激情のイドラ -Have you got everything you need?- 終幕編

 夏休み、全く人気の感じられない廊下の片隅にて、私と空乃と曽布川さんは壁にもたれかかっている。


 何故か曽布川さんがそこでくつろぎだしたので、しばらく待っていると、曽布川さんがエイプリル女と呼んでいた女の子が、トテトテと走ってきた。

 相変わらず無口だが、曽布川さんの「いたか?」という質問に、ニコニコ笑顔のままこくこくと頷く。非常に愛らしいのだが、基本表情の笑顔のまま全く動きがないのが、ちょっと怖い。

 エイプリルちゃん(暫定的にこう呼ぶことにする)が曽布川の隣にもたれたところで、曽布川さんは指の骨を鳴らしながら私に言う。


「目的地に行く前に、お前の考えを聞かせてもらおうか、パッツン女ぁ」

「分かりました陰湿キモ男」

「今の発言は録音したからな、然るべき機関に訴えさせてもらう。俺の喋ってる部分は消しておこう」

「どこまで落ちれば気が済むんだよ! このドクズ!」

「……ふむ、こういった罵倒は、訴えるよりも『そういう筋』に売った方が金になりそうだなぁ。訴えるのはヤメにしてやる、感謝しろ」

「ホントに高校生なのかよアンタ……」


 ともあれ、答え合わせだ。

 私は居住まいを正すと、いちおうカンニングペーパーとして、さっき思考をまとめるのに使ったスマホのメモ帳を開いた。


「……この劇、『泥棒猫には関係ない』において、もっとも致命的な違和感。それはです」

「不整合? ……ああ、『泥棒猫』の部分?」


 空乃の確認に、私は頷いて肯定する。

 曽布川さんの方をちらりと見ると、スマホでゲームなんかしていた。いちおうこっちに耳は傾けてくれてるようだが……くそ、やりにくいな。


「『泥棒猫』って、普通は、浮気相手の女性を表す言葉だよね? 人の旦那を奪っていく的な……」

「そう。だけど火照の場合は、女性でもなければ、誰か他の男から女性を奪ったというわけでもない。では、火照の浮気相手である沙和や遥のことを指しているのか? たぶんこれもノーだ」

「どうして? 火照に家庭があったことを知らなかった沙和はともかく、遥は、奥さんの愛保からしたら、十分泥棒猫だと思うけど」

「単純に、遥は、そこまでストーリー上で重要じゃないからな。終盤でパッと出たと思えば、すぐに浮気が発覚して、そのあとは出番もなく終わったキャラだ。タイトルとしてフィーチャーされるようなキャラじゃない」

