた。今日の生活が昨日から流れ込み、その弛みない生活が明日に続いていく。マヤ婆と息子にとって忙しい日々ではなかったが、確固とした生活が揺るぎなく存在していた。それを崩す何ものをも息子は寄せ付けなかった。 それは生活者の暮らしというよりは、修行者の行のようであった。

 一日の終わりに、秋と冬は囲炉裏の火を、春と夏はたきびの火を、そこから己の魂の奥を探るように見つめた。火が消え、静かな夜を迎えると振り子が止まるように瞼が落ちて、意識は夜空に吸い込まれながら眠った。


「自分を捨てに行く」  

 マヤ婆は蛞蝓のように山を這う。決められた道をずるずると身を削りながら蠢いていく。息子は死しても居る。その後を追うわけではない。死んでも、去っていったわけでも、消えたわけでもない。

 息子はよこにいる。狼をたずさえて。

 マヤ婆が去った村に星夜が拡がり、雪明かりで積み上げられた狼の骸が、薪が積み上げられたように見える。


 夜が明けると、マヤ婆の去った今、村人はやはり、狼の死体に火を入れることになる。村人の死体は荼毘に伏すことが村の掟だ。

 やっと村にも眠りの夜が訪れる。雪夜の静けさの中コトリと小さな扉が開く。夫が食われた妻がその扉から抜け出てくる。娘はミイラのようになり、餓死が間近に迫っている。

 老婆が狼の死体を引き摺り運ぶ中、村人の佇む中に混じって、夫を食った狼どもを妻は目を槍のようにして見つめ唇を噛みしめていた。老婆がその狼を「食え」と嗚咽とも叫びとも言えぬ声を、空気に風に流し込んだとき、一匹の狼の目が、妻の目をさらりと見た。狼のガラス玉のような目が星の光を染み込ませ、目だけに光の水分が宿り、生き返った。妻は、時を失いそこに夫の目を見た。我に返ったとき、夫を最初に食い千切ったのはこの狼であることを確信した。

 妻はその狼を家に運び入れた。その狼の死体を囲炉裏で焼く。もうもうと煙りが家の中を覆い、開け放たれた扉を抜け出して、柵から解き放された荒馬の群れのように出て行き、さらにその煙は黒い竜巻となって、星空に向かって駆けのぼって行く。      

 狼がこんがりと焼けると、囲炉裏の火が消える。妻はランプに火を灯すと、ナイフで焼け焦げた皮を剥ぎ、腹の軟らかい肉を痩せ細った娘に与えた。     

 娘は最初、その肉を力なく舐めるようにしていたが、やがてガツガツと食べ始めた。妻も娘の身体に強い生命が漲って来るのを確信すると、頭の肉を削げ落とし口に入れた。二歳の娘は年相応の体付きになり、肌はみずみずしく張りが出てきた。二人はそのまま横になると、東の空が白んでくるまでぐっすりと寝た。


 マヤ婆は雪の中を這い蹲り、孵ったばかりの海亀がまだ見たことのない祖国を目指すように死を鎧として纏い足掻き藻掻きながら進んでいく。地から漏れだした気体が雪の上で燃え、炎が粉雪の舞う中でしつこく赤や青の色を妖艶に蠢かし、老婆を山頂へと引き摺り上げた。狼がヒタヒタを赤い舌を地を舐めるように垂らしながら、老婆のすぐ後を、射程内からはずれないようにつけてきた。

  身体の冷え切った老婆が、夢遊のなか山頂の瓦礫の中に身を横たえる。その回りに骨や髑髏が散乱をしていて、あともう少しの辛抱で自分もこのようになれると、それだけが頼りで今を凌いでいく。

 狼が周りを取り囲み、ゼンマイを巻き上げるようにその半径を縮めてきた。やがて狼は老婆にその熱い剛毛を押し付けてきて、老婆の凍りかけた身体を溶解させ、青黒かった老婆の頬に柔らかな赤みが出てきた。老婆は喘ぎながら立ち上がる。狼は薄い氷が割れ砕け散るようにいなくなった。

 老婆は、朽ちかけた洞窟の入口に向かう。五感の優れた体でも見つけ出すのが困難なほど崩れてしまっている入口から光が漏れだし、老婆を照らす。洞窟の外壁の壁を両手で辿りながら入口に近づき、差し導く光に引っ張り込まれて、一気に洞窟に入り込んだ。

 空気の震える音が耳のすぐ横で鳴り続けていた。光が奥底に潜む行路を見えるようにし、触れないものの存在を明らかにしていた。洞窟の奥の奥に導かれるように入っていく。そのときに老婆は自分の死ぬ場所の一点を確信した。洞窟の道はやがて下りの坂となり、いつの間にか音は消え、坂は下りながら螺旋を描いて、地底へと降りていく。無数の人骨が散乱する洞窟の道から人骨が急になくなるその先の最後の角を曲がると、この坂道はこの洞窟のドームに出るための道だったことがわかる。このドームの中心に池よりかは遙かに大きな湖が何処までも澄んだ水をたたえている。その湖に映った青い月の形が定まらないのは波があるからだ。

 青い月光はドームの天井の割れ目から入り込んできて、独特の臭いをマヤ婆の鼻腔に送り届けていた。月はそこに光を差し込ませるように作られたかのようだ。湖を回り込むと、人が一人、入れるほどの窪みがある。老婆は死に場所を発見した。 自分を引きつけ導かれた死に場所にやっと辿り着いた。湖から上がってくる冷たい水蒸気がその窪みに吸い込まれていた。老婆はその水蒸気に囲まれて窪みに近づく。窪みに倒れかかるように身を寄せようとした時にはっとして気がついた。

 冷たい水蒸気に囲まれてミイラのように痩せ細った裸の男の子がすでにそこに立っていた。自分の死に場所に。

 青い光はマヤ婆に語り続けていた。





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