【七月の新芽】――七月 不黒

@bungei6kari9

【死と眼】

【死と眼】


『あなたは死んだ動物と目を合わせたことがある――?』


 若気の至りとは実に良い言葉だ。大体の事がそれで収まる。そう、だからアレだって若気の至りで、私をそこに連れて行った人間にとっては至りどころか日常に近い出来事だった。

 けれどその出来事について語る前に私という人間についての情報を提示しておきたい。

 たぶん、私は好奇心が旺盛な人間だ。たぶんと付けているのは他人もそうなのかわからないことに関してだから。私は基本的に動物が好きだ。だから人の手によって動物が殺されたり、甚振られたり、または事故であっても街で動物が死んでいる姿を見るととても辛い気持ちになる。けれどまた勇気のある人間ではない。ないので、その遺体をどこかの小説か映画のワンシーンの様に助けることをしたことはない。この話に必要な私という存在について必要な情報はこれくらいだろう。


 ときに、人の命運は様々で幾度となく人の死に目に出会う人と生涯そんなこととは縁のない人間がいるという。その中間が一番多いと私は思うわけだが、自分自身は人間の遺体というものは殆どみたこともなく、記憶にも残っていない。自分の身内だったというのに、非情だと感じるだろうか。

 逆に生き物の死体についてはよく覚えている。印象的だったのは三車線道路を転がされ回っていた猫の死体。確か大きく太めの明るい茶トラの猫だった。血というものは殆どどこにも見られなかったからきっと長い間引きずられて来たものだったのかもしれない。太もも辺りの毛と皮膚がすっかりと削げて、太ももを中心とした筋肉と筋がしっかりと見えていた。まあ古い記憶だから美化されているのかもしれないが、あれは本当に偶然できたものだったのか疑いたくなる程の筋肉の玉が道路上に転がっていて、驚き、心臓を鷲掴みにされたものだ。

 カラスが集まる場所には死体があるなんて話も多くきくが、私の経験上から語れば、さして死体にカラスが群がっているところは観たことがない。それよりも家庭ごみや人が撒くパンくずの方が美味しいらしい。なんとも現代的な話じゃないか。だからこそなのか、カラスが何かの死体を食べてる姿は三度程しか観たことがない。小学生のときに子猫が食べられている姿はショッキングだったが、丁度2月22日で猫の日だったのでそんな命運もあるのかもしれないと私は小さな肉片を取り合う二、三羽のカラスを眺めたものだ。でも食べれる部分は少なかった様だし、カラスというものは内臓系は食べないのか、何とも人が食べて美味しいと感じるようなところだけを食べて去って行った。もちろん小学生の私がその子猫の遺体を処理するはずもなく、子猫の死体よりも飛び去ったカラス達を太陽を見る様に見送った。

 確かその次の年も2月22日に猫の死体を目撃したけれど、面白みも何もなかったので薄ぼんやりと「あぁ、轢かれたのか」というくらいにしか思わず、記憶を掘り返すととある人物への嫌味という訳ではないが、私は学生時代の2月22日には猫の死体と縁があったのだ。中学のときだってそうだ。数日前からちょっとした異臭がしていた。日頃の登下校は常識的な友人としていたので、敢えて口にすることもなく三日程が経っただろうか。異臭はさらに増していたが公園の側溝ということもあり、近隣の住民も放置していたのだろう。その日の朝、その側溝を小学生達が覗き込んで騒いでいたのをよく覚えている。だから、自分の予想が当っていたんだとも思った。きっと一週間くらい熟成されているのだろうとその姿を想像して口元が緩み、友人に肘で小突かれたことも忘れてはいない。

 逆に猫の日なんて覚えやすい日だからこそ、こうして今でも記憶しているのだろう。そのいつも登下校をしている友人がその日に限っては一緒に帰れず、他に帰るような友達がいなかった私は独りで帰路につき、名案を思い付いた様にあの側溝に向かった。まあでも業者も動くときは早いもので、今朝の小学生達が先生にでも言ったのだろう。残念ながらというべきか、そこに猫の遺体はもうなかった。ある意味でこうなると本当にそこにあったのが猫だったのかもわからない話だが、私は猫だったと思っている。何かが溶けていっていた様な跡と数匹の蛆虫が残された汁を這いまわっていた。と言えればよかったのだが、ほんの少しの異臭を残してそこには何もなかった。


 唐突に猫の死体の話ばかりしてしまったが、つまりは人の死は殆ど記憶していないのに、動物の死はこうして妙に記憶しているのだ。語りを続けても構わないというのならば、鳥の死体についても語れるが、やめておこうと思う。もうすでにこれはあまり本題からは関係がないのだから。

