4章 黒部さんと消えたメモ帳(4)

HIGASHITAISEI HIGHSCHOOL FESTIVAL

CHAPTER1.7 TITLE:

『それは消えない名前である @1日目10時』


〇視点:源忍

〇同行者:進藤浅彦

〇文化祭1日目・10時20分


 プラトン曰く、始めは全体の半ばである。

 やめるのは簡単で、継続するのはそれより難しく、継続することよりも難しいことは、『始める』ことなのだ。始めることさえしてしまえば、物事の1番の山場は乗り越えたようなものなのだ……と、私はこの言葉をそう解釈している。


 中学の時から、学内での活動は委員会だけだったから、少しでも部活動というものを経験してみたくて……そんな気持ちで新聞部に入ろうと思ったけど、いざ初めて部室の前に立ったとき、私は妙に怖気づいてしまっていた。やっぱりやめておこうかと、ノックしようとしていた手を引っ込めた瞬間に。

 ……ありえない乱暴さで扉が開いて、元気とか陽気とかいった言葉をミックスジュースにして擬人化したような渡良瀬先輩の笑顔が鼻先まで飛び出してきて、「入部希望ね!?」「は、はい」という会話ですらない挨拶でもないやり取りと共に、部室の中に引っ張りこまれた。

 それからはあっという間だった。楽しかったし、大変だった。忙しかった。半年があっという間で、気付いたら、新聞部の一員として文化祭に臨んでいた。

 あの時、渡良瀬先輩が部室の中から出てきてくれなければ、私はどうしていたんだろうか。いま、どんな立場で、どこに立って、何をしていたんだろうか。

 いや、たぶんそれ自体は変わらないのだ。私は今、新聞部としての肩書きを一旦置いて、風紀委員として、校内を見回っているのだから。

 それでも……『新聞部としての肩書き』を持っているか持っていないかには、大きな大きな、私の全てを塗り替えてあまりある大きすぎる差がある。私は、新聞部に入っていなかった私という存在を、想像することができないのだから。

 ……本当に。いい半年間だった。


 なんて、ペンギンの着ぐるみの中で物思いに耽っても、シュールなだけなんだけれど。


「なぁ忍ちゃん、並んで歩くのが割と恥ずかしいんだけれども。君はいつ、辺銀ぺんぎんから人間に戻るのかな」

「アーサーも何か着ぐるみ着ればいいんじゃない。本部に、まだいくつかゆるキャラ系のが余ってるはずよ」

「遠慮しとく。僕って、もともとがゆるキャラみたいなやつだからね」


 自分で言われると妙にムカつくな。理不尽なツッコミをお腹の底にしまい込んで、私はペンギンの着ぐるみの頭を外して抱えた。むわっと、ここまでの風紀委員的視察行脚の中で温められた、二酸化炭素がたっぷり含まれた空気が、外に放出される。


 アーサーという愛称で親しまれるおかっぱ頭の男子、進藤浅彦しんどう あさひこは、私の彼氏である。

 彼は私と同じ風紀委員であると共に、水泳部員でもある。学ランを着ていると、なんだかナヨナヨして頼りない印象を受けるのだが、実は着痩せするタイプ。水泳部の練習風景を覗いてみれば、それはそれは見応えのある胸筋と腹筋の美しいコントラストを拝めることだろう。

 言動や態度はいい加減だし、あまり物事に熱意を注がないタイプだけど、風紀委員の仕事や勉強などでは、一を聞いて十を知るというか。とにかく事ある事に有能っぷりを遺憾なく発揮する天才型人間だ。最近では水泳部の活動にもモチベーションを見い出せたみたいで、よく昼休みを返上して、下邨とタイムを競い合っては暑苦しくフォームについて語り合っている。活気に満ちていて何よりだが、これまで一緒にお弁当を食べていた彼女としては、複雑なところだ。


 ところで、いまアーサーは風紀委員の見回りシフトではない。彼個人の希望で、私と一緒に見回りをしてくれているのだ。仕事中ではないから、着ぐるみは着てくれないようだが。


「……その右手の唐揚げ串、いつの間に買ったの? さっきまでなかったよね?」

「さっきすれ違った田淵さんがくれた」

「はぁ……。1日目の初っ端から、はしゃぎすぎなんじゃない?」


 ほんの3分ほど前に合流したところなのだが……この男、文化祭を満喫しすぎなのではないだろうか。左手にはパンフレット、右手には……フランクフルト、唐揚げ串、わたあめを、何のことはないと涼しい顔で器用に持っている。どれか持ってあげようかと言ってあげたのに、君は何を言ってるんだとでも言いたげな顔で、「いいよ別に。そっちこそ、書類持ってやろうか。着ぐるみの手じゃ持ちにくいだろう」なんて言われた。大道芸人にでもなるつもりなのかしらん。


