第176話 エリオットの失恋
廊下の角を曲がって姿を消したエリオットを見送り、俺は理事長室のドアをノックした。
中にマクスウェルがいる事はわかっているし、いつもなら問答無用で乱入するのだが、あの爺さんも口論の後では気が立っているだろう。そう判断してマナーを守ったに過ぎない。
するとノックに反応して、中から疲れたような声が返ってきた。
「誰じゃ?」
「わたし。ニコル」
廊下では誰が聞いているかわからないので、一応女言葉で返事をする。
それを聞いて、マクスウェルは明らかに明るくなった返事を返してきた。
「ニコル? ちょうどいい所に来たわぃ。ほれ、さっさと入れ」
「ちょうどいい?」
俺は首を傾げて疑問符を浮かべる。その拍子にカッちゃんがずり落ちそうになったが、この際気にしない。
とにかく中に入れと言ってくれているのだから、とっとと密談の場に篭るとしよう。
俺がドアを開けると、頭を抱えたマクスウェルが出迎えてくれた。
机の上にはひっくり返ったカップが一つ。おそらくエリオットに振舞った物だろう。
「何があったんだ、爺さん。エリオットの奴、珍しく本気で怒ってたぞ?」
「お主の尻拭いじゃよ。まさかあそこまで怒るとは思わなんだわ。薬が効き過ぎたようじゃな」
「俺の尻拭い?」
疑問符を返しながら、俺は机の前にあった椅子に腰かける。おそらくは、エリオットが先ほどまで座っていた椅子だ。
それに併せてマクスウェルは、背後のカーテンを引いた。
俺が来た事で、外から見えていると察したのだろう。
「そうじゃよ。お主が先日やった事を思い出してみぃ」
「誘拐犯をぶちのめした」
「実に端的じゃな。では法的な側面からはどうじゃ?」
そこまで言われ、俺は顎に手を当てて考えてみる。
あそこは言わば外交官の屋敷で、変装した俺は正体不明の小娘。そこへ乗り込み、合計六名を惨殺し、外交官でもあるタルカシール伯爵の腕を縛り上げ、引き摺り倒し、踏みつけた。
「うん、ひょっとして俺ヤバイ?」
「お主がやった事は間違いじゃない。ワシも後見についていた事だしな。じゃが法的には問題ありまくりじゃ」
マクスウェルが直々に乗り込んだのならば、まだ問題は少なかっただろう。
しかし乗り込んだのは正体不明の娘で、しかも姿を隠している。攫われたエリオット本人の証言もあるから、犯罪者として追われる事は無いだろうが……確かに危ない。
「その辺が問題になっておってな。ワシとしても、それを利用させてもらったのじゃ」
「利用?」
「お主の処遇じゃよ。いつまでもあの姿でこの街にいる訳には行くまい?」
「ああ、それか」
あの姿でこの街に出没すれば、それはエリオットの思慕を引き摺らせる事になってしまう。
適当なところで退場せねばならない存在なのは、間違いない。
「なのでハウメアはワシが雇った密偵の一人という事にして、今回の件の責任を負わせる事にした」
「責任ってなんの?」
「不審人物の調査。それに伴う犯罪の抑止。それを防げなかった事で国外追放処分」
「はぁ!?」
国外追放と言われ、俺は驚愕したが……よく考えてみれば、あの姿――ハウメアという女性は幻影の存在だ。
追放処分を食らっても、特に問題はない。
「それがエリオットには気に食わなかったようでな。珍しく食って掛かられたわ」
「そりゃそうだろうよ」
エリオットから見れば、命の恩人で想い人の女性を国外に放り出された事になる。怒り狂って当然だ。
だがマクスウェルから見れば、幻影の当事者に責任を取らせた事で、何のダメージを負う事なく危険人物を処理できた。
そしてハウメアという幻を、都合よく斬り捨てる事ができたという事になる。
これでしばらくはエリオットはハウメアという幻影を追い、俺は晴れて自由の身。
「まあ、エリオットは可哀想ではあるが、万事めでたしってところじゃねぇの?」
「お主は気楽に言ってくれるが、エリオットの奴に矛先を向けられるのはワシじゃぞ……自業自得ではあるがの」
「自覚あるなら受け入れな」
「元はと言えば誰のせいじゃよ?」
俺に矛先が向いたので、視線を逸らせて誤魔化しておく。
マクスウェルには悪いが、今回の一件でエリオットの恋心が他所に向いてくれたのは大きい。
ひょっとしたらライエル辺りは同意してくれるかもしれない。
「これでハウメアが消えれば、エリオットはしばらく片思いのままになり、俺への興味は薄れる」
「そして初恋の傷が癒える頃には、お主はこの学院を去るという訳じゃな」
「ああ、完璧じゃねぇか」
「それまでにお主が
「ぐっ、それは
「ギフト持ちとて、精進せねば習得は捗らんぞ?」
「……がんばるよ」
藪をつついて蛇を出した心境で、俺はマクスウェルの諌言に頷いておいた。
実際、この三年で俺の魔術の腕は格段に進歩している。まだ中級の下ではあるが、その熟練度は確実に子供の域を脱しつつあった。
このままいけば初等部の残り三年、その上の高等部に進学して三年もすれば、きっと習得できるだろう。
高等部になれば、学院の地下図書館も利用できるようになり、魔術の腕前は飛躍的に上昇するはずなのだから。
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