「なるほどね」


 それに、『関係ない』という部分も違和感だ。ストーリー上で『関係ない』というワードに当てはまる人物なんて、ほとんどモブ役だった、同僚の相模くらいしか思いつかない。

 まぁこれは考えても仕方のないことだ。次に移ろう。


「次に。沙和とのデートシーンで、強烈な違和感を覚えるシーンがありました」

「…………」


 曽布川さんはゲームしたまま。

 エイプリルちゃんはニコニコしたまま。

 空乃は、首を傾げたまま。

 しばらく沈黙が続いたあと、私は空乃にヒントを与えることにする。


「相模が出てきたところだよ」

「……ああ! 相模が出てきて、ちょっと火照たちと喋っただけなのに、何故か沙和が火照の浮気を疑い出したんだよね?」

「そう。相模は火照の家庭や妻について全く言及しなかった。それにも関わらず、沙和はこのシーンで、火照が妻帯者であることに勘付く」

「あのシーンはたしかにおかしかったよね。前後が繋がってないっていうか、脈絡が無いっていうか」

「相模は、ほとんど『挨拶をしただけ』だったんだ。それがなんで、火照が妻帯者であることがバレる要因になるのか……?」


 曽布川さんはスマホを横から縦に持ち替えた。


「さて。この疑問は一旦置いておく」

「置いちゃうの?」

「次の問題を解けば、さっきの疑問もおのずと解ける。次の問題は、『何故背景が英字ばかりだったのか?』」


 空乃が肩を竦めて、非難するように半目でこちらを見てくる。


「咲〜。それは咲自身が演出だって言ったんじゃん〜」

「……ま、まぁ、読み間違いと言いますか」

「言い訳は見苦しいぞパッツンポンコツ女ぁー」

「あんたは黙ってろ!」


 ゴホンゴホンと乱暴に咳払いして仕切り直す。


「えーと。何故背景が英字ばかりだったのかだけど、実はこの疑問の答えは、至極シンプルなモノだった」

「シンプル?」

「空乃はどう思う? 日本を舞台にした劇で、なんで背景の文字が英字ばかりだったのか……」

「うーん。シンプルに……シンプルに考えるなら、かぁ」


 腕を組んで眉間に皺を寄せて考えること数秒、空乃は自信なさげに答えを出した。


「……あのとき下邨が言ってたのと同じだけど、『元々は外国が舞台の構想だった』、ってことなのかな?」

「うん、私もそうだと思う」

「やった! ……でも、それならなんで舞台を日本に変えたのかな?」

「さっきみんなで話してたときも問題になったことだな。このシナリオなら、別に舞台を変える必要もなかったんじゃないか……」


 私は俯き、スマホを見る。

 ……よし、多分大丈夫。スマホをしまって顔を上げた。


「逆だったんだ」

「逆?」

「舞台を外国から日本に移したせいで、シナリオのある部分が、うまく機能しなくなったんだよ」

「……それって、不倫が発覚する場面のこと?」


 そうだ、と頷くが、空乃はピンときていないようだ。これだけではまだピースが足りないのだから当然だが。


「まぁ……これだけじゃ、まだ手がかりが足りない。『日本と外国』以外にも、当初のシナリオから大きく改変された部分があるんだ」

「他にも? ……皆目見当つかないよー」

「ヒント。当初のシナリオから『変えた』というより、『変えざるを得なくなった』」

「変えざるを得なく……」

「あの劇での最大の見せ場、どうしても改変できない場面を、当初のシナリオのままでは出来なくなってしまった。だからシナリオを大幅に変えた」

「『泥棒猫には関係ない』の最大の見せ場っていえば……?」


 空乃は特に迷うそぶりもなく、答えた。


「最後の、火事の場面?」

「そう。浮気をされても火照を愛し、助けようとする愛保の姿に、空乃も感動したはずだ」

「シナリオを改変しなければ、あのシーンができなくなる理由……。たしか、えっと、愛保が家の窓ガラスを割って飛び込んで来て、火照を背負って運び出した……」


 そこまで思考を進めて、空乃は戦慄したように、喉から吃音を発した。


「火照役の神賀さんは……手を怪我してた、よね?」

「それも、右手の甲を骨折だ。書類仕事も辛いほどだったらしい。何とは言わないが……は難しいんじゃないかな」

「……っていうことは」


 そこから導き出される答え。

 憶測に過ぎないが理にかなった、ある1つの答えは。


「まさか……元々のシナリオでは、ってこと?」


「その通り。タイトルの『泥棒猫』というのは、原初の台本の主人公である女を表していたんだ。

 火照はもともと女だったし、愛保はもともと男だったし、沙和も遥も、もともとは男だった……そしてたぶん、それぞれの登場人物の設定も違ったんだろうな。『泥棒猫』っていうぐらいだから、妻帯者だったのかもしれない」


 まぁ、今となっては、シナリオを書いた本人に聞く以外確かめようのないことだけれど。

 曽布川さんはスマホをしまって、やっとこちらを向いた。

 私はここまでの思考のパーツをまとめ、『原初の台本』を、部分的に復元した。


「1つ。原初の台本では、舞台は外国のはずだった。

 もう1つ。原初の台本では、男女の配役はほとんど真逆だった。

 この2つは、神賀さんが怪我をしたから改変されたものだけれど……さて、この2つを踏まえて、もう一度あのシーンを再現するとしたらどうなる?」

「相模がちょっと話しただけで、沙和が不倫を勘付いたところだよね」

「そうだ。これで、話の辻褄が合わない謎は解けるはずだ」


 言っても空乃は、まだ分からなそうだった。

 ……そろそろ時間も押してきたな、私の方で言ってしまおう。


「相模は、原初の台本では女だった火照に対して、こう挨拶したんだ。

 『鶯谷、こんなところで奇遇だね』……」

「ああ! そっか!」

「ま、舞台が完全に外国だったのなら、名前は『鶯谷』なんて日本名じゃなかったんだろうけどな」

「そっか、外国では、既婚者の敬称は『ミセス』だったよね!」

「だからこそ、相模がたいして話してもいないのに、沙和は火照の不倫を一発で察することができたんだ」


 そして多分、『女火照どろぼうねこ』の役をやらされていたのは……。


「最後のまとめです、曽布川さん」

「聞かせろ。歩きながらな」

「……はい」


 私たちは、目的地に向かって再び歩き始めた。エイプリルちゃんは、いつの間にかまたいなくなっている。


「この『泥棒猫には関係ない』という劇において、シナリオライターである大宅さんは当初、またもや神賀さんの彼女である作田さんを憎まれ役に配置したんです。すなわち、いろんな男性と不倫をする泥棒猫の役を。