 でも、本題に関係のある話をするのにも結局は猫の遺体の話が持ち上がる。


 私が高校生になる頃にはインターネットは爆発的に普及していたので、インターネットで見られないものなんてないくらいだった。ここまでの話で察している人も多いだろうが、私は死体というものに妙な好奇心を抱いてしまうのだ。言い訳がましくいわせて貰えば、別に死体に興味がある訳じゃなく、その生き物の構造や死因、あるいは死そのものに興味があるだけで、死体愛好家というわけじゃない。決して。それは自分で断言できる。だから私はグロい映画なんかは観れないし、映画の拷問シーンの様な痛々しい場面では目を背けてしまう。だが、文書や知識として拷問についての情報を取り入れるのはどこか矛盾している気もするけれど、そのくらいの矛盾は誰だってあるのではないだろうか。恐いもの見たさという言葉で流しておこう。まあ、つまりはわざわざ私はインターネットで死体の画像を漁ってニヤつく様な趣味はなく、むしろ友達にそういったものを見せられて吐きかけたくらいだ。

 一時期流行っていたハッピーツリーなんとかというファンシーキャラがグロいことをしていくファンシーなアニメを見せられて、授業を早退したくらい、痛々しい行為というものに対しては拒絶反応を示してしまう。

 だからこそ、道端に落ちている鳥の死体を様々な角度から写真を撮って観察している私を周りは狂気だと呼んでいたのかもしれないが、鳥は日常的に食すものなのだからそんなに抵抗する話でもないと考える。逆をいえば、猫の死体の写真は一枚も撮ったことはない。むしろ成長するにつれて猫の死体を直視することは苦手になっていた。


 そしてこの記憶が曖昧なのは、その現実を未だに受け入れがたいからなのかもしれない。東北大震災が起こる前だったというのは記憶している。でも地デジ化が完全に終了していたのかは覚えていない。ただ高校は卒業していた気がする。あと、その猫はまだ11歳だったような気がする。そういう風に計算すると2000年の四月に飼い始めた猫だったはずだから……いやどうにもやはり時系列が狂っている。兎に角、その辺りの時期に飼い猫が死んだのだ。

 家の中で飼い猫が死ぬのは初めてのことで、死ぬ一年ほど前からすでにいつ死ぬのかという様に目に見えて病気を患っていた。日毎に弱っていく姿は直視できたものではなかったが、それが生き物を飼うことなのだと同時に思い知らされた。

 プライドの高い猫で、幾度となく怪我を負わされ、マンションの五階から転落しても生還するようなやつで、兄弟同然だった。でも所詮は猫、種族が違う。言葉も通じない。できることなど何もない。それをもどかしいと思う以上に昔ながらの動物の死の流儀に乗っ取って家から出ていってしらないところで死んでくれないかと心から願っていた記憶がある。

 でもその猫は家で死んだ。私が丁度風邪で寝込んでいるときだった。昔、買っていたインコが死んだときも私が風邪で寝込んでいる時だった。少し暖かくなっていた気がするが、暖房の傍に寝かされていたはずだ。

 偶々休みだった父と珍しく家にいた母親、寝込んでいた私。最初にそれに気が付いたのは父だった。その猫の傍で一緒に寝ていて目が覚めたら死んでいたそうだ。私は母に起こされ、遺体の前に行った。父はもう部屋にはいなくて、母は「保健所に電話しなきゃ」と部屋を出て行った。

 そのプライドの高さからなのか、それとも苦しみからだったのか、彼女は目を見開いたまま死んでいた……凛々しく大地に立つように手足を伸ばして。

 ある意味では初めて直面した死だったかもしれない。部屋に独りにされ、私はどうすればいいか悩んだ。その末に、目を閉ざそうと試みた。映画等では定番だったからだ、私はそれが弔いになるのだと思っていた。けれど、死んでから三十分近くが経過した遺体はすでに死後硬直が始まっていて、まぶたを閉じさせることはできず、でも暖房のせいで体は温かかった。だからどこか死んでいる様な感覚は起こらず、もう一度もそもそと起き上がってくるような気がした。でも手足は固まったままだし、関節の一つも動かない、頭を持ち上げてみると生き物にはない重みと硬さがする。

 そうしているうちに次第に悲しみ以上のものが湧き上がってきた。


『バラしたい』


 触れる部分は全部触ってみた。内臓が入っているであろう腹周りを押したり、口をこじ開けてみようとしたり、耳やひげを引っ張ったり、何をしても動かなくなったプライドの高かった飼い猫の様々部分を触診した。でもどこも硬くて、血が出ることがなくて、あぁ、でも肉球だけはやわらかかったのを覚えている。

