第一章 氷山が後退した北極海
― グリーンランド北西部の町 カーナーク ―
夫と息子が猟に出て行き、妻は洗濯、掃除、捕獲した獲物の解体、皮のなめし作業などいつもと同じ家事をこなしていた。また、娘はずっと電子版ゲームに無心で取り組んでいる。ただ、昔と違う点は、夫が獲物してくる獲物の数が減ってきたことだった。その時は二人の子供の面倒を見ながら、多くの獲物の処理をしなければならなかったので、昼食を子供に与える時間を確保することが精いっぱいで、自分はパンをかじりながら作業をしなければならなかった。
それがどうだろう。今は、子供が大きくなって手がかからなくなったとは言うものの、獲物の処理作業に割く時間はずいぶん減った。取引の単価は多少上がったものの、やはり数の減少は家計のやりくりに支障をきたしていた。エネルギー不足による需給ひっ迫から光熱費は上がり調子だし、携帯通信機の費用も息子がそれを使うようになって次第に負担感を感じ始めてきた。無駄な長時間使用は控えるように口が酸っぱくなるほど息子に言って聞かせたが、家計の苦しさなど息子には理解できなかった。
自宅内での作業は楽になったが、家計は苦しくなってきていた。これは、このエスキモー一家に限ったことではない。チャーレに住む住民のほとんどが感じていた家庭生活上閉塞感がそこにあった。
かつては本国のデンマークからの多額の助成金があり、グリーンランドの経済を下支えしていたが、EUの経済破綻以来、助成金の金額は減少し、それに比例するようにグルーンランド経済もデフレスパイラルからはい出せないでいた。また、エビの水産加工業が主要な産業であったが、エビ資源の枯渇と国際的な価格競争、ユーロの下落によって輸出量は年を追うごとに減少していた。
こうしたグリーンランド経済の“体力消耗”の影響は都市部にかぎらず、自然からの恵みから生活の糧を得ていた狩猟生活を営む人々の生計にも暗い影を落とし始めていたのだ。
妻は家の中の清掃を済ませてから、昨晩干した洗濯物を乾燥室に取りに行き、それを片付けると今日の家事は終了した。獲物が取れていない日が続いていたので、皮をなめすといった作業は必要ないからだ。彼女はリビングのソファに腰を降ろし、キーボードを操作すると、壁に掛けられている大型のディスプレイがオンになり、すぐに画像と音が現れた。彼女が見たのは、求人情報の番組だった。最近は毎日、このチャンネルを選択していた。もともとテレビ番組は特に好きと言うわけではなかった。ただ、余った家事の合間に仕事を見つけて家計の足しにしようと思っていたのだ。しかし、ディスプレイから出てくる職業案内には彼女の日常生活のペースに合致する仕事はなかった。
「・・・なかなか無いものね」と彼女はつぶやいた。
ため息をついてキーボードを操作してディスプレイをオフにした。すると、娘がまだ遊んでいる電子版ゲーム機から発せられる小さな電子音だけがリビングの空間を支配した。
妻はガラス窓越しに外を見ると、いつもと変わらない見飽きた光景がある。そこには風の音くらいしか存在しない、孤独な空間が無限に広がっていた。
― ロシア科学アカデミーの調査船 ―
北極海を航行中の調査船「ヤマル」は上陸班が出発したのを確認してから慎重に氷原から離岸し、次の目的地であるボーリング地点を目指して次第に速力を上げて行った。この調査船は、ロシア科学アカデミーの地球探査部に所属する極地調査船である。極地、つまり、北極及び南極を調査する目的で建造された。よって、船体には砕氷機能を有していた。
調査船「ヤマル」の今回の任務は、北極海の地底に含まれる天然資源の調査である。北極海の天然資源には油田は多くないが、複数の巨大ガス田が発見されている。中でも二十一世紀初頭に発見されたシュトックマン・ガス田が有名である。
極寒地での採掘技術の進展と、世界的なガス需要の高まりから、北極海沿岸国による開発競走が繰り広げられている。各国とも新しいガス田の発見に躍起になっている。国連海洋法は、二百海里までの大陸棚に対する沿岸国の主権的権利を認めているが、大陸棚の縁辺部が二百海里を超えて広がっている場合は、国際連邦の検討を経て主権的権利を行使することができる。そこに各国の思惑が絡み合い、国益を超えて資源メジャー同士の合従連衡が水面下で行われている。まさに北極海でのクールな戦いである。
調査船「ヤマル」が氷原から離岸してしばらくしてからのことだった。突然、ゴゴゴゴーッと左舷後方二百度の方向の大氷塊が崩落した。まもなく「ヤマル」のブリッジにある音波探知機が異常を知らせた。
「航海長。何だ、この警報は」とブリッジにいる船長が航海長に尋ねた。
「左舷後方に海面の異常を探知機が示しています。詳細を調べます。・・・津波のようです。海面の大きな隆起を示しています。高さは・・五mを超えていますッ」
「なにい、津波だって? 原因は地震か?」
「いいえ、この辺の海底からは地震発生の形跡はありません。後方の大きな氷塊が崩落したものと思われます」
「なんてこった。船尾のカメラをその方向へ向けて、ディスプレイに出せ。それとその津波が本船に到達するにはあとどれくらいだ」
航海長は船尾カメラを調整し、ディスプレイに映像を出した。
「もう少し拡大しろ。それと右十度方位修正」と船長は指示した。
「津波の本船までの到達時間は約五分」
「機関長、両舷全速。航海長、船尾を波に垂直に立てろ!」
「了解、面舵いっぱい。二時方向を目指します!」と航海長は船長に報告した。
