1章 小池さんと小さな正円の謎

 この間の数学で出された課題はたしか、こんな感じだった。

 二次関数のグラフを一定方向に向かって進み続ける点Pがある。さて、t秒後にこの点Pはどの座標にあるか。

 細かい定義やらは生憎覚えていないが、たしか、概ねこんな感じだったはずだ。

 おい、何他人事みたいに聞いてるんだよ空乃。次の授業の初めに板書させられるの分かってるのか?


 ……話を戻して。

 さてこの問題、観測すべき点は1つ、進むルートも完全に数式によって定められているうえ、律儀にもこの点は、1秒間に決まった距離を決まった方向へ進み続ける。寄り道もせずに一心不乱に第2象限の果てを目指して右肩上がりを続ける、意識の高い点である。

 普段は、ややこしい数学の問題に対しワークブックをフリーキックの如く蹴り飛ばしながら口汚く罵る私であるが。このように言い換えてしまえば、なるほど、事は思ったより簡単である。途中式がいくらややこしかろうと、最後にはあるべき1つのルートを示すのだから。


 現実において、この点Pみたいなやつがどれほどいるだろうか。

 決まった場所に、決まった時間に存在し。

 与えられた数式の通りに行動し。

 正確なペースで変化する。


 いない。

 いるわけがないしあるわけがない。

 モノですら不確定な動きをするというのに、こんな正確無比にプログラミングされたロボットのような人間いるわけない。いてたまるか。

 気まぐれに行動するし、そもそも式なんてないから行動のバリエーションは無限だし、同じ方向の運動ひとつとっても、止まったり走ったり休んだり、一定のペースで変化してくれるヤツなんか誰一人としていない。


 現実の人間に比べて、数の世界のなんと簡単で分かりやすく面倒でないことか。

 フェルマーの最終定理なんて比じゃない。「ある人間が、ある時刻にどこにいて、何をするべく何を考えてどのような行動をしているか?」などという設問に答えられる者がいるのだとしたら、それは溝知る神以外にはいないだろう。

 人間1人を完璧に分析することは、どんな天才だって、どんな仲のいい相手にだって、血の繋がっている相手にさえ、絶対に不可能なのだろう……。


 …………はあぁ。


「で、人間1人も分析できない私たちに、どうやって顔も知らないお客さん数百人の行動パターンを分析しろと……?」

「……さあな」


 2人同時に深い溜め息を吐いて、手元のペラ紙を見る。

 『客層分析シート』などと銘打たれたそれには、模擬店開始時刻である9:00から終了時刻である17:00までのタイムテーブルが、ボールペンできっちりと書かれている。

 いよいよ明日に迫った文化祭。私たちの1年3組は、『あげものきっさ』などという、運営側からしたら火や油の管理で非常に胃が痛そうであり、客側からしたら高カロリーな料理で非常に胃がもたれそうな、ともかく色んな意味で胃に厳しい出し物をする。


 そんな中、私こと小池咲こいけ さきと親友の黒部空乃くろべ そらのが所属する新聞部は様々な部活の宣伝活動も請け負っているため、出し物準備が校内最大レベルに忙しく、クラスの方の手伝いを全くと言っていいほどしてこなかった。家に帰ってから飾りを作るとか、何かしら手伝うこともできたはずだし、『できなかった』という言い訳を使う気はないが。

 そんな私たちに、本番前日にしてとうとうツケが回ってきたようで。

 クラス内で準備を取り仕切るむんという男子に先ほど呼び出され、いかにも文句ありげにこの紙を渡されたのである。

 曰く、「お前らに任せる仕事がないから、今作ってやったの。最後くらい働いてくれる?」とのこと。

 ムカつく言い方ではあるが、まあ、最後まで本当に何にもクラスの仕事を手伝えなかったから、特に何か言い返すこともなくこのシートを受け取って今に至る。


 夕暮れ迫る16時半の教室。

 1学期と比べて雰囲気が派手になった田淵さんが、「、マジでウザいよね」と同情して買ってきてくれたバナナシェイクをちまちま飲みながら、私と空乃は机を挟んで顔を突き合わせて、ただただ唸って悩んでいる。