 だから、私は考えてしまったのだ。この首元辺りに包丁を突き立てて腹を掻っ捌いたらどうなるのだろうか。この猫の中には何が詰まっているのだろうか。本当に心臓は止まっているのか、猫の心臓はどんな形をしているのか。皮を剥いでおいておくことはできないか。目玉をこのまま押しつぶしたらどうなるのだろうか。耳を切り落としたら、尻尾を切断したら、目の前のストーブで焼いたら……尽きることのない湧き上がる好奇心に今にも狂気の笑いを起こしそうだった。

 けれど、母が部屋に入ってきた。段ボールを一つ持って。

「明日の昼に取りに来てくれるって。1820円」

 母はやれやれというように、ある意味では機械的に猫が寝ていた毛布ごと箱に詰めた。首輪をどちらがはずしたのかは記憶にない。私はどこか遊ぼうとしていた玩具を取られた感覚と空っぽになった猫ベッドを見下ろしてそこには初めから何もなかったのではないかと考え始めていた様に感じる。


 翌日の昼にどこの業者かもわからない人がやってきて、お金と玄関横においておいた遺体の入った段ボールを回収していった。本当に宅配かゴミを回収するように。

 あの虚しさは忘れることができない。決して泣きはしなかった。でも、命はなんて軽くて安いんだろうと思った。そりゃあ動物虐待が無くなるわけはないなと思った。二千円未満でどんな死に方をしたかも確認されることなく、たぶんあのまま焼却施設辺りで他のゴミと一緒に燃やされたんだろう。

 だからといって、人間の命さえ軽視する我が家の人間が動物を人間の様に手厚く処分するわけもなく、手渡すときのゴトリとしたあの荷重の変わり方が我が家で10年以上も生活を共にした生き物の最後であり全てだったんだと少しの間玄関を閉められずにいた。

 葬儀場の人間は人の死が日常となり、ただの仕事になるという話をきいたことはあったし、毎日色んな人の悲しみを共に悲しんでいたらそれこそ仕事にならない、だからきっとあのどこの業者かもわからない人も似たようなものなんだ。自分にそう言い聞かせると、やっとどこかやるせない気持ちが空の中に溶けて行った気がする。でも同時に自分の内側から『残念だったね』という声が聴こえだした。まあ、それはいつものことで、私はその声に蓋をして、一般人の顔を被り直す。いや、一般人というよりも親に合わせる為の顔と表現する方が正しいだろうか。

 多少は悲しみつつ、けれど仕方がないことだという顔。でも、内心はあの最後までどこかを真っ直ぐに見続けていた顔が今でも、そうこの文章を打っている今現在でも忘れることができず、一種、あの目で自分の中の様々な感情に蓋がなされている気がしている。

 本当の気持ち。大きく分けて二つ。大きなものを簡単に失った悲しみ、でもそれを受け入れることができない弱さと折角のチャンスを逃して好奇心をみたすことができなかった狂気。

 そこに他にも色々な感情が絡み付いていることは理解している。けれど、大きく分ければそんな感じになると思う。だって、こないだもそうだったから。


 若者というのは何故か夜に行動したくなるものである。そして野生動物も夜に動き出す。だから相性が悪いのだ。

 都会育ちの私は野生動物なんて猫と鳥くらいしか見たことがなかった。でも田舎の人間にとってはなんだって飛び出してくるという。だから、友人の友人は日常の様に鹿を撥ね殺した。そこには罪悪感や恐怖感は一切感じられなく、車庫入れの時にバンパーを少し擦ってしまったのと同じようなやりとりだった。

 目の前に倒れる死体に対して興味を示す人間の方が少なく、ただ、その場にいた女子はさすがに怯えの色が見えるくらいだ。


 私はまただと思った。また、目を見開いたまま死んでいると。

 ある意味で突然死すると人間も同じなのかもしれないが、今まで見てきた死体の九割は目を見開いて死んでいた。まるで必死に呼吸でもしようとしているかのように。


 その死体を前に私は考える。昔の自分とは違うし、全く見知らぬ状態で出来上がった死体でもない。だから、今度はちゃんと弔えるはずだと。

 死んだ瞬間を見ていたわけじゃない。でもそのことが起きて五分も経っていないはず。それにまだ馬鹿みたいに暑い八月のことだったのに、触れた死体はどこをさわっても氷の様に冷たくて、自分の家の猫が死んだときの様に固くなっていた。