調査船「ヤマル」は全速で津波からの到達時間を稼ごうと白波を蹴って進んだ。ディスプレイには大きな津波が猛烈なスピードで接近してくるのが見てとれた。その向う側には大きな氷山があった。たぶん、あの氷山の一部が崩落したのだろう。それにしてもタイミングが悪かった。離岸してもっと後に崩落してくれれば津波の影響はああまりなかったはずなのに。
「非常警報発令! あと四分後に津波で船が前後に大揺れするから何かにつかまれ」と船長は船内放送で乗組員に伝えた。
ブリッジの中にいる船長たちは、身近な所にある取手につかまりながら、ディスプレイを注視し続けた。また、船内にいる乗組員たちは、津波が来ることの不運を嘆きながら、どの程度の大きさなのか分からないため、何かにつかまりながら、無事に過ぎ去ってくれることを祈った。しかし、救命胴衣を着る者は誰もいなかった。こんな寒い北極海で海に放り出されたら、ほんの数分で死亡してしまう事を皆が知っているからだ。
大波は調査船「ヤマル」の背後から壁のように襲いかかってきた。
「来るぞ。航海長、波を何とかやり過ごせ!」と船長は航海長に大声で言った。
大波は「ヤマル」の船尾をいっきに空へ向かって持ち上げた。船内では、固定されていない物が船尾から船首方向へいっせいに転げ落ちるように飛び跳ねて行った。
飛んできた物を避けようにも、船内が狭いことと、何かにつかまっていて両手がふさがっているため、乗組員はどうしようもなかった。中には重い物、鋭利な物が頭を直撃し、中には出血する者もいた。
調査船「ヤマル」の船体は、いったんほぼ垂直に近い姿勢になり、ひっくり返りそうになったが、航海長の操舵能力でなんとか持ちこたえている。海水が容赦なく「ヤマル」に襲いかかった。防水機能を施された窓やハッチは海水の流入を防いだ。そして、「ヤマル」は大波の頂点の部分に乗っかったような姿勢になり、両舷のスクリューが海面にあらわになった。海水の抵抗を失ったスクリューは猛烈な回転数で空回りし始めた。その回転数の異常はブリッジの計器に警告ランプと音で、航海長に知らされた。
「いかん、スクリューがむき出しになったな。エンジンが焼けつく。ディファレンシャルギアの連結解除。両舷エンジンは最低回転数を維持!」と航海長は素早く操作して、スクリューにエンジンの動力が伝達されないようにした。
「機関部、エンジンは大丈夫か。報告せよ」と船長は報告を求めた。
指示を受けた機関部の乗組員は、重力がほぼ垂直になったため体を落ちて行かないようにすることに必死で、エンジンの点検をする余裕のある者は誰もいなかった。やがて「ヤマル」は、今度は逆に船尾から大波の背後に落ちるような姿勢になった。乗組員も今度は重力が正反対になったことで、船の状態がどう変化したか理解できた。
「なんとか波を超えたぞ。もう少しだ。みんながんばれッ」と艦長は館内放送で連絡した。
「こちら機関部。エンジンは大丈夫です。スクリューの空転で急激に加熱しましたが、許容範囲内です。いつでも動かせます。ただし、回転数はエンジン温度と比較しながら少しずつ上げていって下さい。こちらもこんな事は初めてで、回線数の上げ具合は未経験なので、用心に越したことはありません」と機関部長はブリッジに報告した。
航海長は機関部長からの報告をスピーカーから聞きながら、船の姿勢制御に懸命だった。「ヤマル」は大波の背中をジェットコースターのように滑り落ちていった。ブリッジの中から見えるのは水しぶきと空だった。後は航海長の操舵と運に任せるしかなかった。
「ヤマル」のむき出しになった船尾が海面に突き刺さりそうになった時、後方から津波の第二波が来た。その高さは第一波の半分以下だった。その第二波のおかげで、「ヤマル」はもう一度、船尾を持ち上げられ、結果してちょうど着水する際のクッションの役目を果たした。再び船と並行した横の重力が船内に働き、乗組員は翻弄させられた。中には耐えられなくなって、船内の廊下を滑り落ちて行く乗組員もいた。船内は、悲痛な叫び声と励ましの声が錯綜していた。
なんとか船の態勢を保持しようと、航海長は必至だった。
「ディファレンシャルギアを連結。両舷エンジン微速まで上げろ。取り舵十度!」
「ヤマル」は木の葉のように海面で揉まれていた。舵も思うように効かない。
「機関長、エンジンは大丈夫か?」と船長は船内電話で尋ねた。
「大丈夫です。ただし、今の落下の衝撃でどこかの防水機能が失われたようです。機関室に浸水」
「くそ、よりによって、こんな時に浸水とはまいった。副長、浸水の発生箇所は特定できるか?」
「船尾のD3ブロックです。工作班員は直ちにD3ブロックの浸水を止めろ」と副長は命じた。
津波の第二波が過ぎ去った後も小さな波が「ヤマル」を襲ったが、翻弄されながらも「ヤマル」は転覆を免れた。また、機関室への浸水も止まり、工作班員が寒さで震えながら排水作業をしていた。
「ご苦労だった、航海長。それにしても北極海で津波に遭遇するとは考えてもいなかった。氷塊の崩落でこんな事態に陥るなんて。通信長、科学アカデミーに報告しておいてくれ。北極海は以前に比べたら、流氷が後退しいてくれたおかげで、砕氷船の随行不能になったが、地震のように予測不能な氷山の崩落によって、崩落地点の付近では津波に襲われる可能性がある。とな」
「了解しました。合わせて、今回の記録データも送りましょうか」
「ああ、そうしてくれ。北極海の航海には危険がつきものだという事を、少しは現実的なリスクとして科学アカデミーの本部にいる連中にも認識してもらわないとな」
