マリンノーツ(第4話)「北極海の蹉跌」

早風 司

プロローグ

マリンノーツ

                      著者  早風 司

第四話  北極海の蹉跌

 プロローグ 

 第一章   氷山が後退した北極海

 第二章   ノルウェー調査隊の遭難

 第三章   悩めるノルウェー政府

 第四章   ペール・ギュント愛した男

 第五章   ノルウェー海軍の出動

 第六章   北極海沿岸国の思惑

 第七章   ロモノソフ海嶺の戦い

 第八章   ノルウェー調査隊の救出

 第九章   漁夫の利

 エピローグ



 主な登場人物


ジャン・ティエール大佐     艦  長 フランス人

クレメンス・ビスマルク中佐   副  長 ドイツ人

ジョセフ・ドレイク少佐     航 海 長 イギリス人

ジャハ・ネール少佐       機関部長 インド人

ジョン・カスター少佐      保安部長 アメリカ人

マリア・グスタフ少佐      厚生部長 スウェーデン人

島 淳一中佐          観戦武官 日本人



ポセイドン

国際連邦艦隊(UFF)所属 多目的大洋航行用(モナ級)潜水艦

 United Federal Fleet Multi-Purpose Ocean Navigation Submarine

 全長200m、水中排水量2万トン、水中速度30ノット、 

 HY150チタン外殻

 主機 原子力型内部磁場式超電導電磁推進システム

 補機 スターリングエンジン





自由の樹は


愛国者と圧政者の血を


交互に吸って大きくなる


       第三代アメリカ合衆国大統領 トーマス・ジェファーソン



プロローグ


ニ〇九〇年正月。私は日本で静かな朝を迎えた。今年で七十歳になる。息子の嫁は身重な体で順調にいけば、五月に初孫の顔を見ることができるだろう。とはいっても、息子夫婦は欧州で暮らしているため、ホログラフネットでの味気ない映像と音声で我慢しなければならない。簡単にネット上でも肌の温もりが伝わるようになるまでには、あとどのくらい待たねばならないのだろうか。それでも私が生まれた頃は、オプティカルネットで病院の産婦人科の部屋から自宅のテレビに映像と音声だけを送ることができたのだから、その頃と比べればまだ便利になったというべきか。

  

それでも、ネット社会が我々の生活のいたるところに張り巡らされ便利にはなったが、どこまで進歩しても味気なさ、虚しさが残るのは何故だろうか? そんな気持ちを紛らわすために我々はさらに便利さを求めてコンピューターに依存することになる。

ユビキタス社会ともいえる電脳社会の利便性を享受できているが、その対価を支払える人と支払えない人との格差、また、たとえ支払能力があってもそれを拒絶する人、もしくは、支払能力がないのに、その麻薬的な効果の虜になって、電脳社会から逃れられずに多重債務を抱えながら、ユビキタス社会に留まろうとする人がいる。結果的にはユビキタス社会における“新たな格差”が発生しているのだ。


格差が抱える問題もさることながら、コンピューターに頼れば頼るほど人間らしさが失われていくように感じられる。

新たな刺激を求め新しいサービスに依存してゆく人々。また、それらの人々のささやかな欲求を満たすべく、さほど必要性もないのに次から次へと人々に提供される便利なサービス。このサービスを支えるようにローコストで安全性を確保した製品を産み出すよう技術進歩がなされてきた。


このイタチごっこは止まることを知らない。飽きられ捨てられるまで人々に支持されるように進化し続けていくサービスたち。便利になること自体は悪いことではないが、あまりに便利さに寄りかかることになれてしまうと、その寄りかかるべきものがなくなった時に自立できない自分に気づく。しかし、すぐにそれに代わりうるものが現われて、また寄りかかる安楽なゆりかごに身を委ねることになる。この関係は自然現象的にまでシステム化されていて、その麻薬的、官能的な誘いに対して拒絶を突き付けることができる人は少ないだろう。人間は誘惑に対して弱いものだ。


どこまでいけばこのユビキタス社会は歩みを止めるのだろうか。近い将来に大きな転換期が訪れ、人間本来の喜怒哀楽、思いやりと慈悲、愛と勇気と英知をユビキタス社会から取り戻すことができるのだろうか。