 というのも、彼曰く。


「僕は1人の真面目な生徒として、楽しむ義務を果たしているだけさ」


 ……ということらしい。

 「いる?」と差し出された唐揚げ串から、1つだけもらう。着ぐるみなので細い串を持つことが出来ないため、自然「あーん」してもらう形になる。

 お行儀の悪い食べ方で、なんかナマっぽい唐揚げを飲み込んで、私はうんざりとした調子で言う。


「楽しむ義務、ね。今日だけで6回は聞いたわ」

「あれ。7回は言った気がするんだけれど」


 初対面の時は、この男のこういうところが口も利きたくなくなるほど嫌いだったはずなのだが、今では顔を殴りたくなるほど愛おしい。源忍曰く、欠点とチャームポイントは紙一重である。


 ちなみに私はさっきから東館4階をぐるぐる歩いているのだが、この見回りに特に決められたコースはなく、その時間帯の当番である委員は、自分に割り振られた区画をくまなく回ればそれでいい。今回私の担当する区画は、東館4階及び3階ということだ。見回り業務に差支えがないくらいなら、寄り道や買い食いも許される。……ただし、着ぐるみを絶対に着用すること。

 風紀委員の見回りとはいっても、今日は全員制服を着ているわけではないので身だしなみチェックなどは必要ない。なれば風紀委員として注意することといえば、よっぽど目に見えて危険なことをしている場合か、許可証を出していないのに展示や販売をしている場合くらいだ。

 そろそろ3階へ降りようかと階段の手すりに手を掛けると、注意しづらい半端な露出度のコスプレ衣装を着た女子と肩がぶつかった。まぁ、こんな幅の広い着ぐるみを着ているので、さっきから何度も人とぶつかったり擦ったりしている。お互いに謝って、そのまま階段を降りる。

 それにしても、今のコスプレ衣装、どこかで見たことがあるような。手に持っていたぬきから察するに、巫女か何かだと思うんだけど……ただの巫女衣装があんなに赤いわけはないから、まんがとかの巫女キャラなのかな?


 私の疑問を察して、アーサーが得意げに両手を広げて講釈を始める。一般の人が作ったシューティングゲームの主人公……らしい。なんだかパソコンの専門用語ばっかり使われた上に、地域の宗教文化の説明まで早口でされて、ほとんど頭に入ってこなかった。


「まぁ、僕の知っている限りでは、あのキャラはあんなに胸なかったはずだけどね。何カップあるんだろう、今の女子。たぶん同学年だよね? いやぁ、末恐ろしいなぁ!」

「アーサー。あなた、『黙ってれば良く見えるのに』って言われたことないかしら」

「それは100回くらい聞いた気がするね」

「あら。1000回は言った気がするんだけれど」


 人より3倍多弁で、その半分が冗談みたいな人間なので、他の女子の体に興味を持つようなことを言っても、今更怒る気にもならない。真に受けたら負けなのだ。

 東館の方に降り立つ。


「……なんか、西館の方が騒がしいね」


 私が思ったことを、アーサーの言葉が瞬時にトレースする。

 本来、私の管轄ではないのだが、たしかに異常な盛り上がりだ。野次馬的に群がって、大人数で口々に喋っているという感じのざわめき。この時間帯には、少なくとも3階では特にイベントなどもなかったはずだが……。


「ちょっと見てきていい?」

「持ち場を離れることになるけど……ま、臨機応変に、だよね。問題がなさそうならすぐに戻ってくればいいんだし」


 頷いて、気持ち早足で西館の方へ向かう。ペンギンの着ぐるみで急ぐと、短い足でぺたぺたと、妙に滑稽な絵面になってしまって恥ずかしかった。

 過度を曲がり、渡り廊下を歩く。窓から中庭を見下ろすと、主に運動部の人たちが出している食品バザーは、けっこう流行っている店と閑古鳥の鳴いている店の差が激しいようだった。例の校内放送が効いたのか、サッカー部のチュロスは全然売れていない。