「よし、エンジン停止。津波による本船の被害状況を把握、修復作業を行う。目的地への到着は遅れるが、船の安全確認を優先する。それと上陸班に連絡を取り、氷山崩落によるアクシデントが発生していないか確認してくれ」と、艦長は平静を取り戻した「ヤマル」の点検を行う事にした。乗組員の中には数人の負傷者が出たが、いずれも創傷、打撲などの軽症で済んだ。ただ、船内は大きく揺れたせいであらゆる物が散乱し、片付けるのに相当な時間を要するだろう。
船長はブリッジの窓越に前面に広がる氷のない海原を厳しい表情で見ていた。便利になった分の見返りは必ず付いて回るものだという事を再認識していた。それに加えて、天然資源のボーリング調査の任務について、予測しない事態が起こらねばよいがと無言で願っていた。
「船長、気象報告です」と通信長が科学アカデミーから送られてきた気象データを分析して、報告した。
「なもなく、この辺の海域に加え、上陸班の作業範囲はブリザードに襲われる可能性が高くなってきました。これを見て下さい。この辺で低気圧が勢力を急激に増やしています。それと、風向きの変化によってこのままだと確実に天気は猛吹雪になると思われます。気温も急激に下がります。上陸班が心配です」
「津波の次は猛吹雪か。今の天気からするとそんなに急変するとは思われないが。やれやれ。氷山が減ったとはいえ、やはり、北極海は魔物だらけだな」
船長は独り言を言うようにブリッジの窓辺に立って、空を見上げながらつぶやいた。その先には低気圧の広がりが猛スピードで発達していることは船長には見えなかった。
「よし、微速前進。進路一時方向。ボーリング地点を目指す。被害状況の把握と修繕は航行しながら行ってくれ。これから海が大荒れになるそうだし、ボーリング地点での到着予定日をあまり遅らせたくない。それと上陸班に今の気象報告を送ってやれ。この辺が猛吹雪になっても本船では上陸班の収用に間に合わないかもしれない。そうなってからでは遅いので、既設の連絡基地へ早めに避難してブリザードをやり過ごすしかないだろう」
「了解、船長。微速前進、面舵十五度。現時刻十三○○時。本船は予定通り、クィーンエリザベス諸島のボーリング地点へ向かいます」と航海長は船長に報告した。
「船長、上陸班長に気象予想をデータと共に送信し、連絡基地への退避を促しました」と通信長は船長に報告した。
「うむ。・・置き去りにされる格好になった上陸班が心配だが、何とか連絡基地にたどり着ければ、数カ月分の食糧と燃料が保管されているから大丈夫だろう」
調査船「ヤマル」は本来より遅い速度でボーリング地点を目指して北極海の冷たい海水をかき分けるように進んで行った。
― 氷原の上陸班 ―
ロシア政府は、隕石の採取のために数十年前から調査範囲を計画的に設定し、緊急時の退避と、食糧及び燃料の補給のための連絡基地を数か所に設置してきた。
調査船「ヤマル」からの連絡を受けた上陸班長は、散会して採集作業をしている各グループに対し、すぐに作業を中止して全員が五号連絡基地に向かうよう指示した。散会してからあまり時間が経っていないことから、ブリザードに襲われる前に五号連絡基地にたどり着けるだろう。
上陸班長は恨めしそうに上空を見上げ、自分たちも五号連絡基地に向けて出発することを班員に指示した。誰もが本当に退避する必要があるのか疑うような天候であったが、ベテランの上陸班長はこうした事態を何度も経験しているので、北極海における天候の見極めの難しさを知っていた。
「三号連絡基地からのビーコンはキャッチできたか?」と上陸班長は無線係の班員に確認した。
「はい、大丈夫です。はっきりと捉えています。班長、いつでも行けます」
「よし、これより五号連絡基地に向かい、天候変化を見ることにする」
こうして上陸班の各々のグループは隕石の採取作業を中止し、ブリザードを退避するため五号連絡基地へ向かった。どの連絡基地も大人数が長期間滞在できるだけの食糧と燃料を備えていた。しばらく退避していれば過ぎ去るだろうと上陸班の誰もが思っていた。
二十一世紀に入ってから地球温暖化が問題視されるようになり、北極海では海氷面積が確実に減少していった。一方で、二十一世紀前半の頃から、北半球においてその年によっては寒波に襲われることが頻繁になってきた。地球温暖化と北半球寒冷化は、相反する現象であるが現実に起こっている現象だった。
この現象の原因は、氷河が急激に溶けたことによって、北極海に大量の淡水が流れ込んだ。このため、海水の塩分濃度が低下、深層への沈み込む下降流が弱まり、寒冷化に結びついたというものである。よって、このことは北極海だけに止まらず、世界の広範囲において異常気象が発生することにもつながっている蓋然性がある。
この他にも色々な要因が絡み合っているのだろうが、結果的には気象の予測が立てにくいうえに、当たらないことが多くなっている。気象予報管という言葉は、いつの頃からかペテン師のような蔑まれた意味を持った言葉に成り下がってしまい、現状を伝える天気予報はあっても、皆が知りたがるこの先の予報について、明確な言葉で伝えることは自粛するようになっていた。
― グリーンランド北西部の町 カーナーク ―
ロシア科学アカデミーの調査船「ヤマル」が津波をかろうじてかわし、ボーリング地点へと航行し始めた頃、カーナークの郊外にあるクヌッセン一家では、夫と息子を狩りに送り出した妻は、いつものように娘と昼食をとった後、食器の後片付けをしている最中だった。幼い娘であったが、母に習って自分の食器を自動食器洗い機に入れることくらいの躾はなされていた。娘は、自動食器洗い機のスイッチを入れると、自然に洗い機の中で水が勢いよく出てきて、食器の汚れを落とすことが面白くていつも洗い機の中が見える小窓に顔を付けるようにのぞき込むのが最近の習慣になっていた。