 どうでもいいが、『モンク』とは文の蔑称なのか。たしかに文句ばっかりだし、的を射ている気がするけど。


「文くん、なんて言ってたっけ」


 ぐでん、とだらしなく机にもたれて空乃が問うてくる。

 未だに教室のあちこちでセット組み上げ作業をしている級友を見渡して、しばらく記憶の海を渡る。


「ええと……『タイムスケジュール別に、このクラスを訪れそうな顧客を、カスタマーの層を分析、アナライズ、することによって、接客に置いてのアドバンテージ』……うんちゃらかんちゃら」

「あはははっ、そんなんだったそんなんだった!」

「アホみたいに横文字多くて意味分かんなかったよな」

「意識高い系ってヤツじゃない?」


 教室の内装は、当日の朝にちょくちょく付け足すぶんを除いてほとんど完成している。ファミレス風のデコレーションが落ち着き、生徒のほとんどが帰宅するなり部活の準備へ移るなりして私たち2人きりになってしまった1年3組の教室で、わずかに残された机のうち2つを突き合わせて座っている。

 ほかの机は、出し物の邪魔になるから撤去された。代わりに私たちを取り囲むようにして、客用の丸テーブルとストラックチェアが設置されている。

 手伝いに参加しなかった私が評価するのもアレだけれど、文化祭の出し物にしてはしっかりしている造りだと思う。ストラックチェアは、磯山という男子が父親の会社でいらなくなったものを持ってきてくれたのだという。

 ちなみに、件のむんは行方不明だ。この東大正ひがしたいせい高校のどこかにはいるはずだが……あいつの部活も知らないしな。文に客層分析シートを受け取ってもらわないことには、私たちの仕事は完了しないのだが。


 ふと時計を見ると、16時40分が過ぎたところだった。

 やれやれ、こんなことならちょっとだけでも手伝ったという事実を残しておくべきだった……。今日は新聞部の『前哨会(渡良瀬先輩発案。明日の文化祭に向けて士気を高めるとか言っていたけど、たぶん騒ぎたいだけだ)』が18時からあるというのに……。


「つーか、客層を分析しろって言われてもな。どうすればいいんだよ」

「……それ、15分ほど前にも言ってたでしょ。咲おばあちゃん」

「誰がバアちゃんだ。どの時間帯も主な客層は『ウチの生徒』だろ? もう全部それで書いちゃえばいいんじゃないの?」

「それで受け取ってくれると思うー?」

「………………」


 空乃の質問に溜め息で返す。


「エクセルやら何やらで計算して正確に分析することが正解なんじゃなくて、この場合、文くんが私たちを困らせて満足することが正解なんだよ」

「おいおい、さすがにそれは……」

「無くないよ。一緒にぐちぐちと嫌味言われたんだから分かるでしょー? 文くんのあの態度は、私たちに仕事を回してくれたっていうんじゃなく、私たちがサボってたっていう負い目に付け込んで、困らせて憂さ晴らししたいだけだよ。

 だからたぶん、どんなに正確に分析したものを持って行っても、却下を喰らうと思うよ」

「はあ。面倒な……」


 男子のクセにネチネチと。たしかに私たちが手伝わなかったのも悪いけど、文句があるなら真正面から言えっての。モンクめ。

 文の回りくどいやり口に心底辟易していると、不意に教室のドアが開く。


「あれ? まだやってたんだ」

「うわあ! 前田さん鬼カワイイ!」


 約40分前、私たちがちょうどシート作成に取り組み始めた頃に、最後にもう一度衣装合わせをすると女子更衣室に向かった前田小鳥まえだ ことりさんが戻ってきた。なぜか、ついでにキヨも一緒。

 前田小鳥さんと冬山清志ふゆやま きよし(ほとんどの人が彼をキヨと呼ぶ)。2人は学年公認のカップルである。


「えへへ、そうかな。ちょっと派手すぎるような……」


 クラス1の美人であるところの前田さんが着れば、一着2千円程度の低予算コスプレ衣装でさえ輝くというものだ。安っぽい生地に取って付けたようなフリルに大きいだけのチープな飾りボタン。それでもやはり、着る人が着れば見栄えするなあ。