 そのシナリオは、たぶん今回上演されたものよりも、もっと酷いものでした。観客みんなが、浮気女を演じる作田さんを嫌いになってしまうような。

 出来上がったシナリオを、監督の立場で確認した神賀さんは、事態を重く見て、どうにかシナリオを改変する口実を作ろうとします」

「おそらく、シナリオライターと神賀さんは、微妙な仲だったんだろうなぁ。自分の彼女を不当に酷い役に配置されても、正面から文句を言えないような」


 渡良瀬先輩は言っていた。いつもの演劇部のシナリオは、もっとすごいのだと。

 そんなにすごいシナリオライターを、人材を、神賀さんは失いたくなかったのだろう。だから、関係にヒビを入れるようなことをしたくなかった……。


「そして神賀さんは、シナリオの最終章……どれだけ改変したとしても、絶対に変えられない見せ場に目をつけます。それは、『火事の家から恋人を背負って運び出す』という感動のシーンでした。

 さすがにここを改変することはできないだろう……。そして神賀さんは、自分ではこのシーンを演じることができない状態にするために、ある凶行に出ました」

「……嘘でしょ…………」


 空乃が口を抑える。

 ……私も、痛い話は嫌いだ。


「神賀さんの怪我は、事故じゃなかった。

 ダンベルで右手を砕いた、だったんです」


 配役の問題で、そこまでしなくても。

 事情を知らない私たちにはそう思えても、神賀さんにとって……作田さんにとって、これはかなり死活問題だったのかもしれない。


「そして神賀さんは、シナリオライターにこう言います。『怪我してラストシーンを演じられなくなった。申し訳ない。自分の責任だから、シナリオの改変も自分でやるよ』と」

「モノカキに慣れてない奴が慣れないことをするモンじゃないなぁ。……シナリオの改変はうまくいかず、さらに気の利いた新タイトルも思いつかなくて、結局新しいシナリオには、数点の不整合が生まれた」

「舞台を外国から日本に移したのには……できるたけ元のシナリオから遠ざけたいという気持ちがあったんじゃないかな」


 今回は、ほとんど憶測で語っているに過ぎない。

『舞台は元は外国だった』、『登場人物の性別はほとんど真逆だった』という前提でさえも、可能性が高いだけで、完全に証明したとは言い難い。

 神賀さんは本当に事故で怪我をしたのかもしれない。むしろそうであってほしい、自分をそう易々と傷付ける人であってほしくない。


「さて、一通り理屈付けが済んだところで……着いたな」


 三年生の教室がずらりと並んだ廊下。

 神賀さんは、シナリオライターの大宅さんがきょう、「三年の教室で菓子広げてシナリオ書いてる」と言っていた。

 ……今回の事件で、最も『犯人』と呼ぶに相応しい人物。


「シナリオを書き換えたのは神賀さんだ。あの人は犯人でもなければ被害者でもなく……ただ、たった1人で犯人の目論見を阻止した『トリックスター』だった」

「………………」

「俺は前の演劇部のシナリオも知っている。……『劇場のイドラ』って知ってるか?」


 劇場のイドラ。

 たしか、倫理とかで習う用語だ。劇場の舞台の上などで、過剰な演出を交えて見せられたものが正しいかどうか、私たちは正確に判断することができない。

 今回の場合は……あの劇で、『作田澪が悪い人間である』という論を、煌びやかなステージライトと臨場感ある演出と一緒に見せられたのだ。

 悪役を演じる役者を嫌いになる人は多い。私も、冤罪裁判映画で2人目の裁判官を演じた役者さんの、あの憎たらしい事務的な無表情が未だに印象に残っている。その役者さんが別の映画でいい人の役をしていると、違和感を感じてしまう。

 答えない私に、曽布川さんはさして気にした様子もなく続けた。


「それは、素晴らしいシナリオだった。捻くれ者の俺でさえ、素直にそう言うしかない出来だった。だからこそ、

「……その劇でも、作田さんは?」

「とんでもない下衆女。……普通に見れば、そう思ってしまうんじゃないか」


 そこで話は途切れた。

 三年生の廊下を進むと、4組の教室でノートを広げた机に向かっている女子の姿が見えた。

 菓子は広げていない。

 私は手に持ったクリアファイルを確認すると、2人に言った。いつもより言動が大人しい曽布川さんと、悲しそうな顔をして全然喋らない空乃と。


「……行きましょう」


 返事も首肯もなかったが、曽布川さんは無言で、ガラガラとドアを開けた。

 中にいた大宅さんが、目を見開いてこちらを向いた。


「大宅先輩ですか」

「……そう、ですけど」

「先ほどの劇、拝見させて頂きました」

「…………」

「それで、神賀さんからちょっとお届け物を預かっています」


 ここまでの経緯について全く語ることなく、曽布川さんはそこまで言って、私の手からクリアファイルをひったくった。


「えっ」


 完全に油断していた。何をする気だ?