そんな娘を妻は横目で微笑ましく見てはいたが、内心はこの子が大きくなった時、今のような狩猟に頼る伝統的なエスキモーの生活が続いているだろうかと、心配しても仕方のないことを考えざるを得なかった。それは、自分がこの子と同じ年齢だった頃、自分の母が抱いていた心配事と同じものであった。しかも、現実は確実にその心配事に近づいているのだった。
娘は自動食器洗い機の中の洗浄液のジェット噴射が止まると、急に興味がなくなったのか、小走りにリビングの電子版ゲームに向かって行った。そして、さっきと同じように魂をゲームに吸い取られているように夢中でゲームに向かっていた。
「しょうがない子ね」
母はため息交じりにポツッと漏らした。そして、この娘が大きくなった時に、今のような狩猟による伝統的なエスキモーの生活が送れるのだろうかと不安にならざるを得なかった。自分がこの娘と同じ年頃の時と比べると、生活は利便性と快適性の面で確かに向上している。それが出来たのも、自然と調和して、乱獲に走らない伝統的な狩猟スタイルを継続してきたおかげである。
ところが、海氷面の後退により獲物の生息地域が狭まり、四半世紀前頃から獲物が取りにくくなってきた。乱獲しているわけではないのに、捕獲する獲物の量は年々減ってきている。家計を預かる彼女にはそのことが単純な感覚で感じるだけでなく、現金収入の数字で客観的に現れてきているからだ。
エスキモーの生活にも貨幣経済の波が押し寄せ、昔のように需給自足と物々交換を基本とし、狩猟による現金収入が補完的に家計を支えていた時代とは変わってしまった。今は、狩猟によるクレジット決済のウェートが高くなってしまった。よって、捕獲量の減少は、クレジット決済どころか、物々交換や自給自足といった原始的経済構造の崩壊につながる彼等の死活問題なのである。
母が昼食後の部屋の清掃をしている時に、玄関のドアを開けて家の中に誰かが入ってきた気配がした。彼女は「誰だろう?」と玄関ドアに向かった。廊下で出くわしたのは、彼女の実家の母親だった。
「どうしたの、母さん。電気スノーモービルで来たの? 危ないわね。途中で吹雪にでも遭ったらどうするの」と彼女は親子らしい遠慮しない口調で言った。
「なあにね。もう昼食も済ませた頃だろうから、おやつ代わりにさっき焼いたクッキーを孫に食べさせようと持ってきたよ」と実家の母は、肩からぶら下げていた大きな保温用バックの肩ひもを外して、そのまま台所のテーブルにバックの中味を一つずつ取り出した。それは、クッキーだけでなく、野菜や保存用の食材、調味料などであった。
実家の母は息子夫婦といっしょに暮らしている。息子は銀行に勤務しており、現金収入があるので日々の生活日に困るという事もなかった。実家の母は節約しながら、デンマーク政府から支給されるわずかな社会保障年金が入った時には、家計の苦しいクヌッセン一家の娘を訪れては、差し入れをしているのだった。
「いつもありがとう、母さん。助かるわ」
「いいのよ。ところで孫のオーレとキャロラインはどこ?」と実家の母は尋ねた。
「オーレは今朝、パパと狩猟に行ったわ。キャロラインはどうせリビングでゲームでしょ」
実家の母は台所からリビングに行ったが、そこには孫のキャロラインはいなかった。付けっ放しの電子版ゲームと、操作用子機が無造作にソファのそばに落ちていただけだった。操作者がいなくても、電子版ゲームの画面は自動的に次々に展開されていく。実家の母は操作用子機をミニテーブルの上にそっと置き、電子版ゲームの電源を“OFF”にした。実家の母にしてみれば、ゲームに夢中になる年ごろだということは、自分が幼い頃にそうであったように理解していた。しかし、遊んだ後の後片付けなどの躾には厳しかった。
ちょうどその時、幼いキャロラインはリビングに入ってきた。
「あ、おばあちゃん。こんにちは」
「こんにちは、キャロライン。今何をしていたの?」
「むこうでテレビを見ていた」
「へー、そうかい。面白い番組だったのかい」
「うん、『マッチ売りの少女』っていうアニメ。アンデルセンっていう人が作ったの。さっき、終わったからゲームをしに来たの」
「ああ、その話ならおばあちゃんもよく知っているよ。子供の頃、よく見たよ。悲しいお話だよね」
「まだ、最終回にはなっていないから、最後がどうなるか言わないでね」
「ええ、わかったわ。言わないって約束する。そのかわり、キャロライン。おばあちゃんにも約束してくれる? ゲームをしない時には必ず電源を切って、ゲームの子機はちゃんと決めた場所に片付けておくこと。どう、キャロラインにできそうかな?」
「キャロライン、わかった。おばあちゃんと約束する。テレビの電源を切ること。ゲームの子機は片付けること」
「いい子だね、キャロライン。わかったね。おばあちゃんとの約束だよ」
祖母がそう言ったら、キャロラインはうなずいてすぐにまた、ゲームの操作用子機を手にして電源を入れ、ゲームを再開した。キャロラインの祖母はその母と顔を見合わせて、今の約束は果たして守られるのであろうか。たぶん、無理だろうなという表情をした。そんな二人の存在には全く気にせずにキャロラインは無心でゲームに入り込んでいた。
一方、台所ではキャロラインの母が今もらったクッキーとお茶の用意をして、自分の母をテーブルに呼び入れた。その後は、親子ならではの世間話や息子のオーレの進学の話など、どこにでもあるごくありふれた会話がなされた。会話がはずんでいたせいと、キャロラインがゲームに夢中になっていたせいで、テレビの緊急天気予報のテロップが流れていることには誰も気付かなかった。