 ちなみに私は、男装ウエイターをさせられそうになった。

 同じ女子なのにこの差はなんだろう。


「やっぱ可愛いなー前田さん……前田さん可愛いな……」

「ありがとう……でも咲ちゃん、なんか怨念が籠ってる気がするんだけど」

「小池の身長じゃあ、2千円のサイズじゃ心許なかったんだよな。くくく」

「…………」

 

 喉を鳴らすように嘲笑するキヨに、殺意の篭った視線を飛ばす。

 ……こいつくらいなら殴り合いしても勝てるかな?


「もう、そんなこと言ったらダメでしょ、清志くん。セクハラだよ」

「小鳥はもうちょい身長ほしいよなー」

「こら!」


 可愛い仕草でほっぺたを膨らます前田さんの頭を、キヨが優しく笑ってポンポンと撫でる。

 ちくしょー、見せつけやがって。心の中で毒づいておいた。


「それより、咲ちゃんも空乃ちゃんも、まだそんな仕事やってるの?」

「モンクの嫌がらせだろ。中学のバレー部の時みてーに、股間蹴り上げてやればいいのに」

「その話はやめろ。高校では清楚で可憐な小池さんで売ってるんだよ」

「粗雑で過激な小池さんの間違いじゃないのか」


 お望み通り股間を蹴り上げて差し上げた。

 悶絶するキヨを尻目に、女3人姦しい会話に戻る。


「服の話に戻るけどさ、空乃もウエイトレスやるんだよな? 絶対似合うと思うな」

「いやいやそんな。チビだし、子供の遊びにしか見えないよー」

「よく言うよー。一回試着したとき、すごい可愛かったじゃん。一定の需要あると思うな」

「特定の需要もな」

「……なんか嫌な言い方ね」


 まぁ、私は柿坂先輩からの需要さえあればそれでいいし。


 不意に、蚊の鳴くようなトロイメライが聞こえてくる。文化祭準備期間限定で、そろそろ片付けに入れよと生徒に促す、5時を知らせる放送だ。……誰か放送のボリューム下げやがったな。

 それとほぼ同時に、文が教室に帰ってきた。

 2枚の紙を片手に、焦った様子で頭を掻きながら入室してきた文は、私たちのほうを見るなり、わざとらしい『嫌な顔』を浮かべた。


「おい、まだ終わらないか?」

「……本気出せばマジ一瞬で終わるし」


 そんな小学生以下の言い訳言わないでくれ空乃。私まで惨めだぞ。

 いつの間にか回復したらしいキヨが、文の方へ突っかかっていった。


「文、いくらこいつらが全然手伝ってなかったからって、こんな何の意味もねー書類作らせて何の得になるんだ?」

「何の意味もないかどうかは、上がってきてから俺が判断する」

「いい加減にしろよ、他のやつにも同じようにネチネチ粘着して、仕事が雑だの俺の方が働いてるだのって雰囲気悪くして。この文化祭準備全部、ただのお前の腹いせじゃねーか」

「フン、総監督として当然の仕事をしているまでだよ、何もしてないヤツには分からないだろうがね。だいたいお前もチラシの配布申請くらいしかしてないじゃないか、仕事作ってやろうか?」

「……面倒なことは嫌いだ」


 そう言って文の胸倉を掴むキヨを、前田さんが必死で静止する。

 やめて、と何度も悲痛な声で訴えられて、キヨはようやく、真っ赤な顔の文を解放した。

 ……あの無気力なキヨが暴力に訴えるところなんて、初めて見た。


「文くんも。クラスのみんなから、陰であなたがどんな風に言われてるか、知らないわけじゃないでしょう?」

「………………」

「最初の頃は普通に良いリーダーしてたじゃん。最後くらい、みんなで仲良くやろうよ? ね?」

「…………もう無理だろ」


 それだけ言い残して、前田さんの救いの手も振り払って、文はまた教室から出て行った。持っていた2枚の紙を落としたことにも気付かず、すぐに廊下に出てみたが、どこに走って行ったのかも分からない。