 曽布川さんは、すう、と息を吸うと、いつにも増して闇をたたえた顔でつらつらと何か唱え始めた。


「あんたのことは知っている。俺や、ここにいる黒部と同じ、承寺しょうじ中学だったはずだ」

「え!?」

「……はぁ、そうだったんですか」


 ビックリする空乃に対して、大宅さんはどこか上の空で、興味なさげだ。

 空乃を見下すように一瞥して、曽布川さんは続ける。


「チビ女が知らないのも無理はない。大宅青おおや あお……中学2年で軽いハブを受けて、三年生の一年間を丸々不登校にした生徒だからな」

「……よく知ってますね」

「人の弱味を握るのが生業なりわいなので。自分の中学のことくらいは、だいたい調べた」

「……それで? そんな陰気な私が、なんで演劇部に入ったのか、とか、そういうことを聞きたいんですか?」

「察しが良くて助かる」


 大宅さんが先輩で曽布川さんが後輩のはずなのに、敬語を使う方とタメ口を使う方が逆じゃないか、これじゃあ。

 人に敬語を使えと言ってたのはどの口だ。


「人前に出たいという願望があったのかどうか。そんなことは問題じゃない。

 『学校に来る勇気すら失っていた人間が、どうして、物語を表現する勇気を持てたのか』という話だ」

「……愚痴になりますが」

「構わない」

「…………今回の劇が、なんであんなことになったのか、分かってるんですね?」

「分かってなければこんなところに来ていない」

「そうですか。……では」


 大宅さんは、1つ息を吐いた。

 目を瞑って、背もたれに全体重をかけるように、だらんと座った。失礼な表現だが……あまりに脱力しすぎていて、死んでいるようですらあった。

 だけど。

 大宅さんは目を瞑ったまま、だらしなく座ったまま、ありったけの激情を顔と拳に込めて、机を叩いた。

 静かな教室に、重い音が響く。


「……全部全部、神賀のせい」

「えっ?」

「神賀さんが……?」


「そうですよ、全部神賀に騙された。

 高校に来て1週間、また一人ぼっちで教室の隅っこで本を読んでた私に、あいつは話しかけて来た。

 『演劇部に参加してくれないか?』って」

「演劇部は、神賀たちが入るまでほとんど廃部状態だった。神賀は劇団の旗揚げ役だった……らしいな」

「そう。あいつはメンバーを集めていた。

 自己紹介で私が言った、『小学校の作文コンクールで銀賞を取った』なんてのを聞きつけて、私をシナリオライターとして誘いに来た。冗談か何かだと思ったけど、あいつは本気だった」


 目を瞑って唇を噛む大宅さんは、怒っているというよりも、悔しそうだった。


「嬉しかったなぁ。

 これで変われると思った。みんなと平等に話せて、みんなと平等に頼りあえる、そんな人間になれると思った。人並みになれると思った」

「人は変われない。……なぁ、チビ女」

「………………」


 私は空乃の肩に手を乗せた。

 ……間違いない。この人は、空乃にこのやり取りを見せつけるためだけに、今回の事件に首を突っ込んだんだ。

 薄く笑う曽布川さん。大宅さんはまた、目を瞑ったまま、今度は机を蹴った。


「でもなれなかった。

 神賀たち役者は輝いてたけど、私たち裏方にスポットライトが当たることはなかった。

 暗黙の了解の、陽グループと陰グループが出来上がってた。神賀はみんな平等に扱おうとしてたけど、他の役者たちは、目立ちたがり屋たちは……私たちと喋るとき、明らかに気まずそうだった。事務的な話しかしなかった」

