TIME LIMIT 私は告発させる

 時間は遡る。


★体育祭午後の部 13:38


「弓原さん、お聞きしたいことがあります」

「おう、何だ」


 一度ちゃんと、考えを頭の中で整理してから聞く。


「弓原さんが退学したのは、文化祭の準備段階の時期だったんですよね?」

「ああ」

「そのとき、自分の友達を傷つけようとした他校の生徒と喧嘩になり、『暴力沙汰を起こした』として、退学処分を受けた。

 他校の生徒と喧嘩になるといえば、学校の外。そして文化祭の準備期間という時期から鑑みるに……状況は、こうだったのではないでしょうか」


 証拠はない、ただの想像だけど……可能性は一番高いと思う。


「曽布川さんは、一緒に文化祭の買い出しに来たクラスメートを『被害者役』として、他校の生徒に襲わせた。そしてそれを、上手く弓原さんに目撃させた」

「……マジ、すげぇな」


 弓原さんは、ちょっと白々しく笑った。


「ホントにただの想像かよ。尊敬するぜ」

「ありがとうございます。……となれば、その『被害者役』のクラスメートとは、誰か。おそらく、曽布川さんと一緒の準備班だった人物です」

「………………」

「私には、それは分かりません。だから聞かせてください。

 あの日、あなたが助けたクラスメートって、誰なんですか?」


 弓原さんは、言いたくなさそうに苦い顔をして、手のひらできつく首をさすった。

 ほとんど根拠のないようなものだったが……今ので、少し予想ができた。


「言いたくないなら……もしかしてそれは、高頭万記子さんではありませんか?」

「……なんで分かった?」


 やっぱり、そうか……。

 私は緩く首を振って、自分の手で首を絞めるようにして揉んだ。


「高頭さんは、あなたの退学事件について話すときに、こんな風に……奇妙な素ぶりを見せました。首を絞められたトラウマを思い出したんじゃないか、って思って」

「その推理力怖ぇな、もはや……」

「いや、これはただのカンですよ、屁理屈みたいなものだし。それで……話していただけますか?」

「ああ……こんなの隠す必要もないんだけど、なんか渋っちまって、悪いな」


 観客席から、どっと笑い声がした。また誰かが芸をやったとかだろう。

 それを優しい目で眺めて、弓原さんは前髪をいじった。


「文化祭……俺たちは、体育館のステージで劇をする予定だった。高頭はナレーターも別にやってたんだけど、準備班も手伝ってくれててよ。

 それで、小道具づくりの材料を買うために、曽布川と高頭が、放課後に買い出しに行くことになっていた。1人でもよかったんだけど、曽布川が、自分のセンスでは自信が無い、とか言って、高頭を一緒に行かせた」


 いま考えれば、曽布川さんが無理を言って高頭さんを一緒に行かせたのは、弓原さんを罠に嵌めるための1手だったのだろう。


「俺は、その日はバイトがあって、急いで店に行ったんだけど……その途中で、他校の生徒に絡まれてる高頭を見かけた。せいぜいナンパとかだろうなと思ったんだが、俺が近付いた途端、そいつらは高頭の首を絞めたり、暴力を振るい始めた。

 あんまり話したこともねぇけど、クラスメートがそんな風にされて黙ってられねぇから……まぁ、やめろって止めに入ったら、待ってましたって感じで殴られて、喧嘩になった」

「それで……警察が来た?」

「いや。俺が2、3発殴ったら、すぐどこかへ行っちまって。騒ぎはあんまり大きくならなかったんだ、その時はな」

「…………」


 たぶん、その『2、3発』の間に、隠れていた曽布川さんが、盗撮したんだろう。

 『弓原さんが他校の生徒を殴っている図』が撮れたから、目的は達成。おそらく曽布川さんとグルだった他校生たちは、すぐに逃げて行った。……想像して、また胸糞が悪くなった。


「次の日すぐ正門前で止められて、校長室に呼ばれて……ドナドナさ。俺の高校生活ゲームオーバー、はははっ」

「…………弓原さん」

「質問は以上でいいか?」


 弓原さんは潰した空き缶を、バスケットボールみたいに、山を描いて放り投げた。

 惜しくもゴミ箱の淵に弾かれて、転がる。弓原さんは舌打ちした。


「はい……。証言、ありがとうございます」

「おう」


 空き缶を拾ってちゃんと捨て直して、弓原さんはこっちに戻ってきた。

 最後に一言、肩を叩いて、


「俺の友達たちを、どうかよろしく」


 と言い残して、弓原さんはギャラリー席の方へ消えて行った。



 少し時間を進ませる。200メートル走の直後のことだ。


★体育祭午後の部 13:49


 200メートル走が終わったカミネを捕まえて、私はカミネを、自動販売機の前まで誘導した。意識してではないが、この体育祭中、他の人に聞かれたくない話をするときは、ここに誘導するようにしている。

