9月

 お向かいの田村さんに、1日だけ犬を預かってほしいと言われた。

 いいですよー1日くらいなら全然、と安請け合いすると、田村さんは大いに喜んで、バック転を続けざまに十回もする。

「はい、これが犬です」

 田村さんが連れてきたのは手乗りサイズのオオカミだった。

 かわいいですねー名前はなんていうんですかーと気軽に尋ねると、「だから、犬は犬です」とにべもない。

「いいですか? 散歩に行く時は、絶対にリードを放してはいけません。迷子になってしまいますから、絶対に放してはいけませんよ」

 何度も念を押してくる田村さんに、ええわかりました絶対に放しませんと神妙にうなずく。

 田村さんは私の返事に納得したのか、またバック転を10回もして、どこかへ行ってしまった。

 犬と取り残されてしまった私は、なにやら急に不安になってきて、しきりに「犬」「犬」と呼んでみる。犬は呼ばれるたびお愛想でしっぽをぱたっと動かした。


 とりあえず、いつものように家事をすることにする。

 洗濯物を入れて洗濯機をまわし、食後にそのままだった食器を洗い、部屋の1つ1つに掃除機をかけて雑巾で拭いていく。

 犬は私の後について回り、入れた洗濯物を引っ張り出して洗濯機の中に入り込んだり、洗った食器を落として割ったり、掃除機の上に乗っかってまどろんでみたり、雑巾がけをしたところにどこからか持ってきた牛乳をぶちまけてみたりした。

 いつもの倍以上の時間をかけて家事をして、ようやく洗濯物を干し終える頃には、犬の散歩の時間になっている。

 犬に「散歩、行く?」と声をかけると、お愛想ではなく本当に嬉しそうにしっぽをぐるんぐるんと回した。


 リードを持つと、途端に犬はすさまじい勢いで歩き出した。

 私はリードにしがみつき、必死になって犬についていく。これでは犬の散歩を私がしているのか、犬に私が散歩させられているのか、わかったものじゃない。

 犬は迷いなくずんずん進んで行くけれど、私はすでにここが何処なのか見失っていた。家からまだそんなに離れていないはずなのに、辺りの景色は見覚えのないものばかりなのだ。

 険しい山道を進んでいたかと思うと(この付近に山なんてあっただろうか?)、潮の香りがしてきて、小波の音を聞きながら海辺を歩いていたりする(海だってこんな近所にはなかったはずだ)。

 砂浜に足を取られないよう注意していると、いきなりエスカレーターの上に立っていて、運ばれるまま犬も私も歩みを止めていたりした。

 薄暗い裏道で覆面をした人に「金を出せっ!」と脅され、犬の凶暴な唸り声のおかげで助かったり、湖で美しい女の人に呼び止められて「これはあなたの落し物ですね?」と、三年も前になくしてしまっていた懐中時計を返してもらったり。

 

 私は不安になって、おろおろとすがるように犬のことを見る。ここが一体何処なのかもわからないし、今まで経験したこともないことばかりなのだ。どうしていいのか、全くわからない。

 犬は慣れたもので、平然と堂々と歩いている。「犬」と呼びかけてみると、自信たっぷりな様子でしっぽをぱたっと動かした。それを見てもまだ不安でたまらず、「犬、大丈夫?」と尋ねてみる。

 すると犬は立ち止まって私を振り返り、力強くしっぽをぱたぱたと動かした。

 それを見て、私はようやく安心する。

 リードをしっかりと握り直すと、すさまじい勢いで歩いていく犬に何もかも任せてついていく。


 家に帰り着く頃にはすっかり日も落ちていた。

 干しっぱなしになっていた洗濯物を急いでとりこんでいると、お向かいの田村さんが犬を引き取りにやってくる。

「リードは放さなかったですね?」

 開口一番の田村さんの問に、私は、はい放しませんでしたと答え、犬の散歩のおかげで三年も前になくしてしまった懐中時計が戻ってきたと報告をした。

 田村さんは、それはよかった、いや、犬の世話をありがとう、助かりましたと早口で言うと、飛び込み前転と開脚前転を交互に繰り返しながら、犬を連れて帰っていった。

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