 正直驚いた。驚きつつ、気にもなった。今、腹をさばいて手を突っ込んだら温かいのかと。とても興味深く思った。好奇心だった。鹿は地域によっては食べる。だからさばく行為をしてもそんなに非難はされないのではないか、再びめぐってきたチャンスだ。

 だから、ナイフを探した。でも、私をそこへ呼んだ人間は私に小さなものでも刃物を持たすことを許してくれる人間ではなかったし、自身も刃物は持ち歩かない人間だった。死体の冷たい腹部に手を置きながらとても悔し気分だ。道路に流れ出した血を指でなぞり、その量の少なさにどこか現実味を感じた。

 そんなことを考えているうちに、周囲の気配、いや、落差というものだろうか、それがヒシヒシと肌を伝わって私に警告を始める。あの死臭を感じて笑みを浮かべ友人に小突かれたときの様な、いや、それ以上だろう。周りの女子達の私に対する怯えた眼差し。

 私は手早く、まるで優しさを示す様に遺体を道の傍に置き手を合わせて見せ、少し悲しい表情で「驚きましたね」と苦笑した。その言葉と同時に、いや、単純に道を塞ぐものが無くなったからだろう。時間が動き出す。きっと、あの時止まったままだったのは自分の中の感覚だけ。


 昔、親友と呼び合った人間に言われたことがある。

「お前は死に近付くべきじゃない」と。

 未だにお前がその場にいたのなら「その通りだな」と返事を返しているよ。猫の目が忘れられない様に、私の右手からは未だに死体の冷たさが抜けないのだから。


 弔いなんて全くできていない。私に弔いはできないのだろう。だから好奇心で死体に死に近付いてはいけない。それを理解してないわけじゃないよ。それでも好奇心に勝てないのだ。もっと自分の中に死を蓄積しろと。


 その帰路に私はもうすぐ明けそうな空に手をかざしながら、隣でハンドルを握る人間と話をしようと思った。でも上手く言葉が出てこなくて、ボーボーというマフラー音だけが車の中に響いていた。やっと言葉が出てきたと思ったら「目、閉じてやればよかった」というものだけで、自分の語彙の少なさか感情の整理の下手さを恨んだ。

 けれど、その言葉を選択して良かったとも私は感じている。


「オレはそのままでよかったと思う。事故だとしてもこっちの勝手で奪った命だ。これからどんなことになったとしても、なにもわからなくても、自分の住んでいた場所を、生きていた世界を見続けていた方がいいと思う。それまで奪うのはそれこそ人間のエゴだ」


 何故、遺体の目を閉じるのか。それは安らかに眠れという儀式だと私は思っている。動物にとって安らかな眠りとはなんだろうか。他の生物の糧になること? それとも土になること?

 大体が動物に死の概念はないという。だから最後の一瞬まで生きようとする。それが動物なのだ。自殺をする生き物は人間だけだというのは有名な話で、つまり生から目を逸らす生き物は人間だけということになるのかもしれない。


 魚にはまぶたがない。だからどんなに陸が苦しくても、目をそらすことができない。

 昆虫にもまぶたはない。だから箱の中でピン止めされて、何時間も苦しんで死んだとしても、ずっと生きる為にもがき続けている。

 獣も鳥も、きっとそれは同じなのだろう。あの、見開いた目の先には、生があるのだ。純粋な、とても純粋な生きるということ、ただそれだけが彼らの目の中には映り続けているのだと、カレの言葉を聴いて私は感じた。


「死体は重いけど、命って本当に軽いんだね。それだけ生きたいって願ってても、あんなすぐに冷たくなって、私が死んでも同じなのかな」

「同じだよ」


 ほぼ即答だった。あまりにも早い返事で逆に笑いが出そうになる。

「だから――」

 そこから続く言葉は私には少し荷が重いと感じた。それをより本物の死を知り、悔やんでいる人間が言うというのは本当に重い。


『あなたは死んだ動物と目を合わせたことがある――?』


 私は、合わせられない。そんな生に満ちた眼とは合わせたくない。私は人間だから。軽い命だから。

 ただ一つ最後に好奇心を述べるならば、教えて欲しい。私の眼は見開いていたのか、閉じていたのか。

 勇気なんて簡単に示すものじゃない。死には近づくべきではない。人は簡単には変われない。そんなことをしみじみと感じている。


 けたたましい警笛とメトロノームの様に単純なカンカンカンカンという音の中であの日のカレの言葉が強く響く。


「だから――目を閉じないでくれよ」

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