 私は、この告発事件に関する推理を、簡潔にカミネに話した。

 予告状の送り主は誰か。その人は、どうやって『告発させる』つもりか。告発される人は誰なのか。その人が犯した『罪』とはどんなものなのか。


 それを話し、意図を伝えたうえで、私はこう言った。


「今すぐ書道部室に行って、

「……分かった。いまの話が本当なら、それで解決よね?」

「ああ……たぶんな」


 推理と呼ぶには根拠が少なく、想像と呼ぶには理屈が多い。私は自分の思い描いた想像に、ある程度の自信は持っている。

 カミネは頷いた。


「分かった。騎馬戦まであまり時間がないけど……なんとかする」

「助かるよ!」

「…………ありがとう」


 何でここでありがとうなんだ?

 とはいえ、今日1日一緒に調査をしてきた経験から、大体どういうニュアンスなのかは分かる。

 任せてくれてありがとう、若しくは、告発を止めてくれてありがとう。


「私の方こそ、ありがとう」


 こちらこそ、引き受けてくれて、ありがとう。一緒に調査してくれて、ありがとう。


「行ってくる。万が一騎馬戦に遅れたら、言い訳頼むわよ」

「うん。腹痛とか……」

「それ以外でね。デリカシーないわね、本当に男なんじゃないかしら」

「あーあー、分かったから早く行って! そもそも遅れなけりゃいいんだからさ!」


 カミネは悪戯っぽく口元で笑った。


 これで巻物を入れ替えれば、工作完了。体育祭は平穏に終わる。


 ……だけど、何かがおかしい。上手く行き過ぎだ。

 そう気付かされたのは、タイムリミット直前になってからだった。



★体育祭午後の部 15:02


「続いてのプログラムは、部活動対抗レースです。部活動対抗レースに出場する部活動団体の皆様は、各自衣装やバトンなどを準備の上、所定の位置に待機してください。

 繰り返します……」


 ここらへんの集合はグダグダになりがちなので、予め何回かリハーサルでやっている。私はグラウンド中央奥、所定の位置へ向かった。

 新聞部には、特に専用の衣装とかはない。バトンは丸めた新聞、パフォーマンスとしては、走っている最中にギャラリーに向けて号外をばら撒くだけだ。

 渡良瀬先輩からバトンと新聞の束を渡されたキヨが、第1走者の待機場所へ行く。

 部活動対抗レースは、メンバー4人が半周ずつ走る。つまり、第1走者と第3走者、第2走者と第4走者アンカーは、同じ待機場所となる。


「咲!」

「ん? カミネ?」


 まだ第1レースの準備が完了していなくて、周囲がざわざわと賑わっている中、カミネがこちらへ走ってきた。

 膝に手をついて息を荒げながら、カミネは、信じられないことを言った。


「工作、無駄だった」

「は?」

「入れ替えは無駄だったのよ! ……軸丸さん、さっき、自分のカバンから巻物を出して、第1走者に渡したわ!」


 脳髄に感嘆符を叩きつけられたような。或いは鈍器で脳天を殴りぬかれたような。

 ……眩暈すら覚える。私は、人ごみの奥で書道部員の肩を叩く軸丸さんを、恨めしく睨んだ。

 書道部室で話を聞いた時に、わざと独り言を言ったのは、こうやって無駄に工作させるためだったとでも言うのか。そこまで計算して、周到に計画してやっていたというのか。

 私は頭を左右に振った。


「……どうする、もうバトンを入れ替えてくださいなんて言う時間は……」

「第1レースが始まります。出場選手以外の方は、グラウンドの外へご退場願います。繰り返します……」


 ……タイムリミット!