 渡り廊下を歩ききって、角を曲がる。

 ざわめきの正体は探さずとも見つけられた。教室と教室の間、私たちがいつも新聞を掲示している緑色の掲示板の前に、十数人の人だかりが出来ている。


「掲示板を見て騒いでいるようだけど……何か、実行委員に認可されていない掲示物でも貼り出されているのかもしれないね」

「西館上の割り振りは?」

「祐介じゃなかったかな。彼、サボり魔だしなぁ。おおかた、やたら楽しみにしていた3年1組の映画でも見に行ってるんじゃない」


 ……着ぐるみをどこかで脱いだのか、着ぐるみを着たまま教室に入って映画を観ているのか。横着な彼のことだから、たぶん後者なのだろうけど。

 とりあえず、人だかりの方に近付く。遠くから聞いている限りではただのざわめきでしかなかった音が、近くに寄るにつれて、徐々に1つ1つの言葉を明確に聞き取れるようになる。


「…………えっ?」


 何か、いま。聞き逃してはならない単語を耳にした気がする。


「どうかしたの?」

「しっ」


 さらに、感覚を耳に集中させる。

 群衆を構成する生徒たち1人1人の言葉を、ぼんやりとだが、分けて聞き取る。


「……ですか」

「去年卒業したOBだよ」

「OGだろ?」

「可愛いよな、…………」

「イタズラ?」

「めっちゃなつい」

「本当久々に聞いた……」

B来てんの?」


 聞こえた。ハッキリと。


 近くで確認すると、みんなが見ているのは、掲示板に貼られている他の掲示物と比べてひときわ大きい……私たちが作成している新聞・『週刊タイセイ文化祭版』。その10時台号。

 さらに詳細に言うならば……その10時台号の、編集後記を塗りつぶすような派手な太字で強気に書かれた、『記者B』の署名だ。

 風紀委員である私がいることに気付いてか、掲示板前に群がっていた人たちはぞろぞろと解散していった。アーサーを手招きして、問題の新聞の前に立つ。


「ああ、話だけなら、僕も聞いたことあるよ。カリスマだったらしいね」

「……新聞部のOBなのよ」

「なるほど。じゃあ、忍の先輩ってわけだ」

「………………」


 犯人は、朝、新聞部室に忍び込んで署名を残した。そして今……9時台号の署名発見から約1時間後、けして少なくない人通りの目を盗んで、西館3階の掲示板に掲示してあった新聞に署名を書いた。

 まさか……これから1時間おきに更新される新聞全てに、署名を書き込むつもりでいるのだろうか? そんなことをする目的は? 記者Bの名前を持ち出す意味は?

 ……もう、何がどうなっているの?


「忍、悩み顔も可愛いけれど、あんまりストレスを溜め込むと老化が早まる原因になるよ。ただでさえ君は時々2年生や3年生と間違えられるような大人びた容姿を持っているんだから、気をつけないとすぐにおばさんに……」

「……それは一度も聞いた事なかったわね」


 着ぐるみの腕の短さを利用して、アーサーの顔面に肘鉄をかます。

 倒れ込んだ彼にニッコリと笑いかけて、私はこうお願いした。


「この着ぐるみじゃあ、スマホを操作できないのよね。私の代わりに、この新聞の写真、撮ってもらっていい?」

「…………」


 無言で頷いたきり、アーサーは少し静かになった。



HIGASHITAISEI HIGHSCHOOL FESTIVAL

CHAPTER1.8 TITLE:

『柿坂十三郎は子守りのできない男子である』


〇視点:柿坂十三郎

〇同行者:友近奈通

〇文化祭1日目・10時30分


 源さんから送られてきた写真を見て、俺は考えてみた。

 記者B……備後天音先輩。卒業と同時に世界を股に掛ける旅に出発した彼女は、果たして本当にこの学校に来てくれているのだろうか。

 去年の、先輩たちがいた、ひどく騒がしい新聞部を思い出す。天音先輩の好奇心と活力に振り回されて、今の俺では考えられないくらい、爆笑したり怒鳴ったりしていた。あの頃はよかった、なんていうつもりは無いけれど……先輩として振る舞う必要がないっていうのは、楽だったかな。

 こうして学校内を歩いていると、どこかから、変装した天音先輩に見られているのではないかという気さえしてくる。……いや。サングラスをかけただけで変装したつもりになっているアホの先輩が、俺に見つからないように尾行できるなんて、考えられないけど。


「どうしたんですか? キョロキョロして」

「ん、いや……」

「もしや、隠れミッ〇ー探し!?」

「……ええと。まず何から教えればいいだろう……」


 まず、学校ぐるみで校内のあちこちにそんなものを用意するほど我々の文化祭は規模が大きくない。次に、暗黙の了解として認められているとはいえ、少額でもお金の動く文化祭で版権キャラクターを使うのは法律的には微妙にアウトだ。そして、君の出した名前はさらに非常にアウトだ。