カーナークでは、全世帯の緊急を要する場合、例えば災害、気象、事故等のニュースをテレビなどのディスプレイに自動的にテロップと音声で流す緊急放送システムが導入されていた。テロップの内容は災害緊急警報で、そのヘッドラインは「勢力のある低気圧発生、自宅もしくは最寄りの非難所に速やかに待避せよ」であった。
狩猟に向かった父とその息子オーレは、双方向の無線機を携帯していたので、スイッチを“ON”にして普通の状態であれば、この緊急放送に気付いたはずである。しかし、母とその家族は緊急放送には気付いておらず、父に対して安否確認してみるなり、緊急放送が流れていることを確認するはずもなかった。
絶え間なくテロップが流れ続けていたが、父たちはそれに気付いていたであろうか。そんな状況に関係なく、確実に低気圧は広範囲を巻き込む勢いで勢力を増し、その向かう方向、風速、気温、風速も近代科学の予想システムをもってしても解析が非常に難しかった。ただ、空の雲の様子が急速に変化してきていたが、寒冷地であることからカーナークでは建物の外に出ている人はほとんどいなかった。唯一、狩猟に出かけている人間を除いて。
北極圏内で狩猟を家業とする家族は、天候の変化に常に気を配っていなければならない宿命を背負っていた。それでも彼らの先祖はずっと昔からこの地で生きてきた。自らの忍耐と自然からのわずかの恵みによって、彼らの先祖は自然環境と共存して生きてきたのである。
― バッフィン湾のポセイドン ―
ポセイドンが、カナダ北東部に位置するバッフィン湾を北上するのにしたがって、ブリッジでは少しずつ緊張感が高まってきた。小さな流氷がポツポツと現れ始めてきたからだ。このくらいの流氷であれば、ポセイドンの推進力によって発生する波によって流されてしまう。たとえ艦殻に衝突したとしても損傷することもない。しかし、大きなものになるとダメージを被ることになる。海上に姿を見せているのは全体の一割程度であり、海面下にはどんな形状の流氷があるかは海上からは把握できない。よって、国際気象センターが気象衛星から送られてきたデータを解析して送信しているシステムを利用しつつ、自らのセンサーで得られたデータを照合して流氷の発生状況を推測するしかないのだ。艦の保全を担当する保安部長のカスター少佐は、ブリッジの中では神経質になっていた。
「航海長、バッフィン湾の北方の流氷密度に関する詳細データをこちらへ送ってくれないか」とカスター少佐は航海長であるドレイク少佐に言った。
「了解。潜航するポイントを探っているのだな。・・流氷自体は大きいが、海上に出ている体積は十パーセントだ。満足するデータではないと思うが、これがポセイドンのセンサーで得られるデータだ。これで勘弁してくれ」
ドレイク少佐は国際気象センターからのデータとポセイドンのセンサーからのデータをドレイク少佐の前にある計器に送った。
「データのローディングを確認。・・・やはり、これだけではよくわからないな。ポセイドンの艦殻へのダメージをなくするには、予定の潜航地点より早く潜航しなければならないな」
「そうか、流氷には衝突したくないからな。国際気象センターのデータでは、小さな流氷までは確認できない。取りこぼしがあったら大変なことになる。・・少佐、艦殻に流氷が衝突したら、その音が出る。各所の保安部員が衝突音を聞いたらそれが危険信号だ。衝突音が出るまで洋上航行する気はないが、念のためだ。保安部員に衝突音など異常を察知したら、少佐に連絡するよう手配してくれないか」とドレイク少佐はカスター少佐に依頼した。
「了解。その旨を保安部員に伝達する。こんな海域では、データより実態を優先すべきだからな」
保安部長のカスター少佐はそう言うと、ティエール艦長の顔を見た。艦長からその旨の伝達の許可を取るためである。
艦長はコクリと小さくうなずいた。それを確認したカスター少佐はマイクを持つと、全艦内放送のスイッチを入れ、連絡事項を伝えた。
「こちら保安部のカスター。保安部員に告ぐ。これより本艦は流氷域に入る。センサーでは把握できない小さな流氷があるから、艦殻に流氷などの衝突音が聞こえたらすぐにブリッジの私に連絡するように。それから、機関部のネール少佐。聞いた通り流氷との衝突を避けるため、緊急潜航するかもしれないので、その準備をお願いします。以上」
カスター少佐はマイクを置き、再び艦長を見た。伝達事項がこれでよかったのかの確認である。艦長は再び小さくうなずいた。
一方、艦内放送を聞いた保安部員は自分の持ち場を点検しながら、音を出さないようにして、流氷との衝突音を聞き逃さないように行動した。
また、機関部では急速潜航に備えて、バラストタンク、弁、スラスターなどの関連装備の点検をネール少佐の指揮のもと、ひとつひとつ手順を踏んで確認していった。
航海長のドレイク少佐を中心にして、流氷に対する警戒態勢に入った。ポセイドンは予定通りの北上コースを進んでいった。
― 今から一週間前のノルウェー科学省 ―
ポセイドンがバッフィン湾を北上していた一週間前の、ノルウェーの首都オスロにある科学省のプレスルームには、マスコミやメディア関係者が集まっていた。彼らの目的は、明日に出発を迎えた科学省北極調査隊の壮行式の様子を取材することである。