「ごめん、私じゃ、無理だったね……」

「カミネ!」


 泣きそうになって走り去ろうとするカミネを、腕を掴んで引き止めた。

 ひどく弱ったカミネの肩を掴んで、無理やり笑顔を作った。


「大丈夫。私に任せて」

「でも……」

「いいから。……応援頼んだぞ」

「…………うん。絶対に、お願い……」


 カミネは、上擦った声で言って、グラウンドの外へ走って行った。


 ……どうする、もう時間がない。

 第1レースが始まってしまえば、1レースあたり大して距離の長くないリレーだ、すぐにタイムリミットは訪れる。

 このまま何もしなければ……今までの調査も、協力も、全部水の泡だ。

 私は頭を掻いた。頭を掻いて、すぐにやめた。

 ダメ元とはいえ、即戦力で状況を変え得る一手がある。

 私は第4走者の待機列で、ちょっと腰を浮かしながらしゃがんだ。


「部活動対抗レース、運動部第1レースは、野球部、バレーボール部……」


 さりげなく高頭さんの隣に移動し、ひそひそ声で話しかける。


「高頭さん……お願いがあります」

「ん? ふふっ、手加減して、とかはナシだよ?」

「……いえ。

「え?」


 高頭先輩が、少し優しい笑顔を引きつらせた。

 眉を下げて、ゆるゆると首を振られる。


「それは、ちょっと無理……かな。ゴメンね」


 ……今ここで、退学事件のこととか、予告状のことを言うべきだろうか。

 いや、それはダメだ。それだと、半ば脅迫のようになってしまう。だがここであきらめるわけにはいかない、私はなんとか食い下がった。


「じゃあ……1着以外では、絶対に開かないでください。それで、いいですか?」

「……ねえ、このバトンは何なの?」

「体育祭が終わったあとで、軸丸さんを連れて書道部室に来てください。全部説明します。……さっきのこと、了承していただけますか?」

「アズサを? なんで……?」

「…………」

「……分かった。たしかに、2着や3着でパフォーマンスしても、カッコ付かないもんね。でも、1着でゴールしたら、絶対に開くからね」

「それで構いません」


 よし……。なんとか、首の皮1枚ギリギリだが、条件を呑んでもらえた。

 これで、今回の体育祭の命運は、文化部第2レースの走者たちに託された。

 書道部以外の部活が1着でゴールすれば、何事もなく体育祭は閉幕。だが書道部が1着でゴールすれば、告発は予告通り行われてしまう。

 私は、まだ第1レースが始まってもいないというのに、心臓の鼓動をバクバクと高鳴らせていた。


「用意! …………スタート!」


 パァン!!


 いっそ、本物の銃弾で、このキリキリと痛む胃を貫いてほしいと思った。



★体育祭午後の部 13:50


 書道部が、待機場所の前で、軸丸さんの書いた『必勝』の書を広げて、ランナーたちに声援を送っていたのが見える。


 気分は、推定有罪の魔女裁判を受ける、無実の被告人。

 それか、これから処刑される罪人。


「文化部第1レース、1着は料理部、2着は化学研究会、3着は天文部でした!

 続いて最終レース、文化部第2レースを行います。

 出場団体は、漫画研究会、書道部、放送部、吹奏楽部、新聞部、将棋部です」


 待機場所で、ギャラリーのヤジや笑い声、叫び声。今まで身近で愉快だったそれらの声は、1枚次元の壁を挟んだような、遠いどこかで鳴っている音のような。

 この場で今、私以外に危機感というものを抱いている人がいるなら、それはおそらく、カミネと弓原さんくらいだろう。

 このままぐるぐると視界が暗転して、目が覚めたら保健室のベッド、みたいなオチが、一番精神的にラクなんだけどなぁ。残念ながら、意外と私のメンタルは丈夫らしい。


「キヨー! 渡良瀬先ぱーい! 忍ー! 咲ー!!