笑顔と汗が同居しつつ、人々が手に手を取り合って生きてゆく姿を見られるようになるのはいつになるのだろうか。少なくとも私の生があるうちには間に合いそうにない。年齢のせいか、最近は人生を振り返って昔の充実した日々が懐かしく思えて仕方ない。昔もIT技術に頼り、その進歩に無意識のうちに期待していたが、どこかで歩むべき道を間違えたのか。それとも人類はずっと心のどこかで呵責を感じながらも、利益を求め続ける集団心理にあおられ続けて、少しずつ外れたコースをたどってきたのか。


 その答えを誰かが知っているのだろうか。あるいはその答えがいずれ導き出される約束された予定日を誰かが知っているのだろうか。それともその答えの解をすでに誰かが解いていたが歴史の中に埋没してしまったのか。・・・いずれにしてもその答えの鍵さえも私の手元にはない。ずっと探し続けてきたが未だに納得できないでいる。答えなど最初から用意されていないのだろうか。


今はただ昔の思い出だけが懐かしく輝いて私の頭から離れない。昔の仲間たちに会ってみたい。これは私の大切な宝物だ。そしてどんなにユビキタス社会が発達しようとも、この宝物は私から奪ったり改ざんしたりできない絶対的なものなのだ。そのことを誇りに思おう。


情報通信技術の誕生。地球上に電波を応用したのは一八九五年、G・マルコーニが最初というから、電波の歴史はまだニ百年程しか経っていない。人類の意図のないメッセージでさえも、宇宙ではニ百光年離れた星までしか届いていないのだ。はるか百五十億光年の広さがあるという宇宙を思えば、我々の営みなどほんの一瞬の瞬きにもならないだろうが、私は二十二紀にあと十年と迫った今、あの有意義な任務となったUFF(国際連邦艦隊)の潜水艦ポセイドンで体験した事件、巡り合った人々を思い出しながら、後代の若者に松明を手渡す二十一世紀の一人の語り部として、記憶と手帳とデジタルメディアを頼りにあの頃をリプレイしてみたい。



 ― グリーンランド北西部の町 カーナーク ―


 二〇六〇年九月一日 デンマーク領グリーンランドの北方にある町のカーナークでは、いつもと変わらない朝を迎えていた。この町の住民の多くは狩猟で生計を立てているエスキモーが多い。また、その収穫された動物の解体、生肉の販売・加工の工場に勤めている者も含めると、街の人口の七割程度が狩猟に関係した仕事をしている。


 あるエスキモーの家族であるクヌッセン一家もそれにたがわず、代々、狩猟によって生活の糧を得ていた。彼等の朝は早い。年中、白夜なので空の明るさや鳥の鳴き声から時刻を知るより、時計で現在の時刻を確認する習慣が身についている。

 その一家の者は既に全員が起床していた。今日もいつもと変わらない一日の始まりだ。猟に出かける父親とその息子は朝食を済ませ、猟に必要な道具を納屋に置いてある電気スノーモービルに運んでいた。母親は彼等の食べた後の食器を洗い、調味料の後片付けをしている。息子より年下の娘は、母親が洗った食器を拭いたり、食器棚に運んだりしていた。

 父親は納屋から二台の電気スノーモービルを一台ずつ外に出し、並べて仕業点検を行い、バッテリーの蓄電残量も確認した。


「おい、出発の準備はできたか?」と父親は、これから狩りにいっしょに連れて行く息子に声をかけた。


「準備できたよ。父さん」と息子は父に大きな声で答えた。


息子の年齢は十四歳。この町のエスキモーの習慣として、男の子は十四歳になったら、狩猟のためのライフル銃を使ってもいい事になっていて、今日が少年にとっては、初めて自ら狩猟を体験する日なのである。もちろん、幼いころから父親に狩猟の現場に連れて行かれ、具体的にどんな事をするのか何回も見てきたし、父親の作業を手伝ってきたが、狩猟場ではライフル銃には一度も触らせてもらえなかった。ただ、一年前からは銃の扱い方、点検の仕方、射撃練習をしてきたので、父親には及ばないまでもひととおりのハンターとしての訓練はなされていた。


少年はこの日が来るのを待ち望んでいた。うまく獲物と遭遇することができれば、今までの射撃訓練ではなく、本当の“実戦”を体験できるからだ。ワクワクして昨晩はよく眠れなかったほどだ。大きなあくびをして、後ろに立っていた母親と妹に向かって言った、


「じゃあ、行って来るよ。母さん」


「気をつけてね。どんな時も慌てずに。必ず父さんの指示に従うんだよ」


「わかってるって」


 そう言って、少年は電気スノーモービルにまたがり、スターターを回した。エンジンのように静かな朝の空気を引き裂くことなくバッテリー残量を確認した。それを確認した父親もスターターを回し、二台のスノーモービルはいつでも出発できる。