「…………」

「あぁ、変われなかったな、って思った」


 大宅さんは小さく、「なんで私、知りもしない相手にこんなこと言ってるんですかね」と零した。

 曽布川さんはこう答えた。「類は友を呼ぶってやつだ」と。「このパッツン以外は、陰だから」と。

 乾いた笑いを吐いて、大宅さんは座り直し、窓辺に向かって頬杖をついた。


「ある日ね。作田さんに言われたの。

 『この台詞、どんな風に言えばいいかな?』って。

 実際に演技して教えてあげたら、あの人、『すごい演技だね』なんて褒めてさ。『今度の劇で、何か役をやってみたら?』なんて言った」

「間に受けたわけか。つくづく俺と似てる」


 曽布川さんも机を蹴り飛ばした。

 ガコンガコン、と乱暴な音が響いて、怖がった空乃が、私のセーラー服の裾にしがみついた。


「似たような経験してるんですね。

 ……そう。恥ずかしがってたけど、何度も作田さんがいけるよいけるよって言ったから、私は……手を挙げた。役者を決める会議の時に、メインヒロインの役に手を挙げた」

「……あはは」

「笑っちゃいますよね。

 変な空気になって。なんだかんだで最終的に、推薦で、作田さんがメインヒロインに決まった」


 椅子に座ったまま、大宅さんは頭を抱えた。目を瞑った表情は、美しかった。


「作田さんは、申し訳なさそうに眉を下げるだけで、みんなの前では一言もフォローしてくれなかった。

 心底憎んだ。

 あとから何度も謝られたけど、徹底的に無視した。怒ろうとすら思えなかった」

「だから、こんなに執拗に、作田を悪役に据えてるのか」

「もちろん、何度も他の役者から文句を言われた。『自分がなりたかった役を一回とられたからって、逆恨みはやめろ』ですって。

 そんな時は毎回、作田さんか神賀がフォローを入れた。私は全部、聞こえないフリをして押し通したけれど。もう半年ぐらい、役者側の生徒とは口を聞いたこともない」


 信じられないくらいにっこりと微笑んで、大宅さんは、最後にこう言った。


「これで私の話は終わりです。

 そして……演劇部のシナリオライターとしての私も、もう、これでおしまいです」


 机が倒された時、ノートや筆箱と一緒に吹っ飛んだ一枚の紙には、『退部届』と読める達筆な字があった。

 そうかい、と曽布川さんは嘆息した。

 そして、柿坂先輩が私に託したクリアファイルを、彼女に手渡した。


「お届け物って言ってましたね」

「神賀からだ。憎い憎い神賀から」

「……ま、一応、見ないわけにはいきませんよ」


 そう言って、クリアファイルから一枚のルーズリーフを取り出した大宅さんは、すぐに顔を不愉快そうに歪めた。

 そして、すぐに紙をくしゃくしゃに丸めて、窓の外へ放り投げてしまった。

 ああ、と情けない声をあげて、私は、落ちていく紙くずを窓越しに見送る。


「何が『次回作のコンセプトに関する提案』なんですかね。……なんで、あれだけのことがあったのに、続ける気でいるんですかね」

「さあね。陽キャラの考えてることは分からない」


 曽布川さんは、スマホを一瞬いじると、すぐに尻ポケットにしまった。


「……差し出がましいようですけど、俺もやめたほうがいいと思いますよ」

「はあ」

「楽しいことなんか1つもなかったんでしょう?」

「…………」


 言いながら、大宅さんが蹴飛ばした机を、曽布川さんは1人でテキパキ片付け始めた。


「嫌な思い出だけだった。

 やりがいもなかった。あったとしても、苦痛の方が大きくて、無視できるものだった。

 仲間なんて1人もいなかった。

 シナリオも書いていて全く楽しくなかった。

 それなら辞めればいい、そうだろう?」


「…………やめてください」


「神賀の誘いの言葉なんて全く嬉しくなかった。

 作田が褒めてくれたことも全然心踊らなかった。

 裏方の人たちとの絆もなかった。

 この三年は無意味だった。

 やめればいい。それならやめてしまえばいい」


「やめてくださいって言ってるじゃないですか!」


 大宅さんの平手が、曽布川さんの右頬を叩いた。

 私のビンタは防御したのに、曽布川さんは、それを甘んじて受けた。


「……ごめんなさい」


 すぐに謝る大宅さんには目もくれず、曽布川さんは片付けを続けて、机とノートと退部届を、元の状態に戻した。


「自分がやめたいと思うならやめればいい。自分が続けたいと思うなら続ければいい。

 体のいい理由を作ろうとするな。台本を作ろうとするな。理由を外部に求めようとするな。

 それは神賀からの、『もう一度一緒に劇づくりがしたい』っていうメッセージだ。それを受けて本当に嬉しくないのならやめればいい」

「……………………私は」


 大宅さんは、膝から崩れて、ぺたりと座り込んだ。手で受け止めようともしないので、涙がどんどん流れて、スカートの上に落ちていく。

 そんな時に、教室にエイプリルちゃんが戻ってきた。

 ニコニコ笑顔で、右手に丸められたルーズリーフを持って。


「……戻りたいなら、戻れるうちに戻っておけよ」

「………………」


 ルーズリーフの成れの果てと、赤ん坊のように声をあげて泣く大宅さんを残して、私たちは教室を出た。


 人は、たしかに変われない。

 陰気なヤツが人気者になることはできなかったけれど、三年も続けたことを、嫌なことがあったからとやめることは、できなかったんだろう。


 ……よく覚えていないけれど、教室を出て少し歩きながら、曽布川さんがそんなことを言っていたのが、印象的だった。



 もう昼の2時を過ぎた。

 東校舎から出たところで、曽布川さんは立ち止まって、またエイプリルちゃんに千円札を渡した。「次あのクソ甘いやつ買って来たら殺すからな」と、今までで最大にドスの篭った声で言っていた。そんなに甘いのが嫌いか。

