第31話 生還

 獏の体から黒い霧が噴き出す。師桐の開けた小箱に納められていた、あの黒い霧だった。噴き出す霧の勢いに負けることなく、三桜弥生は獏にしがみついていた。衝撃波に引き剥がされないように必死でしがみつきつつも、芒雁葉に呼びかけ続けるのだけは止めなかった。

 霧を吐き出すにつれ、ワゴン車くらいの大きさのあった獏の体はみるみるしぼんでいく。やがて人間の大きさに、そしてその姿も芒雁葉のものへと戻っていった。

「芒雁君、芒雁君!」

 弥生が呼びかけ続けながら、意識のない芒雁の体を何度も揺さぶる。しかし芒雁は死んでしまったかのように何の反応もない。やがて弥生は揺さぶるのをやめ、芒雁の前でうずくまる。

「お願い……、目を開けて……」

 弥生が芒雁の手を強く握りしめる。

「……ん」

 芒雁が弥生の手を握り返す。ほんのわずかだったけれど、その感触を弥生はたしかに感じた。

「芒雁君!」

「……や、よい」

 芒雁がゆっくりと目を開ける。弥生は心配そうに芒雁を見つめる。芒雁はゆっくりと上体を起こし、頭を軽く二、三度振った。

「……大丈夫なの?」

「……ああ」

 芒雁が弥生の方へ目を向けると、弥生はまだ不安そうな顔をしていた。芒雁は弥生の頭をくしゃくしゃっと掻き乱す。

「ちょ、やめ……」

「……心配かけたな」

 ようやく弥生は心底ほっとした顔をする。

「よかった。このまま目を覚まさなかったらどうしようかと!」

「あの、その……なんだ。弥生。あの……」

 芒雁は伏せ目がちで、ばつが悪そうに頭をかいた。

「ん、何か言った?」

「え、いや」

 言いたいことを言い出せなかったので、芒雁はとっさに別の話題を探す。

「……そ、そういえばどうやってこの家に入ってきたんだ? 出入り口はドアしかなかっただろ。そのドアも俺が閉めたから、この家には絶対に入ってこれないはずなのに」

 弥生はキョトンとした顔をする。

「天窓があったからそこから入ってきたんだよ。開いてなかったら蹴り破ったんだけど」

「え、天窓?」

 弥生は無言で頷く。蹴り破ったという事実よりも、芒雁の知らない窓があったという事はよほど驚く話だった。

「そんなものが? あるはずがないんだ」

 この夢の世界のマスターは芒雁だ。マスターである以上、この世界で分からないものはないし、マスターが確認して存在を確認できなかったものは存在するはずがない。芒雁はそう考えていた。

「はずがない、って何で言い切れるの? 芒雁君、師桐から何を聞いたの?」

「あ、あぁ。実は……」

 芒雁は師桐から教えられたことを話す。この世界のこと。『フロイト』のライセンスとその持ち主が自分であること。そしてこの世界のマスターは自分であること。

「ここが、芒雁君の夢の世界……」

「そう。だから、この世界で俺に分からないことはないはずなんだ。だって自分のことなんだから」

 次に口にする言葉が怖くて、芒雁は膝を抱え頭を埋める。それはさっき弥生に言い損ねた言葉。

「だから、この何もない部屋も俺のことだし、さっきまでの醜い獏の姿も間違いなく俺の本性なのさ。他人の夢を貪る下品なライセンスを持つ獣が一匹、あとはからっぽ。それが芒雁葉っていう人間なんだ」

 芒雁は大きくため息をつく。

「あの日、弥生を助けた廃墟の夢。あれがきっと弥生がマスターの世界だったんだ。人の心の奥底の、デリケートな部分で構成された世界を勝手に入り込んで、覗き回って。それで俺は喜んでいたんだ。……最低だな」

 弥生は自分が素の自分で芒雁と接していたことに驚いていたが、それは自分からペルソナを取っていたわけではなかった。芒雁は『フロイト』を使って、弥生が芒雁と接し始める前からペルソナの内側にいたのだ。