 とりあえず拾い上げてみる。そのうちの1枚を見て、私は少しだけ胸を痛めた。


「これ……」

「ああ。焼肉屋のチラシだ」

「………………」

「打ち上げ、やるつもりだったんだろうな」


 今、文が誘ったとして、いったいクラスの何人が打ち上げに参加するのだろう。

 打ち上げを企画するというのに、どうしてあんな人を突き放すような態度を取るのだろう。

 彼の胸のうちは分からないけれど、彼が丸っきりの悪でないことを、このチラシを以て突き付けられたような気がした。


「もう1枚は?」

「……なんだろう、これ」


 もう1枚の紙を熟読していた前田さんが、首を傾げながら机の上にそれを置く。

 そこには、小さな正円と、ABCが割り振られた3枚の画像と、問題文が書かれていた。


 『A,B,Cの3人の生徒がいる。上記の、直径6ミリの正円を1人だけ綺麗に描けなかったとすれば、それは3人のうち誰?

  Aなら2年3組、Bなら3F女子トイレ、Cなら体育館ロッカー室を探せ』


 『A:(この学校の指定セーラー服を着た女子の写真)

  B:(セーラー服の上に白いボタンの黒カーディガンを着た女子の写真)

  C:(学ランを着た男子の写真)』


正円を綺麗に描けなかった人物が、一人だけいるとすれば……?


「なんだ、これ。脱出ゲームみたいだな」

「正解の場所に行けば鍵とかアイテムをゲット! みたいな?」

「それなら、脱出っていうより宝探しゲーム?」

「…………」


 3枚の写真、そして直径6ミリ程度の正円をじっと見る。

 この問題において、まず重要なのは……?


「探偵、何か分かったか?」

「誰が探偵だ」

「もうその返し飽きたから。そんで、お前のことだから、どうせもう答え分かってるんだろ」


 あんたらが勝手に探偵呼びしといてなにが『飽きた』だ。もっかい股間蹴られたいのかこの野郎。

 とはいえ、まあ確かに私はもう答えを得ている。

 私は自分の顔を覗き込んでくる3人に向けて、ちょっと得意げな顔でふんぞり返って見せた。


「これはクイズなんだ……簡単に答えを言っちゃ面白くないだろ」

「ええー、焦らさないでよ」

「ヒント1。直径6ミリの正円を描くとしたらどうするか、イメージしろ」


 3人は考え込む。


「……私、器用なほうではないけど。でも器用な人でも、たぶん、そんな小さい円はうまくコンパスで描けないわよね」

「半径3ミリか。絶対うまいこと回せないよなぁ」


 コンパスは、大きすぎる円や小さすぎる円は描きにくい。

 では、それらに対応するためには、どのような道具を用いればよいか?