 3人だけになった学校の外れ。セミの声が聞こえる中、私は曽布川さんに微笑みかけた。


「それにしても見直しましたよ、曽布川さん」

「あ? 何がだ気色悪い」

「言い方こそ乱暴でしたけど、大宅さんが演劇部をやめてしまわないように、神賀さんとの仲を取り持ったじゃないですか。あんたの性格は完全に終わり切ってると思ってましたけど、あの行動は、本当に尊敬しました」

「ふん、陽キャラはなんでもかんでもポジティブに捉えるから困るなぁ。……あんなのはただの同族嫌悪だ、大宅は一生幸せになれねぇよ」

「そういうことにしときましょうか」

「…………うっぜぇ。

 まぁ、お前が頭お花畑なことに、俺のことを良い人だなんて思ったところで、俺に損はないからな。あーそうだ、俺はいい人なんだ。募金とかすげえしちゃう」


 ほ……褒め甲斐のない人だ。二度と見直したりするもんか。

 私がやれやれと溜め息を吐くと、曽布川さんは空乃の前まで歩み寄り、そのひょろ長い背を、空乃に合わせるように屈んだ。

 空乃は、ちょっと息を詰まらせながらも、凛とした表情で、曽布川さんの濁った瞳を真正面から見返した。


「にしても、今回の件はまるでお前のための教訓みたいだなぁ、チビ女ぁ?」

「……そうですね」

「黙りこくられるのもウザイけど、空返事とは、やる気が削がれるな」

「空返事じゃ、ありませんよ」

「まぁ……いいけど」


 曽布川さんは、いつものように下卑た笑いを浮かべた。


「人間はそう簡単に変われない。変わってはいけない。

 変わったお前を、『変わる前の友達』は受け入れてくれないからだ。

 変わる前のお前を、『変わった後の友達』は拒絶するからだ」

「…………分かってます」

「……必要なもの全部を手に入れられると思うなよ。……チビ女」


 空乃が、足まで上げて思い切り振りかぶって、曽布川さんの右頬を張った。

 明らかに隙だらけだったのに、曽布川さんはやはり、避けようとしなかった。

 人をビンタした直後だとはとても思えない爽やかな笑顔で、空乃は、痛そうに頬をさすりながら立ち上がった曽布川さんを見上げて。


「分かってます! ありがとうございました!」

「……そういやぁ、大宅にも右をやられたなぁ。バランスが悪い」

「私が左をやりましょうか?」

「怖い奴らだ。お前のような男勝りのゴリラ女にビンタされては命が無事かどうかも分からん、大人しく撤退しよう」

「誰がゴリラ女だ」


 せめてパッツン女と呼べ。……いや、これも嫌だけど!

 スタコラと校舎の奥へ逃げて行った曽布川さんと入れ違いになるようにエイプリルちゃんが戻ってくる。今度はさっきのより甘そうな『生クリームカフェオレ』なんて持ってるが、殺されなきゃいいけど。

 エイプリルちゃんは、初めて私たちの前で口を開いた。なんていうか、楽器で例えるなら、鉄琴みたいな高い声だ。


「あれれ? パイセンはどこいったの?」

「パイセン……って」

「曽布川さんのことなら……校舎の中に入ってったけど」

「そうなの? 教えてくれて有難いです! あなたのことが大好きです!」


 それだけ言い残して、エイプリルちゃんは校舎の中へ全速力で走って行った。

 ……あなたのことが大好きですとは。なんというか、帰国子女ばりのストレートな表現である。


 嵐のように過ぎ去った曽布川コンビを見送った私たちは、暑苦しい日差しに焼かれて半袖のセーラー服を濡らしつつ、溜め息を吐く。


「……ごはん食べに行こうか」

「そういえば、柿坂先輩がお金くれてたっけ……まぁあのお札は使わないで一生取っとくけど」

「あはは。咲らしいね」

「にしても、さーて。どこに行くかだけど……」


 と、伸びをした瞬間、スカートのポケットでスマホがバイブした。


「ん?」


 トークアプリの通知が来たようだ。

 送り主の名前は……『曽布川喜彰』。


「あのクズ、どこで私のID調べやがった!」

「プライバシーも何もあったもんじゃないよ……」


 とっととブロックしてやろうと思って開くが、私はメッセージの内容に面食らった。

 『メシがまだなら、駅前のバーガージャックに行け』

 『そして2人とも期間限定のビッグBLT&ポテトセットを頼め』

 『お前に選択権があると思うな』

 その3通のメッセージのあとに、あろうことか、私の中学時代の写真が送られてきているではないか!

