和尚さんと彦星
今日は七夕です。
「やあ、みんな書けたかな。小さい子はわしが高いところに吊るしてやろう」
「わあい」
そんな光景が夕方まで続きました。
子供たちが家に帰ると、和尚さんは原付バイクのヘルメットをかぶって、東屋のかぐやのところに行きました。
「かぐやや」
「なんでしょう、和尚さん」
「わしはちょっと金子酒店まで般若湯を買いに行ってくるでの。それで、日暮れに大事な客人が来ることになっておる。もし、わしが帰って来ぬ間に、客人がきたら、抹茶でもで立てておいてくれぬか。水羊羹が冷蔵庫にまだ残っておるでの」
「はい、分かりました」
「よしよし」
和尚さんは酒屋へと出かけて行きました。
かぐやは和尚さんが行ってしまうと、東屋を出て、母屋に入って行きました。そして、お風呂で水浴びをしました。デザイナーズチェア作りでおがくずだらけ、汗まみれになった体を清めます。そして、梅雨前に和尚さんにこしらえてもらった浴衣を身にまといました。洗い髪がとても美しいです。かぐやは縁側に出て髪を乾かします。裏山から吹いて来る風が爽やかで気持ちが良いようです。かぐやはしばし陶然としていました。その姿を山門から境内に上って来た一人の男が呆然と見つめています。かぐやはそれに気がつくと、
「もし、和尚さんの客人ですか?」
と、いずまいを正して声をかけました。
「ああ、そうです。ところであなたはどなたですか?」
「わたしはかぐや。和尚さんの居候です」
「居候ですか? 去年はあなたはいなかった」
「昨年の九月からお世話になっています」
「そうですか。ああ、申し遅れました。わたしは畜産業を営んでいる彦星というものです」
「ご丁寧にありがとうございます。今、お茶とお菓子を持って来ますわ」
「いや、お気遣いは結構。それより、少し話をしませんか?」
「きちんと接客しないと、和尚さんに怒られますわ。とにかくお茶を」
かぐやは恥ずかしそうに厨へ消えて行きました。その姿を彦星はじっと見つめます。そして独り言をしました。
「今夜は雨になればいいのに」
和尚さんが般若湯を買って帰って来ると、本堂で彦星とかぐやが楽しそうに話をしていました。それを見て、和尚さんはちょっと嫌な予感がしました。しかし、
「彦星に限ってそんなことはないだろう」
とつぶやきました。
「でもなあ……」
和尚さんの心配は続きます。今でこそ、畜産会社のCEOの要職にある彦星ですが、元は一牛飼いの小僧。それが天帝の娘である織姫に手をつけて
「彦星よ、久しいの」
和尚さんがちょっと険しい顔で言いました。
「和尚様、ご無沙汰しております。なんの手土産も持たず、また参上しました」
彦星は丁寧に挨拶します。
「おお、かぐや。ご苦労であった。下がられよ」
和尚さんはかぐやに退席を命じます。
「でも、彦星さんとの話が楽しくて」
かぐやが言います。
「下がられよ」
和尚さんはきつく言います。
「はい……」
かぐやは本堂から出て行きました。かぐやの姿が消えると和尚さんは、
「この不埒もの。織姫という妻がありながら」
と言って、彦星の頭ををグーで殴りました。
「お許しください。ただ……」
「ただなんじゃ?」
「私も男。年に一度きりしか逢えない妻ではなく、いつもそばにいてくれる者がいて欲しいのは確かで」
和尚さんは顔を真っ赤にして怒りました。
「なにを言っておる。元はと言えば、夫婦で仕事もせずに、いちゃいちゃして天帝の怒りを買ってのこの仕儀じゃろうが。それにかぐやを妾になんぞしたら、今度は月の帝が激怒する。天帝軍と月軍が合同でお主を殺しにくるぞ!」
「そんな、大げさな」
「世の中を甘く見るな!」
「は、はい」
彦星は平伏しました。そのときです、遠くの空から雷の音がしてきました。
「雷公、余計な真似を……」
和尚さんは言うと、慌てて筋斗雲タクシーを呼んで、夜空へと飛んで行きました。すると、
「かぐや殿、和尚様は消えられた」
彦星が笑顔でかぐやを呼び寄せました。
「彦殿」
かぐやが走って本堂に現れます。二人はひしと抱き合いました。禁断の恋に燃えるのは人間だけではないようです。外は雷雨です。
一方、和尚さんは雷神の元へたどり着きました。
「雷公、今宵ばかりは雷雨をやめてくだされ」
「なんでじゃ? 定期的に雨をふらさば、人間たちが困ると言ったのは和尚、そちだぞ」
「それはそうですが、今日は特別な日なのです」
「特別な日?」
「年に一度、七夕の晴天の夜だけ、逢うことを許された悲しい夫婦がいるのです」
「なんと、哀れな」
「ですから今日だけは雨を降らさないでくだされ」
「うぬ、分かった。そうしよう」
雷神は太鼓を打ち鳴らすのをやめました。雨は急速に止み、晴れ間が出てきました。
天界が晴れれば地上も晴れます。あらあら、お寺の本堂では彦星とかぐやがまだ、いちゃいちゃしています。ご本尊の不動明王も機嫌を損ねているように見えます。そこにかささぎに先導された織姫がやってきました。彦星とかぐやの二人はそのことに気がつきません。
「彦様、彦様……彦様、何事です!」
織姫の悲鳴が聞こえます。
「お、織姫。あ、雨で来られないのではなかったのか?」
彦星はかなり動揺しています。自業自得です。
「あなたは誰?」
かぐやが織姫に尋ねます。そのことが、織姫の怒りに油を注ぎました。
「あなたこそ、誰よ。あたくしの主人を寝取ろうと言うの?」
「主人? あなた方、夫婦なの?」
かぐやが問いただします。
「あー、えーと、その、私たちは夫婦であって夫婦でないような……」
彦星はしどろもどろになります。
「夫婦です」
織姫はきっぱりと言いました。
「どう言うこと?」
かぐやは彦星を睨みつけます。
「あたくしこそ、どう言うことか聞きたいわ」
織姫も詰め寄ります。そこに和尚さんが帰ってきました。
「織姫、きたか。かぐや、なんでお主がここにおる……彦星! お主に倫理観はないのか!」
和尚さんの怒りは凄まじく、さながらご本尊の不動明王のようです。
「彦星! お前のようなものは今後、出入り禁止じゃ。織姫ともかぐやとも会うことならじ。早々に出て行け!」
和尚さんは持っていた錫杖を彦星に突きつけました。
「ご、ご勘弁を」
彦星は這う這うの体で逃げ出しました。
「織姫よ。わしの監督不行き届きじゃ。許されよ」
「いいえ、和尚さんが悪いんじゃありません。全てはこの娘にうつつを抜かした、彦星が悪いんですわ。早々に離婚届を提出します」
「そうか……かぐやはまだ子供じゃ。勘弁してくれ」
「分かりました」
そう言うと織姫はかささぎに先導されて帰って行きました。
この時から、七夕は短冊に願いを書いて竹の枝に吊るす風習だけが残り、織姫彦星伝説は人々から忘れ去られてしまいました。
「それにしても……」
和尚さんは思います。傾国の美女、かぐや。これを寺に置いておいていいものなのだろうか。早々によきところへ嫁がせた方がいいのではないかと。
かぐやはこの事件のことなど忘れたように、今日もデザイナーズチェアを一生懸命作っています。それだけに和尚さんの悩みも深まるのでした。
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