予め科学省が連絡しておいた放送局や新聞社などから派遣された人々が集まっていた。通常のプレスリリースであれば、プレスルームのカメラとマイクからえられた情報は通信機によって契約している会社に配信され、それを受信した放送局などはそれを情報源として放送用に編集したり、活字にしたりする情報開示シスエムが構築されており、わざわざ科学省まで社員を取材に行かせる手間はかからないのだが、今回の壮行式は、ノルウェー科学省として、北極調査における科学レベルの高さを国内外に知らしめる意図があった。そのため、情報開示システムを使わずに旧来のプレス発表という形をとって、調査目的と調査によって得られる学術的効果を宣伝することにしたのだ。
予定された会見の時刻になった。プレスルームに隣接した控室から科学相、環境部長、そして六名の調査員がプレスルームに入ってきた。皆、晴れ晴れした表情で微笑みをたたえた顔をしている。
そして、用意されていたノルウェー国旗と科学省のロゴマークが映し出されている大型スクリーンの前にある所定の座席に着席した。
その様子を見ていた司会役の科学省報道部の事務官が、立ったまま式次第に従って進行の挨拶を手短に話し、本題に入るため、まず科学相を指名した。
科学相は今回の調査隊の派遣についての所見表明を話し始めた。
「皆さん、お忙しい中お集まりいただいてありがとうございます」
科学相はそう言って、プレスルームに集まった報道関係者をひととおり眺めるように一呼吸おいてから再びスピーチを始めた。
「さて、皆さんもご存知のとおり、我が国からの北極海への調査は今年に入ってから今回が三回目になります。従来からの調査結果の積み重ねは着実に成果をあげてきております。成果の範囲は、気象、生物、氷の成分、海流、海底、天然資源など多方面にわたり、データやサンプル採取に成功しております。二十世紀では、到底、人類が成し得なかった冒険に近い活動が、今では科学技術の進歩と流氷の後退によって、安全な調査活動として実現されております」
科学相は報道関係者の反応を確かめてから、さらにスピーチを続けた。
「今回の調査では、ここにいる六名の調査員を派遣します。いずれもその道の専門家でありまして、調査結果が今から楽しみであります。それでは、調査の詳細については、環境部長から説明してもらいます」
科学相はそう言って、次の話を環境部長にバトンタッチした。環境部長は慌てることなく、事前の打ち合わせ通りに科学相に替わって、スピーチ席に登壇した。
「皆さん、お集まりいただいたことを重ねて御礼申し上げます。さて、私からは今回の調査内容をご説明させていただきます。今ほど科学相が申し上げましたように、かつて、北極海はその自然環境の厳しさから人類の進出を拒んできました。しかし、今やそれを克服する技術革新と気象変動によって、未知への探求が容易になりました。特に北極海周辺諸国は、相互に約束したルールに則って調査隊を頻繁に派遣しております。また、実際に北極調査のためのベースキャンプを設置しており、複数の調査員が常駐しております。その中で我が国は、独自の調査も実施していますが、他の隣国とも協調して、北極海の自然にかける負担をできるだけ少なくするために合同調査隊を結成しています。同じ調査を複数の国が実施することは無駄であるうえに、自然への負荷を大きくしてしまいます」
環境部長は一呼吸おいて、報道関係者の反応をうかがった。そしてスピーチを続けた。
「世間の一部の論調には、“天然資源を巡るクールな北極海でのホットレース”というものもありますが、科学省としては商業ベースではなく、学術ベースでの北極海の探査を考えています。それも北極海をできるだけ汚さないように配慮しています。北極海は地球で最後のフロンティアと言えるでしょう。そのかけがえのない北極海の環境保全を最優先にして探査し続けていくのが我が国の基本方針です。皆さん、この辺をご理解して国民に伝えていただきたい点であります。北極海周辺諸国の中にはそうでない国もあるように思われますが、我が国は探査最優先とする国とは一線を画しています」
ここで環境部長は再び報道関係者の反応を確かめるために一呼吸おいてスピーチを続けた。
「実際に、今回の調査隊六名のうち、ロシアの科学者が一名、デンマークの科学者が一名います。お二人とも実験室にこもって研究しているタイプではなく、これまで何度も北極海の調査に派遣されている経験のある硬派な科学者です」
環境部長が“硬派な研究者”と言った時に、報道関係者の中からトーンを抑えた笑いが起こった。二人の科学者はいずれも頬からあごにかけてヒゲをたくわえており、一見したところでは、とても科学者には見えなかったからだ。環境部長のスピーチは続いた。
「えー、このように我が国は他国と強調して北極海の調査を行っており、その調査結果は参加国に提供されます。逆に、他国の調査隊に我が国の専門家が参加することもあります。こうして情報共有され、蓄積された貴重なデータとサンプルは新発見となることがあるかもしれません。それを目指して、時間をかけて科学省で分析されます。そして、いつの日かあらためて皆さんに調査結果から実証された新発見をお知らせする日が来ることでしょう。その時を楽しみにしてお待ちいただきたいと思います。それでは、今回の調査隊の六名をご紹介します。まず、隊長の・・・・・」
環境部長はこうして六名を順に紹介していった。紹介が終わってから、取材に来た報道関係者から質問を募った。
数名が質問の挙手をした。環境部長はそのうちの一番前列に座っていた報道関係者に最初の質問者として指名した。指名された報道関係者はあらかじめ配布されていたプレスリリース資料を見ながら立ち上がって、社名と自分の名前を言って、質問を始めた。
「事前にいただいたこの資料によると、調査隊はグリーンランドのカーナークから北上し、北極海のこのⅭ地点で調査活動を行うようですが、Ⅽ地点を今回の調査地点に選んだ理由、背景は何ですか」