 しかも修学旅行のときにアッチたちと撮った、めちゃくちゃ変顔の写真。こんなのを高校の友達に見られようものなら不登校は避けられない。おのれ曽布川、どこでこんなのを……!


「ど、どうしたの咲。すごい顔になってるけど」

「空乃。駅前のバーガージャックに行こう」

「えっ?」

「そして期間限定のビッグBLT&ポテトセットを頼もう。私たちに選択権はない」

「えっ? えっ?」

「さあ行くぞ」

「ちょっと待ってよ咲! ワケ分かんないよー!」


 私は空乃の背中を押して、昼食を取るため、もとい自分の黒歴史を守るため、学校から急いで飛び出した。



 微妙に昼飯どきを外したおかげか、バーガージャックは空いていた。

 注文から2分と待たず、テーブルにビッグBLT&ポテトセットが運ばれてきて、1番の注文札と入れ替えられた。

 崩れんばかりにそびえ立つ、肉厚バツグンのビーフとボリュームたっぷりレタスととろとろのチーズをバンズで挟んだタワー。その脇に、1本1本が太いポテトフライがついている。

 カロリーオンカロリーオンカロリー、アンド、カロリー。

 ……セットのドリンク、ゼロカロリーコーラにしとけばよかったかも。

 空乃が表情筋をめいっぱい引きつらせて言う。


「いやあ。女子力の欠片もないね」

「……本当にな」


 どうやらこのセット、期間限定のキャンペーン商品らしく、完食すれば何かいいことがあるらしい。店頭のポスターでチラッと見た程度なので、それ以上の詳細は不明だが。

 幸い私は、午前中に家を出てから何も食べていないので、胃がからっぽだ。カロリー問題はともかくとして、完食はさほど難しくないように思えた。


「あ、美味しい!」


 空乃が小さな口をめいっぱい開いて、辛うじて全ての具を一緒に、一口だけ食べて、そんな声をあげた。

 どれ、私も一口。バーガーを両手で持ち、大口を開けてかぶりつく。空乃に言わせれば「女子力の欠片もない」食べ方である。

 ……たしかに、おいしい。

 ジューシーな肉! シャキシャキ食感のレタス! 香ばしいチーズ! そしてふわふわのバンズ! ……と、それぞれが単体で味覚の暴力であるため、なんだかよく分からない味だけれど。

 コメントするなら、「すっごい体に悪そう! でも超おいしい!」って感じ。ああもう、私、食レポに恐ろしく向いてない。


「咲、すごい豪快ね」

「…………!」

「あはははっ。口いっぱいに頬張りすぎて、喋れなくなってるじゃん」


 あやうく喉に詰まらせかける。サイドのコーラを飲んで、応急手当。

 空乃は、ふっと目を伏せると、ポテトをつまみながら語り始めた。


「曽布川先輩に言われたことね、ずっと考えてたんだ。『人は変われない』。私も変わろうとしたけど、結局中途半端なままだなぁ、って……」

「…………別に。無理しなくていい」

「あは、ありがとう。……うん、咲がいてくれて嬉しい」


 空乃はそんな当たり前のことを言った。

 私だって同じだ。その言葉を口に出そうかと思ったが、言うまでもない、そう思ってハンバーガーの咀嚼を続けた。


「中学の頃の私は、今みたいに髪も染めてなかったし、コンタクトじゃなくて眼鏡だったし……めっちゃ地味だった。クラスでの友達はたった2人だけ。そこだけが私の居住区だった」