「あ、俺分かった」

「え! うそでしょ!」

「……いちおう聞かせてもらおうか」


 キヨは私のそばに近付き、空乃と前田さんへ背中を向けて、囁くように答えを言った。理由は述べず、答えのみを。

 …………。


「正解」

「うっし!」

「えー待って、分かんない分かんない!」

「ヒント2。ヒントっていうか、前提だけど……『出題者の意図を考えろ』」

「出題者の意図?」


 2人は考え込む。


「まぁ分かりやすく言うと、本当に直径6ミリの正円を描けるか否かは、重要じゃないんだ。『ABCの中で、仲間外れを探す』ということを考えてほしい」

「仲間はずれか……1人だけ夏服のA? 1人だけ上着を着ているB? 1人だけ男子のC?」

「夏服だったら円が描けないとか……男子だったら円が描けないとか……ええ、ちょっと、ホント分かんない!」

「ふはは、悩め悩め」


 正解した途端に傲慢なヤツだ。


「次! 次のヒントちょーだい咲!」

「ヒント3。……今、窓の外にいるジャージの子は、正円を描けない」


 2人は窓を覗き込む。

 窓の外で、輝くような笑顔を浮かべて男子生徒と話しているのは、学校指定ジャージを着た至って普通の女子生徒だ。


「けっこう大ヒントじゃね?」

「まぁ……そもそも問題がシンプルだからな。もう出せるヒントが思いつかない」

「ジャージと半袖セーラー服が『描けない』……カーディガンと学ランは『描ける』……」

「あー! もしかしてそういうこと!?」

「えっ、空乃ちゃん分かったの!?」


 空乃はトテトテと私の方へ駆けてきて、耳元で答えのアルファベットを囁いた。

 ………………。


「はい正解」

「いぇーい!」

「ええー、分かってないの私だけぇ?」

「難しく考えすぎてたよ。小鳥ちゃん、頑張りたまえ!」


 ひとり取り残されて目を潤ませる前田さんに苦笑いしながら、私は必死にヒントを考えた。

 1人は考え込む。


「ヒント4。前田さんの今着ている衣装では、直径6ミリの円を描くには

「……やっぱり服が関係してるのね」


 前田さんは、自分のフリフリ衣装を隅々まで見渡した。くるくると振り返り、必死に自分の背中を見ようとする前田さんは、控えめに言って可愛さという概念の擬人化だ。

 「正円、正円……」と呪文のように呟きながら自分の着ている服を必死に探す。


「……あっ」

「分かった?」

「もしかして……A?」


 ピンポーン。

 私たち3人による盛大な拍手が、ようやく問題が解けて安堵する前田さんに降り注ぐ。

 不要かとは思うが、一応解説をひけらかしておくか。


「ABC、3人の中で直径6ミリの正円を描けないものが1人だけいるとすれば、それは誰か。

 カーディガンや学ランのボタンが、正確に直径6ミリかといえば違うかもしれない。だけどそもそも、Aのセーラー服女子だけは、制服にボタンがついていないんだ」

「つまり、BとCはそれぞれ、カーディガンのボタンや学ランのボタンを外して、それを形どれば綺麗な円を描ける……ってことだな」


 全員ナゾが解けてスッキリしたところに、今度は極めて控えめに、教室の扉がスライドされる。憮然とした表情の文がそこに立っていた。


「……その紙、見たのか」

「あっ……その」


 しまった。そういえばこれ、もともとは文が持ってきていたものじゃないか。勝手に見たうえに4人で答えまで導いてしまうなんて……。

 慌てて問題の書かれた紙を渡そうとすると、文は顔の前で手を振った。


「いいって。元々、小池に渡してくれと頼まれて受け取ったものだし」

「私に……? 誰から?」

「あいにく口止めを受けている。そのうち自分から話すからと言っていたから、恨むなよ」


 口止めまでして、人伝てにして、この紙を私に届けた意味はなんだろう? 答えになっているAの教室……2年3組に来い、という意味か?

 顎に手を当てて考え込む私に、文はバツが悪そうに頭をかくと、


「……シートはもういい。とっとと片付けて帰れ」


 と言い捨てて、焼肉屋のチラシを拾い上げて教室の外へ駆けていった。

 苦笑いする3人を残して、私も指定された場所である2年3組の教室へと向かうことにした。


#


 デッドライン症候群というのか。

 準備する人たちの活気は、文化祭前日が最も凄まじい。ギリギリまで出し物の装置が完成していないところもあれば、外装に満足いかなくてどんどん過剰装飾の限りを尽くす者もいる。

 きちんと2日前くらいに準備を済ませて、今日はロスタイム、明日の文化祭本番に向けて英気を養おう……なんて上流階級は、この東大正高校で3%にも満たないのではないだろうか。