「これまでの調査地点は、主に我が国の大陸棚に連続している海域とその周辺がほとんどでした。そう、だいたいこの海域ですね」
スクリーンに映し出された北極海の地図を環境部長は指さした。
「今回は、これらの海域とは異なる地域での調査でありまして、これまでのデータとの比較から、新発見となる事象がないかを調べるために行くことが目的です。この海域は我が国にとって未知の海域です。また、他国も同様に未調査である海域ですから、調査によって得られる成果が期待されるところであります」
環境部長の回答が終わると、すぐに複数の報道関係者から手が上がった。環境部長は、今度は前列から二列目の報道関係者を指名した。その報道関係者も同様に社名と名前を言ってから質問に入った。
「未知の海域ということのようですが、この資料ではB地点を中継基地としています。補給箇所を一箇所だけしか設置しないのは、調査隊の安全面で問題はありませんか」
この二番目の質問に対し、環境部長は微笑みをたたえながら、自信たっぷりに説明を始めた。
「全く問題ありません。B地点を中継地点に選んだ理由は、この周辺では、アイスエッジが過去一度も発生していません。よって、流氷に裂け目が入って、中継基地が下の流氷ごと流される心配がないからです。また、B地点は我が国から遠い場所にありますが、デンマーク政府のバックアップによって、グリーンランドのカーナークから、食糧などの補給物資の提供を受けることになっています。また、駐在員も常駐することになっていますので、調査隊が吹雪などで立ち往生しても、彼らに最も近い場所から救援隊を差し向けることができます。つまり、調査隊のメンバーは安心してその調査活動に専念することができるのです。まして、この季節は白夜ですから、派遣班の六名は寝る時間もないことでしょう」
環境部長は冗談を言って、派遣班員が並んで座っている方向に目をやった。報道関係者から軽い笑いが起こった。
別の報道関係者から質問の手が上がった。環境部長は彼を指名した。
「調査内容について質問します。この資料で概略はわかりますが、詳細なことは書いてありません。もう少し具体的にお話していただけませんか。こういうことを調べるとか、今回の調査によってこうした成果が得られる見込みであるとか」
「なるほど、ごもっともなご質問ですな。調査項目については、お手元の資料に記載してあるものです。それはこれまでも別の地点で調査してきた項目と何ら変わっていません。具体的な調査については、実際にその場所に行ってみないと、計画通りの日程で調査活動ができるかどうかはわからないのが実情です。よって、こうした成果が得られるなどと浮ついた答えを私はもっていません。なにしろ、北極海の未調査地域ですから。その答えは、まさに神のみが知ることなのです」
環境部長はそう言って、右手を少し上げて、その人差指を天の方向に向けた。つまり、天候頼みだということを暗に報道関係者に伝えたのだ。それを見た報道関係者からは、それ以上の質問を続ける者はいなかった。環境部長の言わんとすることを理解したからだ。
「さて、他にご質問はありませんか」と、環境部長は報道関係者に逆に問いかけた。
しばらく沈黙の時が流れ、頃合いはよしと思った環境部長は司会役の環境部n事務官に視線を送った。こうしたアイコンタクトに慣れている事務官は、会見の場を終わらせるためにすかさず言った。
「それでは、ご質問はないようですし、所定の時刻も過ぎていますので、今回の調査隊派遣の合同会見はこれで終了させていただきます。なお、ご不明な点があれば、環境部環境政策課が対応させていただきますので、お手元の資料の連絡先にお問い合わせください。本日は、お忙しい中、時間を割いていただいてお越しいただき、ありがとうございました。これにて、合同記者会見は終了いたします。皆さん、お気をつけてお帰りください。本日はご苦労さまでした」
手慣れた進行に促されるように、報道関係者は次々と席を立っていった。こうした会見では、報道関係者も特に疑問を抱くこともないし、執拗に追及する精神性も起き上がらないことに慣れっこになっている。これまでの北極海への調査隊派遣は何度もあり、彼らにとってもマンネリ化した会見であった。
報道関係者に対する答えに窮する質問がなかったこともあり、科学相、環境部長ともホッとした気分だった。しかし、環境部長はそんな感情は表情には出さず、ポーカーフェイスでプレスルームを出ていく報道関係者を演壇から見送った。
科学相も同様に見送り、全員がいなくなってから腕時計を見て、次のスケジュールまでの時間的余裕を確認し、緊張が緩んだ表情で秘書官と共にプレスルームを出ようとした。
その様子を見ていた環境部長は科学相に声をかけた。
「大臣、お忙しい中、会見の時間を取っていただいてありがとうございました。大臣に出席していただいたおかげで、実りのある合同記者会見となりました。彼らの作成した記事があと数時間で国内に配信され、今回の調査の意義が国民に伝わることと思います」
それを聞いた科学相は歩みを止め、環境部長の顔を見て言った。
「部長、さっきの言葉通りに成果を上げてもらいたい。これまでの調査隊もそうだったが、目新しい発見はないではないか。私を報道関係者と同じように煙に巻くわけにはいかないぞ。しかし、いいか。遭難とか、事故は絶対に起こすな。国民だけではなく、今回はロシアとデンマークからの調査員も交じっているから、何かあったら国際問題に発展しかねない。どの国も資源開発に躍起になっている。ここでトラブルを起こしたら、次回の調査は当分の間凍結する。・・君もわかっていると思うが、資源探査は重要だが、事故を起こしては元も子もない。安全優先だ。無理しても資源発見にはつながらない。それはこれまでの調査が証明している。違うかね」