 父親は妻と娘の方に振り向いていつものように手を振った。妻と娘も同じように手を振って夫に返した。妻の表情からは、息子の無事を案じているような憂いが感じられた。しかし、幼い娘はそんな事情を理解することはできず、無邪気に手を振るだけだ。彼女の本心は家の中で電子板ゲームをしたかっただけだったのだ。


 父親が電気スノーモービルのスロットルをゆっくりと回して行くと、ゆっくりと発進した。それに合わせて息子も同じスピードで父親について行った。それを見届けた娘は、“お見送りの儀式“が終わって、母親とつないでいた手を振りほどき、電子板ゲームを始めるために一目散に家の中に走って入って行った。


行く手には、白色の氷の平原が広がっている。空は曇っていたので、地平線と空との境界がはっきりとはわからない。道なき氷の平原に向かって二台の電気スノーモービルは、平原の凹凸のせいで上下しながら、その姿を次第に小さくしていった。まるで、ミルクの上から指でちょっとつまんだ粉コーヒーを落としたように、やがて氷の平原に吸い込まれるように消えていった。家の外で一人立っている妻はそんな様子をずっと見ていた。彼等の姿が見えなくなるまで。そして、トラブルに巻き込まれることなく二人とも無事に帰ってくることを願いながら。



   ― バッフィン湾のポセイドン ―


 カーナークのクヌッセン一家の父親とその息子が猟に出かけた頃、UFF(国際連邦)の潜水艦ポセイドンは、カナダ北東部のバッフィン島とグリーンランドに挟まれたバッフィン湾の洋上を北上していた。九月といっても、北極海に近いバッフィン湾の気温は低く、ブリッジの天板の見張り台には誰も出ていなかった。この海域には航行する船舶が少なく、衝突の可能性がほとんどないため、目視による監視を行わずに洋上用のセンサーで充分であった。ポセイドンのこれからの航行路は、グリーンランドの北側の北極海を抜け、ロモノソフ海嶺をかすめながらスヴァールバル諸島へ向かう予定である。


ポセイドンのブリッジでは、保安部長のカスター少佐が進行コースの海図をチェックしていた。まもなく流氷の点在密度が高まるため、潜航するポイントも確認する必要があるからだ。


「ドレイク少佐、あと百キロメートルの地点が潜航する地点に到達する。ただし、流氷の点在位置は海流によって変化するから、進行コース付近のセンサーの様子をモニターしていてくれ」


「了解。流氷を捉えるセンサーには異常なし。そちらの計器でもセンサーの記録を見ることができるから、危険な状態になったら潜航の合図を送ってくれ。」


「こちらの計器でセンサー記録を確認。合図したら、すぐに潜航体制に入れるよう準備しておいてくれ」とのカスター少佐の言葉に対して、航海長のドレイク少佐はカスター少佐の顔をみて、無言で了解した意味を込めたうなずきで答えた。そして、艦長に報告した。


「艦長、あと十キロメートル先で本艦は潜航します。ただし、流氷の具合では、それより早くなるかもしれません」


「わかった。引き続き、流氷の位置と大きさに注意するように。それと小型船舶の位置確認も忘れるな」

「了解しました」


ドレイク少佐の返事の後、ティエール艦長は計器盤に近づいて、流氷の所在や大きさを示すデータを自ら確認した。その確認した場所は潜航地点ではなく、そのはるか北側の北極海であった。


「北極海の永久流氷地域も狭くなったものだな。・・二十一世紀前期の頃はもっと広かったものだ。砕氷船以外の船舶にとってはとても危険で近づけなかった海域が、今では国際気象センターからのデータ配信の恩恵によって、それほど危険性のない海域となった」とティエール艦長は独り言のようにつぶやいた。


「そうですね。私がUFF(国際連邦艦隊)に入った頃の海図では、北極の氷原はもっと広かったですね。確かロシアの北側のこの辺りは当時、流氷海域だった。冬季には一般船舶は、北大西洋からの暖流が流れ込んで凍結しないノルウェー沖を進むコースしかなかったです。流氷域の後退は地球温暖化のせいでしょうか。船舶同士の衝突も発生するようになりましたからね」