 夕暮れ迫る。夕暮れ以外にもいろいろ迫る。私は、2年生の廊下を急いでいた。

 2年3組は、ひとつだけ、ひっそりとしていた。教室も、机と椅子が運び出されている以外は、通常授業時のまま。開きっぱなしのドアから女子生徒の姿が見える。


「このクラスは部活動従事者の人口が多くてね。出し物を諦めてしまったのさ」


 私と同じような真っ黒のカーディガンを纏い、キャップを乗せるように被った、ポニーテールの女子だった。2年の先輩だろうか。

 しかし、どことなく達観したような、全能なような、母親のように優しそうなその顔つきは、高校2年生というには違和感もあった。

 何よりも、彼女は……彼女のそのフレンドリーな笑みは、今まで会った女性の中で、最も可愛く、美しかった。

 女子生徒の発した『諦めた』という響きに、どうしようもないやるせなさを覚えながら、私は頭を下げた。


「1年3組の小池です。ええと……」

「ああ。君が噂の『3代目名探偵』か」

「え……3代目?」


 おうむ返し。

 名探偵と呼ばれることは多かったが、その上に3代目という言葉を冠して呼ばれたのは初めてだった。

 私の困惑した様子に、彼女は何か納得した様子だ。


「いや、他意はないんだ、ごめんね」

「ええと……あの、手紙で呼び出したのは、あなたですか?」

「……君に渡すものがある」


 返事を濁されたように感じた。

 女子生徒は、学校指定のものではないカバンから何枚かの紙を取り出した。受け取ると、幾度となく触ったことのある感触に驚いた。

 ……うちの新聞部の、新聞だ。

 私がそれを持って呆けている間に、彼女は器用に私の手の中の新聞を纏めてホッチキスで留めた。


「東大正高校新聞部シリーズ。これまでの新聞部の歩みを、バックナンバーという形で保存したものだ」

「部室から持ち出したんですか?」

「いや、私物だ。新聞部に友達がいて、毎回、掲示が終わった新聞のうち1枚をもらって集めていたんだよ」


 新聞の束を何枚かめくってみる。ナゾにナゾが重なりすぎて、わけがわからなくなってきた。


「……新聞には、一昨年とかのものもあるみたいですけど。ひょっとして、OB……なんですか?」

「名乗っていなかったね……私は山田花子やまだ はなこ。この学校のOBだ」

「偽名くさい!」

「あははは。まぁ、信じるも八卦信じぬも八卦だよ」


 それを言うなら、当たるも八卦当たらぬも八卦じゃないのか。占い師がよく使う。


「ともかく、必要なものは渡させてもらった。知り合いの後輩たちに騒がれると嫌だから、明日は変装つきで来させてもらうよ」

「胡散臭さの極みですね……」

「そうそう。それくらい私を軽蔑して接してくれればいい。自堕落で不真面目な先輩なのさ」

「……まぁ、新聞部やクラスの関係で、明日は動き回っていると思うので。見かけたら声をかけてください」

「そうさせてもらうよ。そのパッツンな黒髪をめがけて迎えに行くぜ、ベイビー」

「用が済んだらとっとと帰れ」

「……軽蔑するのと敬意がないのは違うんだぜ、小池ちゃん」


 トホホ、と肩を竦めながら、山田さんは手に持っていた型紙をくしゃくしゃにして捨て、教室を出て行った。

 嵐のような人だったが……初対面だというのに、一気に親友レベルまで距離が縮まった気がした。他人という壁を音速で破壊するような人だ。

 山田さんがいなくなった教室で、少し物思いに耽る。


「明日は文化祭、か……」


 明日の文化祭では、新聞部の仕事やクラスの手伝い以外にも、重大なイベントがあるというのに。


「胡散臭い先輩のお守りなんか、してられないんだけど……」


 教室備え付けの時計を見ると、意外に時間が経過していた。

 新聞部のラインにメッセージが届いたらしく、スマホがバイブする。私はにわかに慌てた。

 そろそろ、『前哨会』が始まる時間だ。


#


 2年3組の教室に戻った男は、ひとり、作戦が失敗してしまったことへの焦燥を噛み締めると、その全てを諦めて自嘲した。

 最後の悪あがきを使うしかないらしい。


#


「グラスは持ったー!?」

『紙コップでーす!!』

「生ハムにチーズにご馳走の用意はー!?」

『ポテチしかありませーん!!』

「えーと……ニューヨークに行きたいかー!?」

『もはや関係ありませーん!!』

「うるせー! かんぱーい!!」

『かんぱーい!!』


 何かの、誰かの思惑が働いているとはつゆ知らず。

 新聞部の楽しい前哨会は、そして前夜祭は、賑やかに始まった。

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