 今日の思い出を文章化する日が来たら、その時はこのセリフはカットされるか、伏せ字編集が入ることだろう。

 などという話をしても分からないだろうし、何よりも、夢の壊れるような話はすべきでない。どう答えたものか図りかねていると、奈通ちゃんはすでに隠れなんちゃらの話に見切りをつけて、別のものに興味を示していた。


「柿坂さん、あれなんですか?」

「あれ? ……イカ焼きのこと?」


 奈通ちゃんの指差す先では、卓球部のイカ焼き屋台が派手に煙を炊いて鉄板でイカ焼きを調理していた。間の良いことに、ちょうど真顔でイカ焼きを頬張る他校の女子が隣を通って行った。

 ……いや、自分で答えておいて言うのもなんだけど、これをイカ焼きと判別するのは難しいかもしれない。調理する卓球部員がみんな素人イカだとはいえ、これじゃあイカ焼きというよりもんじゃ焼きの方が近い。どんな乱暴な調理をすればこうなるんだ……?


「そんな。お母さんとお祭りに行った時に食べたのと、全然ちがいます」

「確かに。あれをイカ焼きと呼んで売り出すのは、イカがなものかと思うね」

「本当にごめんなさい柿坂さん。面白くないギャグにはツッコまないように、ってお母さんにきつく言われてますので」

「……いい教育方針だね」


 英才教育かな。


 この、微妙にズレているような、若しくは逆に真理を言い当てているとも言えるような女の子は、友近奈通ともちか なつちゃん。ある祭りの日、俺と小池さんで母親の元まで送り届けた、迷子……いや、だ。

 両親が離婚して父方へと引き取られ、小学五年生にして愛する母親との間を引き裂かれた女の子。普段の明るい振る舞いは、そのことを微塵も感じさせないけれど、同じ境遇にある俺には、彼女がなんとなく無理をしている空気などを、微かに感じられる。

 大々的に語るようなことでもないけど、似たような境遇というのは、俺も小学2年の前後で、両親が離婚したのだ。俺の場合は母親の方に引き取られ、父親とはそれ以来全く会っていない。当然辛かったし、今でも、父親のいる家庭で育っていれば、今の俺はどんな俺だったろう……などと考えてしまうけれど、それが意味のないことだって、ちゃんと理解している。

 だから、あまり親のことは考えないようにしているのだが……それでも、奈通ちゃんを見ていると、嫌でも考え、想い、感じてしまう。他の子どもの相手ならどうということはないが、なんとなく奈通ちゃんと話すのがぎこちなくなってしまうのは、彼女に子供の頃の自分を重ねているからだと思う。


 さて、何故俺が奈通ちゃんと中庭の食品バザー通りを歩いているのかについて。

 新聞部において、翼と俺は、1時間ごとに新聞を貼り替える役割。翼が掛け持ちで所属している水泳部のシンクロ演舞が昼からあるため、午前中は翼が、午後は俺が新聞の貼り替えを行う。1人で校内全ての新聞を貼り替えるのは大変なので、いくつかは俺や、暇してる他の部員に手伝わせることになっている。しかし、翼からヘルプが出てないってことは、今のところ順調なのかな。

 つまり現在、俺は暇人。なれば馴染みの顔を訪ねて孤独のグルメとしゃれこもうかと考え、食品バザーの方へ足を向けたところ、数人に取り囲まれて迷子扱いされている奈通ちゃんを発見し……という感じ。わたわたしてて、そのあとは覚えてない。

 どうやら、俺たちの文化祭が今日からだと調べてくれたらしく、何人かの友達と連れ立って来てくれたらしい。遠い所ご苦労なことだが、たぶん保護者同伴じゃないんだろうなぁ。叱らないといけないかなぁ。嫌だなぁ……。