 ドレイク少佐は計器から目を離すことなく、艦長の言葉に同調するように言った。


「ある学者の学説によりますと、二十二世紀になる頃には、二十世紀の流氷域の面積の半分くらいになると予想しています」と副長のビスマルク中佐は言った。


「うむ。・・どれくらいまで狭くなるかはともかく、一般船舶が北極海へ進出してくることは間違いないところだな。流氷が少なくなった海とはいえ、これまで人類が航海したことのない北極海の奥へ奥へと踏み込んでいくことになる。UFFの出番が増えなければいいのだが」


 ティエール艦長は副長の方を向いて、憂鬱そうな口調で言った。


潜水艦にとってはある程度の深度を保って海中を進むだけなら水温や塩分濃度が違うだけでそれほど艦に与える影響はないが、一般船舶は流氷があるのとないのではその航行の安全性において雲泥の差が出てくる。流氷海域の後退が止まらない限り、北極海での新航路を海図に書き込むことはなくならないであろう。それが単なる物資の輸送程度のものならば問題ないが、北極海の深海にある希少金属などの鉱床を探査する船舶の数が増えている。それらが秩序ある航行をすればいいのだが、探査活動を優先した航行するため、衝突の危険性が増している。採掘会社にとっては、安全より利益を優先するからである。


このように艦長の憂鬱は船舶事故への対応も含めて、人類の開拓の足取りを阻んできた北極海が、人類のエゴによって無差別に近い状態で荒らされていることからきていたのだった。



   ― ロシア科学アカデミーの調査船「ヤマル」 ―


ロモノソフ海嶺上をロシア科学アカデミーの調査船「ヤマル」がゆうゆうと航海していた。ロシア政府の所有する「ヤマル」はロシアの資源メジャーがロシア政府から借り受けて、自らの目的のために北極海を航行させていた。


二十世紀であれば、いくら九月といえどもこの辺りの海面は氷塊で埋め尽くされ、砕氷船でしか航行できなかった海域であるが、地球温暖化の影響で年ごとに氷海域が後退し、今では氷塊を見つけることすら稀な状態になってしまっていた。


調査船「ヤマル」の目的は、北極海の海底に眠る化石燃料やレアメタル、及び宇宙から飛来した隕石である。この隕石の中には、単なる石ころがほとんどだが、なかにはレアメタルや地球上には存在しない特殊な金属が含まれている場合がある。それらを採集して分析し、軍事面に有効活用している。また、海底調査においては、ロシア政府は二十一世紀に入ってから計画的に試掘調査を行い、その結果をデータベース化して、海底鉱物地図を作成し、資源メジャーに逐次それらを公開して、彼等の開発競走を煽ってきたのだった。北極海の広大な海域を計画的に、かつ丹念に調査し、その調査結果をロシア政府に報告する事になっていた。こうした報告の積み重ねによって、複数の資源メジャーが調査に当たれば、それだけの調査結果がロシア政府のもとに報告され、データベース化されることで、北極海の資源地図が作られていくことになる。


調査船「ヤマル」の乗組員は、目的地までの航海の途中で何度かザトウクジラの集団と出会った。この海域でのこうした遭遇も二十世紀には見られなかった光景だ。ザトウクジラは生息区域が広がったのがうれしいかのように、ブリーチングと呼ばれる大ジャンプをした。なぜ彼らがブリーチングをするのか二十世紀から明確な理由がわからないままだった。体に着いた寄生虫を落とすためだとか。子供を外敵から守るためだとか。諸説が論ぜられたが、最近の研究ではブリーチング自体に意味があるわけではなく、単にしたいからしているだけであるということに結論づけられている。手の空いている乗組員はそんな学説などには何の興味もなく、ただ彼等のブリーチングを退屈な航海での思いがけない“鯨のショウ”としてとらえ、彼等との距離が離れて行くまで甲板の上で見入っていた。


また、彼等はLNG船や原油を積んだタンカーも何隻か見かけた。イギリスの北東部に位置する北海で産出されたLNGをアジアへ運搬する場合のお決まりのコースになっている。こうした大型船が北極海を航行する航路が確立されてから既に四十年くらいになる。その頃は、氷山との接触を避けるため砕氷船も同行していたが、最近では大型船であれば単独で航行している。これも地球温暖化による氷原の減少のおかげで、従来ならばスエズ運河を通らねばならなかったものを、北極海ルートの確立のおかげで航行距離と時間の大幅な短縮がもたらされ、化石燃料の運搬コストの削減に貢献している。


