第30話 救済

 芒雁葉は獏の意識の中で一人うずくまっていた。気分は深海に降り積もる泥のようだ。身動きをとることすら億劫になるほど重苦しい。

芒雁の心の内を表すように、あたりは一面の暗闇で、気配は自分以外に何一つなかった。


 自分は何をしていたんだっけ。芒雁は思い出そうとする。

 師桐が自分の、本当の芒雁葉を封じ込めていた箱を開け、その中にあったものに芒雁は完全に飲み込まれてしまった。

 それからの記憶はない。ということはここは自分の中の夢の世界の、獏の中にそのまたある世界なのか。何重にもなる、入れ子の檻に囚われてるということか。

 じゃあ、すぐに元の世界に戻らなくちゃ。この場でジッとしているわけにはいかないことは当然理解している。でも立ち上がる気力がどうしても出なかった。

 なぜ。師桐が悪事を企んでいるのは決定的だ。そしてそのことに気づいているのは俺と三桜弥生だけ。そして師桐の力は強大だ。弥生一人にするわけにはいかない。助けに行くべきなのに、弥生に会いたくなかった。

なぜ。それは彼女が俺の本性を見てしまったから。本音をさらけ出したというレベルではない。親にも見せたことのない、というか自分でも自覚できていなかった本当の自分。気づいていたのかもしれないけど、必死で隠してきた、見ないふりをしてきた本当の自分。醜い醜い獣の姿をした、だけども嘘偽りのない、まごうことなき本当の自分。それを三桜弥生に見られてしまったから。

 なぜ俺は見られたことを知っているのだろうか。そこまで考え、芒雁は気づく。小箱の中身に囚われた後の出来事を自分はキチンと記憶していることに。獏になってからも意識はあったのだ。では獏に飲み込まれてからの記憶がないというのは嘘なのか。

 嘘だ。芒雁は答えた。

 誰に対しての。芒雁は問う。

 自分だ。芒雁は芒雁と対話していた。

 自分に嘘をつくことに何の意味が。分からない。自分という人間が何者なのか分からなくなる。俺という存在は何なのだろう。自我が水のように捉えどころなく、たゆたっていた。

取り柄など何もない。あるとすれば『フロイト』とかいう師桐が名付けたこの不思議な力だけ。他人の心を覗き見る卑しいライセンス。誰かの役に立つことなんてない、他人を傷つけることしかできないライセンス。

 なぜこんなライセンスが自分に宿ったのだろう。それはきっと自分に自信がないから。だから他人が自分のことをどう思っているか気になる。他人が自分にはない、どんな特技を持っているか気になる。そんな下品な欲求を叶えるために神様がくれた贈り物(ギフト)。あるいは皮肉。

 ああ、気持ち悪い気持ち悪い。こんな人間はこの世からいなくなってしまえばいい。そう思ったからこそ自分はここにいるのだ。誰かの人格を崩壊させ得る力を持つような人間だ。こんな人間は社会に解き放っておくべきではない。鎖で縛り付け、一生を大人しく過ごさせるのが良い。もしかしたらこれが、俺の唯一できる社会貢献なのでは。きっとそうに違いない。

 それは本心なのか。そうに違いない。

 それは本心なのか。そうなのだろう。

 それは本心なのか。まさか違うのか。

 それは本心なのか。違うとすれば。

 本当は。誰かを頼りたい。誰かに頼られたい。こんな自分でも認めて欲しい。誰かを認めたい。仮面(ペルソナ)の下の自分はそう願っている。お前のような人間に、誰かを頼る権利なんてあると思うのか。おこがましいにも程があるぞ。仮面の自分はそう戒めている。二つの自分に、心は今にも引き裂かれそうだった。

 アンビバレンス。もはや自分だけではどうしようもなかった。

だからこそ。最後に背中を押してくれたのは自分ではない誰か、弥生の言葉だったのだろう。

「私にできること。私の役割。私、芒雁君が困っていたら助けてあげる。助けて、って声に出せなくても私がちゃんとそのSOSに気づいてあげる」

 言葉がぷかりと芒雁の目の前に浮かび上がった。弥生の言葉だった。ここは芒雁の心の中だ。ここで浮かび上がったということは心に浮かび上がったということ。

芒雁は弥生の言葉に触れる。言葉は優しく、芒雁の中に溶け込んでいった。溶け込んださきから、身体には熱がじんわりと広がっていく。優しい温かさだった。

「芒雁くん! 私が助けてあげるから。たから手を伸ばして。助けを求めて!」

弥生の声が聞こえた気がした。芒雁はゆっくりと手を上げる。まだ姿勢はうずくまったままだったけれども、上にいる弥生に届くと信じてその手を伸ばす。そして絞り出すような声で口にした。

「……助けて」

「芒雁君!」

 手を掴まれる感触がした。その手は優しく、けれども力強かった。芒雁は上を見上げる。スポットライトのように上空から光が芒雁へと降り注いでいた。芒雁を掴み上げている手は光に包まれていた。眩しくてその手が誰のものなのか芒雁には確かめることはできなかった。それでも芒雁にはその感触や声で、誰なのかはきちんと分かっていた。

「芒雁君、お願い! 戻ってきて!」

「……弥生」

 弥生の手は芒雁をグングンと引き上げていく。弥生に会いたくないという想いは相変わらず抱えていたけれども。もう芒雁はその手を離す気にはなれなかった。

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