坂川の小豆研ぎ
中嶋條治
第1話
これは私が五歳の時に体験した話である。
その年の十一月、千葉県松戸市の松戸神社へ七五三詣でをした。
松戸神社はJR松戸駅から伊勢丹の方向へ歩き、裏に流れる坂川の川沿いの道を行った所にある。私の家の近所には川が無いから、神社のそばを流れる坂川に、五歳の私は興味津々だった。
着せられていた袴は窮屈だし、今から始まる七五三詣でも退屈なものだと雰囲気で悟っていた私は、憂鬱な気分をほんの一瞬忘れることが出来た。肌寒くはあったが、できればこの川に入って思い切り遊びたいという気持ちになる。魚はいるのか、ザリガニや亀はいるのか……そんなことを考えていると、七五三の事など非常にどうでもよい事のように思えた。
神社での祈祷が済むと記念撮影になった。家族が私を中心にして並び、父愛用のニコンに向かって笑顔を向ける。私は早く川を見たかったので、どうしても笑顔になれない。
漸く撮影が終わると、私は母に詰め寄った。
「ねぇ、川を見てもいいでしょ?」
母は少し困った顔をしながらも、許してくれた。
母は埼玉の飯能で幼少期を過ごした。今思えば川遊びを殆どしたことのない私に同情したのかもしれない。
「袴を着てるんだから、汚さないでね!」
喜び勇んで河原へ向かう私の背中に、母の声がむなしく当たった。
私は階段を下りて川の砂利道に立つと、履き慣れない履物と大小様々な石のせいで転びそうになるのを堪え、その場にしゃがみ込み、川の中を眺めていた。
何匹かの魚が泳いでいる。黒い鯉のようだったが、正確な種類などは解る筈もなかった。その時――。
――しょき、しょき、しょき
「!」
私はバッと音が聞こえた方角に振り向いた。しかし、何も無い。
あるのは私の膝丈くらいの雑草程度である。
草が風にそよいだ音? それとは違うようだ。どちらかと言うと、砂か何かを研いだような……米を研ぐ音とも違う気がした。あれよりもう少し粒が大きそうな、言ってみれば豆程の大きさの物を研いだ音のように聞こえた。
そう思った瞬間、私は生まれて初めて背筋に悪寒が走る経験をした。
小豆研ぎと言う妖怪の事を思い出したのである。
河原や水辺に居ると、どこからともなく「しょき、しょき、しょき」と言うような、小豆を研ぐ音が聞こえてくる。それは小豆研ぎが小豆を河原で洗っている音で、
「小豆研ぎやしょか。人とって食いやしょか」
と言いながら、人間を川に引きずり込んで殺す妖怪である。
水木しげるや妖怪の本を幼稚園や家で読んで聞かせてもらっていた私は、そうした妖怪の話は大好きであった。
だからこそ、この時私は、この川の近くに、目には見えないが妖怪・小豆研ぎが、私の命を虎視眈々と狙っているのだと信じこんでしまっていた。
声を上げようとしたが、口からは息しか漏れなかった。恐怖心から声を出なかったせいもあったが、一番の理由は、声を挙げたら、それを切欠に小豆研ぎが自分を川底に引きずり込むのではないか。そう無意識に思っていたのかもしれない。
体は、金縛りにあったように動けない。気温の低さもあり、自分の身体が凍りついたかのように感じられた。
――駄目だ、とにかく逃げなきゃ。
動かせるのは眼球のみである。視界の中に、小豆洗いはおろか、動くものは見当たらない。
ゆっくり、足を動かそう。そう思い、私は少しずつ足を上げて、後退しようと試みた。
しかし、足を着けた瞬間、そこに運悪く大きめの石が転がっていた。ただでさえ身体が硬くなっていた私は、当然の如くバランスを崩す。
「あっ」
次の瞬間、私は川の中にいた。
水が口、鼻、耳から入ってくる。氷水のように冷たい水が、全身の皮膚に襲い掛かる。泳ぎも碌にできない私は、それでも一生懸命もがいたが、水を吸った袴が鉛のように重くなり、腕も碌に動かせなかった。足だけは何とかバシャバシャと動かせていたので、水しぶきの音が耳にくぐもった状態で響いていた。
結局、あの後私は迎えに来た母に助けられた。車に乗る時間だと言いに来たら私が川に落ちていたので、心臓が縮み上がったのだという。しかし、母が助けに来なくとも、実は私は助かっていた。と言うのも、坂川の、しかも私が落ちた場所はかなり浅く、父母に持ち上げられたとき、水位は私の膝までしか無かったのである。
今、私は十八年ぶりに、この坂川に来ている。今年で十五回目になる灯篭祭りが催されており、夜の坂川にオレンジ色の灯篭がいくつも夜の闇に浮かび上がっている。
大人になった今、この坂川は小川みたいなもので、溺れたくても溺れる事ができない。昼間は子供が水遊びをするくらい安全な川である。
あの時、私の耳には確かに「しょきしょき」という音が聞こえていたが、あの音の正体は、遂にわからなかった。確かめようにも、あの事件のトラウマがあるこの川には再び来ることが出来ずにいた。それこそ、十八年もの歳月が私には必要だった。
小豆研ぎにしろ河童にしろ、水辺の妖怪は凶悪な性質の妖怪が多いように思う。私の想像ではあるが、水辺とはそれ程恐ろしいものだったのではないだろうか、と言う事だ。現代のような医療施設やレスキュー隊も無い時代、水難事故は死に直結するものであったはずだ。だからこそ、水辺の妖怪が生まれていったのではないか……普段は勿論、夕方や雨の降った後に、不用意に川に近づくなというような、そうした戒めが、妖怪の伝承には込められているのではないか。そういう風に思うようになった。
――しょき、しょき、しょき
「!」
私の耳に、祭りの喧騒の中、ほんの微かではあるが、あの時聞いた音が聞こえてきた。
周囲の人混みを私は見渡す。誰もそのような些細な音など聞こえていないのか、祭りの屋台や灯篭に目をやる人ばかりだ。
「幻聴……?」
私はため息を漏らした。妖怪など居やしない。変なことは考えないで、もう帰ろう。
私は踵を返し、松戸駅の方へ戻ろうとした。
「きゃーっ!」
今度は女性の叫び声が、はっきり私の耳に飛び込んできた。周囲でも今の悲鳴は何だという声が上がる。
「おい、子供が川に落ちたぞ!」
だれかのその言葉に、周囲は一気にどよめいた。
「河原まで下りて足を滑らせたみたいだ」という声も聞こえてくる。灯篭の見物客はこぞって現場に走っていく。
私は立ちつくし、チラ、と、灯篭の浮かぶ水面に視線を落とした。昼間は川底も見えるくらいの浅さなのに、今は真っ暗で、底が無くなっているかのように思われた。
街中でも、「闇」は至る所に存在している。幾ら夜が明るくなろうが、闇が無くなることはない。
坂川の水面は、静かにそれを伝えていた。
――しょき、しょき、しょき……
今度ははっきりと、私の耳にあの音が飛び込んできた。
終わり
坂川の小豆研ぎ 中嶋條治 @nakax-7
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