「……居住区」

「そ、居住区。そこ以外で生きようとすると死んじゃうの」


 たしかに、私も、自分の不慣れな環境で息苦しさを感じることはある。

 だけど、そこまで深刻に思ったことはなかった。

 空乃はもう一口、バーガーを齧った。私のと比べて、ぜんぜん減っていない。


「だけど、めちゃくちゃ仲良しだった。それこそ、そんじょそこらの『陽キャラ』さんたちよりも、深ーい仲良し度。

 中学を卒業するときね、『また一緒に集まろうね』って約束したの」

「それなら……何も失ってなんか、ないじゃないか」

「ううん。失ったの」

「え?」


 空乃は、口の中のバーガーをコーラで流し込んだ。

 そして、一番寂しい顔をして言った。


「4月、学校が始まってすこし経ったころに、『一緒に遊ぼう』ってラインが来た。

 それに私は、こう返信した。しちゃった。

 『ごめん、高校でできた友達とカラオケに行くの』」

「…………」

「咲も一緒で、女子4人男子5人で行った、アレだよ。

 私は高校で友達を作るのに必死だった。

 中学の時みたいに、2人組を作るときに困るような思いをしたくないって思った。馴染みたいって思った。ハブられたくないって思った。陰口を叩かれたくないって。先生にも苦笑いされるような生徒になりたくないって」

「………………」

「……惨めな思い、したくないって思った。

 2人の親友のことを蔑ろにした。捨てたんだ。ホント最低」


 空乃はヤケを起こしたように、バーガーをガツガツと一気に食べはじめた。

 コーラで流して、ポテトを突っ込んで。

 唖然とする私の前で、ものすごい速さでバーガーを食べ終わると、空乃はバーガーの包み紙をくしゃくしゃに丸めた。


「……それ以来、誘いは来ないんだ。

 無視されるのが怖くて、私からメッセージを送ることもできないの」

「向こうだって、空乃とまた遊べるのを待ってると思うよ」


 私は自分のことを棚上げして言った。

 少なくとも。少なくとも私の中学の友達は、私とまた遊べるのを待ってなんていない。アッチにはアッチの『新しい友達』がいる。


 人は変わろうと思っても変われない。

 変わってしまって、元に戻そうと思っても、戻せない。

 無くしたものは戻ってこない。


 空乃は、口の橋にケチャップなんかつけて、いつものように笑った。


「そうだといいね」

「…………」


 何か言ってやるべきなのに、その何かが全く出てこないまま。

 私は、高カロリーな食事を食べ終えてしまった。


 2人とも無言のまま、空っぽになったトレーを持って、レジの隣の返却棚へ向かう。

 ダメだ。このままじゃ……

 言うべき言葉も、語るべき自分もあるはずなのに、今がそのときのはずなのに、そんな意志に反して、頭は言葉を見つけられない。舌は回らない。


「ごちでした!」


 表情と声だけはすごく楽しそうに、空乃が言う。


「ご馳走様でした」


 けっきょく、私はそれ以外何も言えない。

 俯いて、パッツンの前髪で目が隠れている私に、スマイルが得意な店員さんが必死で目を合わせてきた。


「完食おめでとうございます!」


 ……ああ。そういえば、完食すれば、なんかいいことがあるんだっけ。


「こちら景品のキーホルダーなんですが、『バーガープードル』と『ポテトキャット』と『ナゲットライオン』の3種、どちらにされますか?」


 空乃は喜んで、「じゃあポテトキャットにします」と言った。

 私も猫が好きだ。2人一緒に、スマイルを崩さない店員さんから、ポテトキャットのキーホルダーを受け取った。


 2人、また無言になって店を出た。

 店を出て、自転車置き場に向かう途中で、空乃はポテトキャットのキーホルダーを私に差し出した。


「猫好きでしょ? あげる」

「え……」


 衝動的に、私は空乃の肩を掴んだ。

 ビックリした空乃が、手からキーホルダーを取り落とす。


「咲?」

「……持っててくれ」

「え?」


 私は急いでそれを拾い上げると、袋を破って、空乃のカバンに強引にそれをつけた。

 私のカバンにも、自分でもらったそれを付ける。

 そしてもう一度、空乃の肩を掴んだ。


「卒業するまでずっと付けていよう。これが劣化して取れちゃったら、また2人で新しいお揃いを買いに行こう!」

「…………っ」

「勝手に外したら許さない! いくら変わっても、私はずっと空乃と親友でいるから、だから空乃も――」


 それ以上は言えなかった。

 私の胸に飛び込んできた空乃が、大声で泣き始めたから。

 大好きな親友の背中をさするのに、忙しくなっちゃったから。


 セミの鳴き声と空乃の泣き声をステレオで聞きながら、私はふと、あの憎き1年上の先輩のことを思い出していた。

 まったく……こんなに株を上げて、次は何を企んでいるのか。


「ありがとう」


 中学の友達に向けて。

 神賀さんに向けて。

 柿坂先輩に向けて

 大宅さんに向けて。

 曽布川さんに向けて。

 新聞部のみんなに向けて。


 そして、私を必要としてくれる空乃に向けて……。

 私は、溢れ出る様々な人への感謝の気持ちを、その激情を、短いひとつの言葉に込めて飛ばした。

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