第十八章 葛洪ふたたび


 明治末期から大正初期にかけての日本と、辛亥革命前後の中国に想念を集中していたわたしの夢寐むびの仙境に、ふたたび葛洪があらわれ、話しかけてきた。


 わしは葛洪じゃ。おぬし、よう成仙できたのう。稀有けうのことじゃで褒めてとらす。じゃが、間違うてもろうては困るが、仙人というても、まだほんの入り口に立っただけのひよっこにすぎないから、驕ってはいかん。あくまで修行を専一とせよ。せっかくの業が錆びついて、使えんようにならぬよう、くれぐれも心いたせ。

 福地雄一郎のことは存じておる。もともと売薬の商いは、われら方士が三千年まえから行っておることで、珍しくはない。「日本であろうが中国であろうが、まねてもろうてけっこうじゃ。わしらには国境もなければ、民族の違いもない。すべてが同胞じゃ。ただし薬の処方だけは誤らぬように、まじめにつとめてほしい。大きなしくじりなど目に余るものがあらば、ときに天罰を下すで、気合を入れて処方いたせ」。雄一郎にたいしても、こう発破をかけて、はたから見守っていたものじゃ。

 わしは若いころにいちど嶺南を覗いたが、ほどなく郷里に戻り、それからはずっと郷里の句容に籠って『抱朴子』などを著述しておった。わが師鄭隠のことは以前にも語ったと思うが、師は門人五十余名を引きつれ霍山に隠遁した。じつをいえば、長いことわしは誤解しておった。かれらは乱世に背を向けて、ただただ己が命を永らえるために、人里離れた奥山にこもって修行しているのだとばかり思っておったのじゃが、これが大違いだった。

 隠遁どころの話ではない。師の命により、門人らは密かに方士姿に身をやつして全国に散らばり、世のため、ひとのために働いておったのじゃ。北に病める人あれば脈をはかり面相を診て、薬をあたえ灸をすえ、病を癒していた。西に飢える貧しき人あれば食を施し、富めるものを説得して金を出させてかれらに分けた。富めるものには、金のかわりに心の安らぎと長寿の法を授けてお返していたから、みな喜んで協力してくれた。いまどきの表現で、医者と薬剤師と占い師、それにボランティアと慈善家を兼ねておったといえば、分かりやすかろう。

 そのかたわら門人の方士らは、各地の気象を観測し、洪水や日照りなど、その年々の自然災害の有無を予知し、対策に心を配った。浚渫し拡幅するなど河川のスムーズな流れを重視し、堤防を強化、灌漑施設を整備した。作物の生育に目配りし、品種を改良、肥料を手配、さらに虫害から作物を守る方法を教えることを忘れなかった。わしらは古代の墨家の血を受けついでおるで、土木工事はお手のものじゃったし、そのころの方士らは農事試験場の専門家なみの農務知識と農民はだしの農作経験者がそろっておった。とうぜん民心の動向に着目し、各地の豪族など権勢家の勢力変化、人の移動などについても細かく調べていた。

 門人らが全国各地から持ち帰ったそれらの情報をもとに、鄭隠師は天下の形勢を分析し、まこと天下の乱を収め、安寧の世を招来するため、心ある国主、力ある豪族に、天下統一の道を説いておったのじゃ。どうかな、日本の売薬とよう似た面もあるが、江戸時代の日本とは、だいぶスケールが違うておろう。

 ただし、福地雄一郎が大陸で行うていた売薬は、間違いなくわしらの歴史的伝統に即したものじゃったといっていい。雄一郎は薬草を現地で入手保存し、じぶんで処方調合して、患者に服用させていたのじゃろうから、技術と知識はわしらの方士とかわらん。そのかたわら雄一郎が地元で得た情報は、孫文の革命に役立っていたと思うから、これにも礼をいわねばならぬ。

 問題は、孫文亡き後、雄一郎はだれのために動き、だれのために情報を伝えていたかだ。

 ん、おぬし、深刻な顔つきになったのう。祖先のはなしにせよ、いささか不安になったのじゃろう。まあよい。その結論は、いましばらく待とう。まえの話をつづけるで、気持ちを静めて、しばし待たれい。