九月一日十時。曇り空の下、調査船「ヤマル」は何のトラブルもなく、無事に接岸ポイントに到着した。人工衛星からリアルタイムで送られてくる氷原に関するデータは正確で、上陸するには十分に耐えきれる暑さの氷原が広がっていた。通常の港と違って、水先案内するボートはここにはいないので、自力で氷の岸壁に接岸しなければならなかった。操艦技術が試される瞬間だ。ほとんど惰性航行で前進する「ヤマル」を操舵だけで停止しなければならない。こうした場面を何度も経験した航海長でないとうまくいかないものだ。幸い、天候はよく、視界がはっきりしていたこともあって、調査船「ヤマル」は直線状になっている氷原の縁を選んで、そこに柔らかくタッチするように氷原の縁に吸いつけられるように接近することができた。


 調査船「ヤマル」の上陸班は既に搬出用物資の準備を済ませていた。


工務班長の合図で、直ちに「ヤマル」の工務班員が氷原に上陸して、係留用もやい綱を括りつけるための四本の杭を、ドリルを使って氷原に打ち込んだ。船の上の工務班に合図を送ると、四本の係留用のもやい綱が「ヤマル」のデッキから氷原に投げ降ろされた。上陸している工務班は慣れた手つきで氷原に打ちこんだ杭にそのもやい綱をくくりつけた。


四本のもやい綱がすべて杭にくくりつけられたことを工務班長が氷原の上で確認すると、再びデッキにいる工務班に合図を送った。「ヤマル」のデッキにいる工務班は係留用のロープをデッキにある巻取機を使ってゆっくりと巻き取ると、もやい綱のたるみがなくなり、「ヤマル」の船腹は次第に氷原にピッタリと接し、固定された。

工務班長は四本の杭とロープに異常がないかを確認し、再びデッキにいる工務班に合図を送った。係留作業が完了したことが艦長に連絡されると、調査船「ヤマル」の艦長は直ちに上陸班に対し、調査任務を果たすため彼らに下船の指示を出した。


氷原の上に降り立った上陸班の班長は隊員を前にして訓示した。寒さで口元がうまく回らないので拡声器を右手に持ってゆっくりとした口調で話し始めた。


「諸君、各自の任務はわかっているな。我々上陸班は各パーティに分かれて、氷原に落ちている宇宙からの飛来物を採集することにある。我々が立っているこの場所も数年後には流氷地帯になってしまうだろう。そうしたら、宇宙からの飛来物は海の底に落ちてしまって回収不能だ。いいか、探知装置を使ってレアメタルだけを回収するんだぞ。それと、気象衛星からの情報によると、これから天候が悪化する予報が出ている。遭難は絶対に許されない。国際ニュースネットワークの網に引っかかったら、ロシアの調査船が北極で何をしていたかが問われることになるからだ。調査船「ヤマル」はここを離れてボーリング地点へ行く。しばらくは「ヤマル」に帰れないから、各パーティとも安全第一で作業に当ってくれ。・・以上だ」


 上陸班の班長は振りかえって、調査船「ヤマル」の甲板にいる乗組員に手で合図を送った。


 それを確認した乗組員は、無線機で上陸班用の機材の積み下ろしの開始を指示した。船上クレーンがゆっくりと旋回し、機材の入ったコンテナのワイヤーを引っ掛けて、順序よく氷原の上におろしていった。


 上陸班はおりてきたコンテナの外郭を解体し、中に入っている機材を取り出した。積荷リストと機材を確認し、コンテナの中身が確認され次第、各パーティの小隊長に報告した。また、組立てが必要なものは対しては別の班員が手慣れた手つきで組み立て作業に取り掛かった。彼等の作業行動は極めて効率的かつ正確であり、これまで同じメンバーで何度も同様な任務についてきたことが見て取れた。


 数時間後には、コンテナの中身はすべて、その種類ごとに分類され、または組み立てられた。大型の雪上車二台、その牽引車二台をはじめ、金属探知機、水、食糧、燃料などがそこに整然と並べられた。解体されたコンテナの外郭はすべてパーツごとに分類され、大きいなシートがかけられた。そのうえ、シートの上には気球がワーヤーで取り付けられ、帰路において遠方からでもその位置が発見しやすいように工夫されていた。


「よし、これで準備完了だな。各自、もう一度自分の装備を点検しろ」


上陸班の班長は今後の天候を気にしながらも、表情に出さないように気を付けて、いつもどおりに班員に指示した。ただし、班長の胸の中には何の根拠もないが、いやな事が起こりそうな前触れを感じ取っていた。

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