「……失望、しただろ」

 芒雁が小さく呟く。

「……おかしい」

 しかし弥生は、聞こえていないかのように芒雁の言葉は意に介さなかった。

「え?」

「自分のことだから、自分の世界だから何もかも分かるっていうのはおかしいと思う。ううん。むしろ自分のことだからこそ、分からないことだらけなのが普通じゃないのかな。芒雁君は本当に、自分のことだったら何だって分かるって思ってるの?」

「そ、それは……」

 断定することができなかった。つい先ほどまで、自分という存在が分からなくなっていたのに、舌の根も乾かぬうちに、なぜ断定なぞできようか。

「だったら私が、芒雁君が気づかなかった窓を見つけても、不思議じゃないよね?」

 弥生はニコリと笑う。

「窓……」

 ジョハリの窓。師桐はそう言っていた。その言葉を芒雁は知っていた。

 自己のパーソナリティは大きく四つに分けることができる。

 自分でも他人からでも認識できるもの。

 自分にしか認識できないもの。

 他人からしか認識できていないもの。

 そして自分でも他人でも知らないもの。

 芒雁も弥生も見つけることができたドアもあれば、芒雁しか見つけられない鉄格子入りの窓もあった。それらをジョハリの窓に当てはめるのならば、弥生にしか見つけられなかった天窓があるのも当然なはずだ。そして芒雁も弥生も見つけられない、未知の出入り口だってきっとあるはずだ。

「……それに。この部屋のどこが空っぽだって?」

 弥生は立ち上がり腕を大きく広げる。

「何だか良く分からないけれど、キラキラしたもので溢れてるじゃない。いくつかは形に成っているみたいだけど……。あれは本かな? こっちは顕微鏡? まだ、形がはっきりしないものも、こんな風に何かを形作っていくのかな? 芒雁君には見えないの?」

 弥生が示す方向を芒雁も眺めてみるが、薄暗いだけで何かがあるようには見えなかった。

「……多分それも俺自身じゃ見つけられない物の一つなんだろうな。でも弥生があるって言うんだったら、きっとあるんだろう」

 弥生だけに見えたもの。それは芒雁葉という人間の可能性。いつかそう遠くない未来で、そのうちのいくつかを芒雁は自分自身で見つけることだろう。

「他人の夢に入り込んでいたことだって罪だと思う必要はない。だって無意識に力が発動しちゃってたんでしょ? だったらある意味、芒雁君も被害者じゃない。少なくとも私は気にしてないよ。むしろ自分が成長できるきっかけになって感謝してるくらいだし」

「けど、実際何人かの生徒は、八ツ橋さつきみたいに入院までしてるんだ。決して許されることじゃない」

「……あぁ、もう。そうじゃなくて私が言いたいのは!」

「うん?」

「失望なんてしてないってこと」

「……聞こえてたのかよ」

 芒雁はまた恥ずかしそうに自分の膝に顔を埋めた。

「あの獏だって……」

「獏がどうかしたか?」

「人間誰しも醜い部分があると思う。私だって獏ではないかもしれないけど、他の人には見せたくない獣みたいな本性があると思う。でもそういう部分も含めて人間だと思うの。大事なのはそんな自分を隠して、存在しないことにするんじゃなくて、認めてあげることだと思うの。だから芒雁君も心の中で獏を飼っていることを恥じたりしないで。小さな箱に閉じ込めたりしないで、きちんと受け入れてあげて。そうすればきっと、今よりもずっと強くなれるから」

 弥生の言葉に芒雁はぽかんと口を開けている。

「弥生、お前知ってたのか?」

「何を知ってたって?」

「あなたの強さは、あなたの弱さから生まれる」

「え?」

「ジグムント・フロイトの言葉だよ。人には他人と比べて強い点と弱い点がある。弱い点を克服することで、その人の強みに変えることができるかもしれないが、大事なのはまず自分で自分の弱いところを認めること。弱いところがあるのは恥ずかしいことじゃない」

 まず自分で認めない限り、自らで克服することもできなければ、周りに助けてもらうこともできない。

 ありのままの自分を見つめ、受け入れること。それさえできれば、人は変われるのだ。

「やれやれ。師桐はこのライセンスを『フロイト』って呼んでたけど、あながち間違いじゃないんだな」

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