 わしが二十四歳のとき、天下の大乱は収束した。そうよ、八王の乱じゃったが、ようやく決着がついた。しかし、それと引き換えにまもなく、鄭隠師がみまかった。わしはまだ三十前後じゃったが、門人らに推され鄭隠師のあとを継いで、方士を束ねる陰の総帥となった。その後、本拠を羅浮山に遷し、嶺南から天下の形勢を占い、邪悪な政権があれば、打擲ちょうちゃくして懲らしめた。この仕事は千七、八百年たったいまもなお、つづけている。近年のことでいえば、広西の金田村で決起した「太平天国の乱」がそうじゃったし、孫文の革命実現のためには、全世界規模で支援を広げたものじゃ。


「八王の乱」について語ろうかの。

 三世紀中葉、武帝司馬炎は魏蜀呉三国の勝利者・曹魏にとってかわり、晋朝を建てた。歴史上では西晋と呼ぶ。十五年後、東呉の末代皇帝孫皓そんこうが投降し、三国は統一される。短期的にだが、久々に和平安定の局面が実現したわけだ。

 建国以来、西晋政府は士族門閥の保護を優先した。曹魏の時代、諸侯王の実権を剥奪したため政権が弱体化した弊害に学び、分封制に戻したのじゃ。このため建国数年で、分封された宗室が五十七王、新たに公侯にとりたてられた功臣など貴族地主階層が百万戸という膨大な数に達した。全国戸数の七分の二、国家収入の三分の一を王侯貴族が占めるという異常事態に陥った。田を分けることをもじって、「たわけ」(愚か者)というが、これなぞ正真正銘のおおたわけじゃ。

 建国二十五年、晋の武帝は過度な荒淫が祟って病死する。わしが七歳のときじゃ。太子の司馬衷が位を継ぐ。晋の恵帝じゃ。凡庸以下の白痴にひとしい水準じゃったらしい。恵帝の治世は都合十六年間、この時代にそっくり「八王の乱」が起こり、引きずっている。乱が収束したとき、わしは二十三歳になっていた。

 なぜかように愚鈍な人間を皇帝にいただいたのか。武帝と恵帝、二代の皇后側に問題があったようじゃ。暗愚な王ほど御しやすいものはないからのう。

 晋の武帝臨終のおり、車騎将軍、楊皇后の父親楊駿を太傅・大都督に任じて朝政を管掌させた。擁立されたのが白痴の恵帝よ。はじめ楊一族が朝政を専横したが、恵帝の皇后賈南風は、賈一族で政権を掠奪しようと企んだ。これに加担したのが、恵帝の腹違いのおとうとの楚王|司馬瑋(しばい)じゃった。これをそそのかして楊一族を粛清し、ついでに楚王本人も殺してしまった。あまりの露骨さに周囲はあきれ、憤った。やがては賈一族も同じ目にあう。趙王司馬倫が内外の空気を読み取り、賈一族に天誅を下したものじゃ。これが、ことの発端といえばいえる。

 その後、汝南じょなん王司馬亮・楚王司馬瑋・趙王司馬倫・斉王司馬けい・長沙王司馬がい・成都王司馬えい・河間王司馬ぎょう・東海王司馬越の八王が配下の風説に惑わされ、個々別々に入れ替わり立ち替わり、骨肉の争いをしつづけたものじゃて。

 すでに北方では多くの異民族が長城を越えて華北に侵入していた。はじめかれらは傭兵として諸王に仕えていたが、しだいに自己の力の強さを認識しだした。文化は人を軟弱にする。司馬氏の八王はその典型じゃろうて。蛮族の力を侮り、武器を持たせて傭兵などに使えば、待っているのは自らの破滅の運命でしかない。のちの歴史で魏晋南北朝というが、わしの生きた時代は、かように凄まじい戦乱つづきの世じゃった。


 はてさて、人界―人間界というものは、困ったものよのう。

 時代がかわり、王朝が交代しても、登場者の名こそ違え、懲りずに同じようなことをくりかえしておる。わしらは天上界から、それこそ高みの見物をするしかないものかのう。

いつの世も迷惑するのは老百姓ラオバイシン―民衆じゃ。わしらとて戦は止めることができない。罪滅ぼしではないがせめてものことに、人びとがけがをしたり、病を得たりしたときのために、生薬を見つけ、処方を研究し、万病に対処しようと、わしらは夜の目も寝ずにがんばっておる。おぬしら、いったいわしの歳をいくつだと思っている。死ぬことさえままにならぬわしの身のことも、すこしは考えてくれといいたい。

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