第617話 再び迷宮の中へ
一旦ベリトに跳んだ俺たちの目の前に現れたのは、想像を絶するほどの混乱だった。
人々は家財道具を持ち出し、我先に街から逃げ出そうとしている。
それもそのはずで、街の中央に
支える……そう、世界樹はまるで今にも倒れんばかりに侵蝕されていた。
幹の三分の一ほどが黒く染まり、ベキベキと音を立てて破片が街に降り注いでいる。
これはまるで、倒壊する寸前というありさまだった。
「こんな……世界樹が倒れたりしたら……」
その光景を見て、コルティナが真っ青な顔でそう呟く。
そうか、クファルが言っていたベリトが消えるという罠。その結果がこれというわけだ。
世界樹が倒れれば、その足元に広がるベリトの街は、木端微塵に押し潰されることだろう。
もちろんそこを拠点にする世界樹教は壊滅するだろうし、そこに住む者たちも生き延びることはできない。
さらに世界樹の中に住むモンスターたちがこの世に解き放たれ、世界は混乱の渦に呑まれる。
とどめはそれほどの質量が倒れ込むことによって巻き上がる粉塵の量。
おそらくは数日はこの世界を覆い、太陽の光を遮ることになる。
「……世界樹にこんなことができるなんて、クファルの奴、どれほどの力をここで得たというの?」
「世界樹の中はこの世界最大の神秘だからな。そういうこともできるかもしれない」
「止めないと! レイド様、どこに行けばいいんです?」
「クファルは六百層に罠を仕掛けたといっていた。そこまでいかないと」
「六百層って……無理に決まってるじゃない!」
この階層の大きさを正確に知っているわけではないが、一階層当たりの大きさから推測して、現在の世界樹は七百層程度の大きさがあるといわれている。
下から六百層を登るとなると、何か月もかかってしまう大きさだ。
だからと言って、空を飛んで一番上の七百層から入っても、そこを徘徊するモンスターは強敵揃いだ。
そこを百層降りるとなると、俺やコルティナでは力が足りない。
「だけど、俺って前に六百層に行ったことがあるんだよなぁ」
「……ハ?」
そう、かつてアスト……ハスタール神と手甲の素材を集めに訪れた。
外装の素材を得るためにジャガーノートという強敵と戦った場所、それが六百層だった。結果的に使わなかったが。
「ホント、偶然なんだけどな。そういうわけで内部に転移することができる」
「世界樹って内部に転移できないんじゃなかったっけ?」
「ああ、ハスタ――いや、アストの転移魔法なら跳べるらしいんだ」
「いないじゃん!」
「見て覚えたよ。俺も魔法使えるしな」
アストの転移魔法にマクスウェルがやたら興味津々だったおかげで、俺もあの魔法は覚えてしまっていた。
それを使えば、六百層まで転移することができるはずだ。転移先の標的となる魔法陣は、アストがすでに用意してあるものを流用すればいい。
「とにかく、この街の混乱は早く鎮めないと。そのためには世界樹の異常を戻す必要がある」
「そうね。このままじゃ、いつ暴動が起きてもおかしくないわ」
「特にこの街は不満を抱え続けてきましたし、またその矛先が半魔人たちに向く前に、解決する必要がありますね」
「フィニアちゃんも度胸が据わってきたわねぇ」
冷静に状況を分析するフィニアに、コルティナは呆れた様な声を上げる。
コルティナと一緒にいた頃のフィニアなら、ここで意見を述べることなくおろおろとうろたえるばかりだったはずだ。
ここで積極的に意見を言えるほど、彼女も場数をこなしてきたということだ。
「世界樹の迷宮は幹の太さがその階層の広さになる。上に行くほど細くなるから六百層の広さはそれほどでもない。でも敵の強さは段違いだから、二人とも――」
「『ここで待っていろ』なんて言わないわよね?」
「うぐっ……に、逃げろとかまだ言っていないし」
「そんな言い訳通用するわけないでしょ。いいから私たちも連れて行きなさい」
「なに自然にフィニアの意見まで代弁してるんだよ」
「え? もちろん私も行きますよ?」
「デスヨネー……」
だがフィニアの言う通り、民衆は今は自分の安全のために逃亡しようとしているが、いつストレスのはけ口が半魔人たちに向かうかはわからない。
アシェラも行動を起こしていると思うが、こちらも早く対処した方がいいだろう。
俺は溜息一つ吐いてから、二人の手を取り転移魔法を発動させた。
迷宮内は相変わらず暗闇に包まれていた。その闇の中で即座にコルティナが魔法を発動させる。
「
「コルティナ様、魔法なら私が――」
「フィニアちゃんは私よりも魔法のバリエーションが多いからね。いざという時のニコルちゃ……レイドのサポート、任せるわね」
「え、あ、はい」
コルティナも汎用性の高い魔法の使い手だが、そのレベルはフィニアほど高くはない。
彼女が明かりの魔法を維持してくれていれば、フィニアは自在に魔法を使うことができる。
最近俺と組んでいたフィニアの方をサポートに置く判断を、コルティナはしていた。
それと俺の呼び方が一瞬ニコルに戻ったのは、この場に来て少し落ち着きを取り戻して安心したということだろうか?
「静か……ね?」
「ああ、以前来たときはジャガーノートがすぐ襲い掛かってきたんだけどな」
「ジャガーノート? あの神話の英雄を模したアンデッドね」
「ああ。あの時はマクスウェルも一緒だったんだ」
「あのジジィ、私に黙ってあんたと遊び歩いていたのね……」
「あまり責めてやるな。俺が巻き込んだことだし」
「そりゃ、わかってるけど」
カツカツと歩を進めながら、コルティナは頬を膨らませる。その姿は二十代、いや十代の少女と大して変わらない。
一瞬、その肩を抱き寄せたい衝動に駆られたが、しかし今はそれどころではない。クファルの仕掛けた罠を解除せねば、ベリトの混乱は収まらないだろう。
「しかし、本当に静か――」
「あー、もう! また再生しやがりやがったですよ!」
「――じゃなかったな。こっちか」
静寂を引き裂くような、甲高い声が聞こえてきた。
この声には聞き覚えがある。お馴染みの白い神――破戒神ユーリの物だった。
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