 と、へらへらにこにこ応対していたら、いつの間にかたこ焼きをおごらされていたという寸法だ。ああ情けない、渡良瀬に聞かれたらなんて言われるだろう。


「そういえば、咲ちゃんはどこにいるの?」


 ……小池さんのことは、『咲ちゃん』なんだ。

 いや、別に『十三郎くん』とか言われたいわけじゃないけど。


「新聞部のお仕事だよ。俺は今、お休み中だけど」

「えっ、すごい、2人とも記者さんなの!?」

「記者……ま、そうなるね」


 今日と明日の俺の仕事は、記者というより、新聞配達員とかのが近いけど。部長の肩書きが一転、急に下っ端ぽくなってしまうので、言わないでおいた。

 ふと時間を確かめたくなって、腕のくるぶしを見やるが、そこにいつもの腕時計はなかった。新聞部室に着いたとき、手袋と一緒に外してカバンの中に入れたんだったっけ……。

 今日の仕事上、すぐに時間を確認できないとまずい。あとで取りに戻らないとなぁと考えつつ、俺は答えを期待していない質問を口に出す。


「いま、何時だったかな」

「あ! 私、携帯買ってもらったんです、子供用なんですけど」


 いまどき、子供用携帯でもスマホのが主流だろうに、奈通ちゃんはまるで高齢者用携帯のようなゴツいフォルムの白いガラケーを取り出した。黒部さんが気に入っていたゆるキャラ……えっと、『かきくけランラン』だったかな。それの画像を待ち受けにしてるみたいだ。肝心の時刻表示は10時32分。

 俺は礼を言ったけれど、頭の中では、そろそろどうにかこの子を撒きたいなぁと考えていた。どれだけ非情とか人でなしとか罵られてもいい、とにかく、いつでも新聞部のことで動けるよう、奈通ちゃんの世話を誰かに押し付けたい。

 ……願わくば帰らせたい。


「あ、お母さん!」

「ええええええええええ!!」


 あまりにも突然で、そして衝撃的で、俺は3年生になってから一度も出したことがないような間抜けな声を出した。

 ぴゅーっ、みたいな効果音が似合う慌ただしい走り方で、奈通ちゃんは前方へダッシュすると、お母さん……えっと、友金すみれさんの腕を引っ張って、こっちまで連れてきた。

 おさげに、優しそうな垂れた目元に、小さく赤みがかった頬。こう見ると、お祭りの時見せてもらったスケッチブックの絵は、けっこう特徴を捉えていたんだなぁと。

 俺のことはすでに奈通ちゃんから聞いているらしく、丁寧に挨拶してくれた。気にならないといえば嘘になるけど、事情は聞かず、「文化祭楽しんでいってください」と当たり障りのない言葉で会話を締めくくった。


「ではまた、柿坂さん!」


 にこやかに手を振り、食品バザーの人混みへと消えていく奈通ちゃんを見送って。

 俺は、がっくりと肩を落とした。


「……つ、疲れた」


 新聞部の手作り腕章が、だらりとズレた。



HIGASHITAISEI HIGHSCHOOL FESTIVAL

CHAPTER1.9 TITLE:

『廊下を走らないことは常識である』


〇視点:下村翼

〇同行者:なし

〇文化祭1日目・10時56分


 なんかを考える暇もなく、俺は11時台の新聞の山を抱えて、学校内を走り回っていた。

 11時00分前後で、学校内全ての掲示板にこの新聞を貼らなくてはいけない。柿坂さん直々の命令により、学校に来ているかもしれない記者Bを探すことも、忘れてはならない。

 そんなわけで、11時台の新聞とはいえ、バカ正直に11時になってから掲示し始めたのでは、最後の掲示板に新聞を貼るのがいつになるか分からない。

 早速西館3階の掲示板に新聞を貼り、階段へ向かって走り出した俺の行く手に、過度を曲がってきて現れた、少しひょろっとした男子が立ち塞がった。


「うわっと、すいませんっス!」

「……一般客も来てる。気を付けろよ」


 誤ってから初めて、その虹彩の足りない目の不気味さや顔色の悪さに驚いた。

 この人だろうか、小池が前に言ってた、曽布川とかいう先輩は。実行委員の腕章を右腕につけているところを見るに、ヤンキーな生徒ってわけじゃなさそうだけど……。

 俺が曽布川さん(仮)の腕章を見ていると、曽布川さん(仮)も、俺の新聞部の腕章をじろじろと見ていることに気付いた。


「……新聞部か? 黒部空乃が所属しているよな」

「そうっすけど、黒部になんか用が?」

「渡したいものがあるんだが……見たところ、忙しそうだな」


 自分でも気付いていないけど、俺は話しながら足踏みをしていたようだ。気恥ずかしさに苦笑いして、頭をかく。


「へへへ……まぁ、確かに、ちょっと急いでますね。この新聞貼らなくちゃいけないんすよ」

「そうかァ。……断ってくれた方が、いい加減な仕事されるよりマシだ。コイツは自分でどうにかするよ」


 そう言って、手に持ったをひらひらさせながら、曽布川さん(仮)は去っていった。

 どういう用事だったのか、あのメモ帳は何なのか、何故黒部の名前を出してきたのか。ちんぷんかんぷんだったけれど、今はそれどころじゃない。一旦全部忘れて、俺は再び走り出した。


 



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