科学相のまくしたてる言い方に、環境部長は口をはさむ余地はなかった。それは科学相の言うとおりであるからだ。
科学相はそう言い残してプレスルームを出ていった。
“ふん、ちゃんとお前に言ったぞと言いたいのだろう。事故は誰も起こしたくない。当たり前のことだ。資源の新発見は言われたとおりだが、探査を継続しなければ、あれほど広い北極海を網羅することはできない。限られた予算でこの広い北極海を把握することはできないのに。わかっていないな。いや、わかっていても、わからないフリをしているだけか”と環境部長は冷めた目で科学相の言い分を黙って思い起こしていた。
環境部長は思った。
“今は好きなことを言わせておけばいい。しかし、今回の調査で新しい発見があれば、科学相も私を見直すだろう。なにしろ、ロシアとデンマークの政府を説き伏せて結成した調査隊だからな。何としても成果を突き付けてやるぞ。そうなったら、手のひらを返したように私を持ち上げるだろうな。・・ふん、政府のイヌめ。あんな奴はほっておけばいい。言われなくても我々がいい恰好をさせてやる”と、日ごろからか科学相のことを鼻持ちならない人物だと思っていたので、今回の調査で成果を上げるという思いが強かった。
簡単に言うと、「見返してやる」という単純で幼稚な精神性で今回の北極海調査を考えていた。それは少なくとも、自分が環境部長になってから、一度も遭難や重傷者を出したことがない自信に裏打ちされたものであった。
そして、同じように科学相を見送った六名の調査員たちを見て、環境部長は隊長に尋ねた。
「まあ、あんな人だ。気にするな。言わせておけばいい。・・それより、調査のための準備作業の進捗はどうかね班長。環境政策課長からは先週、概略を聞いているが」
「はい、当初の計画通り、物資、関係機関との連絡体制はチェック済みです。今からでも北極海へ出発できる状態です。ご安心ください」
「おう、そうか。それは頼もしいことだ。期待しているぞ、班長。科学相の鼻をあかしてやろうじゃないか」
「はい、本当にそうしたい気分です。私も含めて六名は、新発見となるような成果をお約束します。というようなことまで言えませんが、全員やる気満々です。それに、今回はロシアとデンマークの科学者も加わってくれました。彼らとも良好なコミュニケーションがとれていますので、調査隊としては何の問題もありません。問題があるとすれば天候でしょうか」
「天候? それはウチの環境部からの気象情報と国際気象センターからの情報で充分じゃないのかね」
「ええ、情報は十分あります。ただ、我々に必要なのは現在の気象情報ではなくて、一時間ごとの我々がいる地点での天候の変化予測です」
班長は嘆願するような口調で、環境部長の目をじっと見て言った。
環境部長は班長の的をついた言葉に一瞬押されたが、調査隊員たちに何もいわないままこの場を終わりにできないと思い、威厳を込めて班長に向かって言い返した。
「君の言うことはわかるが、無い物ねだりはダメだ。これまでの北極調査も今回と同じ条件で実施している。その上、今回はロシアとデンマークの支援も受けることができる。この点は、これまで以上に恵まれた条件じゃないかと思うがね」
「それは、確かにそうですが、逆に調査項目がこれまでに比べて増えています。この調査期間でこれだけの調査をこなすには、隊員たちにかかる負担が大きくなります。天候に恵まれればいいのですが、この季節でも北極海では吹雪に会うことがあります。効率よく調査活動を行うには、先行きの天候を予測しなければなりません。いったん、調査を始めてから吹雪になったら、もう一度最初から調査をやり直さなければなりません」
班長の言葉を遮るように環境部長は口をはさんだ。
「班長、北極探査が厳しいものだということは私でもわかっている。その厳しさを先人が切り開いてきた。違うかね。・・二十世紀も二十一世紀も北極探査においては自然が相手であることには変わりはない。だからこそ、二十一世紀においてもそれに挑戦する意義はあるんじゃないかね。・・班長、この話はもうよそう。結論が出る話ではない。ともかく、前へ進むしかない」
環境部長はそう言って、先ほどの科学相と同じようにプレスルームを出ていった。
その頃には環境部や広報部の事務官はプレスルームにはいなくなっていた。残っているのは調査隊の六名だけだった。重苦しい雰囲気が六名を包んでいた。
「班長、いくら言っても無駄ですよ。科学相はあんな人柄ですから、あんな言い方しかできないんですよ。我々は自分たちの仕事をするだけです。オスロでの仕事はこれで終わりましたから、これからグリーンランドのカーナークへ行く準備にかかりましょう」と、副班長が気まずい雰囲気を和ませるように配慮して言った。
「そうだな。面倒なプレス対応はこれで終わった。次に彼らの顔を見るのは、我々六人が無事にオスロに帰ってきてからだろうな」
班長のこの言葉に反応した調査員たちは、笑顔で班長の顔を見て、今回の北極海の調査で成果をあげることを信じて、全員がやる気に満ち溢れていた。その後、彼らは、科学省が手配した砕氷船に乗り込み、既に設置されているノルウェー調査隊のベースキャンプに向かった。彼らの調査活動は、そこを起点として実施されることになっていた。
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