 頑張ってねー!!」


 空乃の応援が、今は逆に、もっと胃を痛めつける。

 ごめん。私、もしかしたら告発を止められなかったかもしれないんだ。

 心の中で謝っても、この胸の高鳴りと嫌な冷汗は、一向に収まらない。


「位置について!」


 3レーン目でクラウチングスタートの体勢を取るキヨに、強い視線を送る。

 頼むぞ……書道部を止めないと、体育祭の楽しい雰囲気は全て崩壊するんだ。


「用意!」


 天高く向けられたピストルが、太陽を指し示す。

 私はいま、銃声にすら怯えている。


「スタート!」


 破裂音と共に、第1走者が一斉に土を蹴る。

 スタートダッシュには自信があるとか言っていただけあって、キヨは開始5メートル地点を1位で通過する。

 体を斜めに傾けながらコーナーを曲がる。ここでギャラリーが最も近くなるので、順位を諦めてパフォーマンスに精を出す人たちは、このへんで何かやるのだ。

 新聞部も少しばかりパフォーマンスに近いことをする。キヨは、左手に持った号外の束を1つ、ギャラリー席に向かって放り投げた。


「号外でーす!」


 号外の束は4つ用意されていて、バトンと一緒に渡して、それぞれ1人1束ずつ、走っている途中に指定のポイントで投げることになっている。さすがにバラバラの紙をばら撒いては、外側を走る人への走行妨害になるだろうという理由からだ。

 スタートダッシュこそよかったものの、キヨはその後1人、2人と抜かされ、3位でバトンを渡した。1位は漫画研究会みたいだが……2位に書道部がついているのが、心配だ。


「第1走者は漫研、書道部、新聞部の順番で折り返します! 下位のクラブのみなさんも諦めず頑張ってください!」

「放送部おっそいぞー!」


 実況の放送部が、自分たちの出したランナーにヤジを飛ばして笑いを誘う。

 キヨからバトンを託された渡良瀬先輩は、『可もなく不可もなく』という自称通り、堅実なペースで走った。特に順位を変動させることもなく、じわじわと4位の吹奏楽部に差を詰められながら、コーナーを曲がる。


「号外、号外ですよー!!」

 先生たちの座る席へ向かって、号外新聞の束を投げる。

 ああ、いっそのこと3束全部一気に投げてくれれば、忍と私が走ることに集中できていいんだけど……。

 と、私は視線を横に滑らせて、悲鳴を上げそうになった。

 実況が私の不安を煽る。


「書道部、漫研を抜かしましたぁー!!」


 書道部、1位浮上。

 まずい、この時点で1位になって、差を開けられたとしたら……!

 最悪の想像は、ゴール後まで及んだ。和やかに行われる体育祭で、剣呑な雰囲気の告発文が公開されて……空気も、何もかも、ぶち壊しになる。

 書道部の告発状……もといバトンが、第3走者である軸丸さんに渡った。爽やかな笑みの裏では、事態が上手く進んでいることにほくそ笑んでいるのだろう。

 書道部にバトンが渡されて約2秒、新聞部のバトンは渡良瀬先輩から忍に渡った。バトンパスがスムーズに行われ、忍は上手くスタート加速できた。追い付いてきていた吹奏楽部を突き放し、直線を走る。


「忍―っ! 頑張れーっ!!」


 無意識に声援が飛んだ。

 忍は直線で勝負をかけにいくようだ。2位の漫画研究会との差を、じわじわと詰めていく。がむしゃらに脚を回転させる忍の横顔に、私は祈った。

 コーナーに差し掛かったとき、忍は一瞬、こちらを見た。


「号外でーす!! ああっ!」


 忍は2つ残っていた号外の束を、、或いは、2つとも投げてしまった。

 ちょっとわざとらしいけど……ありがとう、忍。

 私は立ち上がって、テークオーバーゾーンに着いた。

 大きく深呼吸をする。


 ……他の走者に頼るな。

 私が抜かせば、ハッピーエンド。

 私が抜かせなければ、バッドエンド。

 何としてでも、1着でゴールし、軸丸さんの企みを阻止しなくてはならない。失敗は許されない。


 忍が近付いてくる。

 私は少し早く走り出した。隣のレーンで、2位の漫研がバトンパスを完了する。

 忍と私の歩幅がリンクしていく。3、2、1……エイトビートでカウントダウンを刻んで、私は後ろに左手を差し出した。


「頼んだよ!」

「任せろ」


 パシッと音が鳴るほど強く、手のひらにバトンが叩き付けられた。

 キヨ、渡良瀬先輩、忍……カミネも。いや、それだけじゃない。これは1年前から続く、マイナスの感情もプラスの感情も載せて、色んな人が紡いできたバトン。

 多分ブサイクだ、今の私は。

 閉じた口の中でぐっと歯を食いしばり、腕も脚も、フル駆動。体勢は大きく前傾姿勢で、1歩間違えたら転倒しそうなぐらいだ。

 漫研の背中が近くなって、視界の端から消えた。


「おおーっと、新聞部、猛進! 漫研を追い抜いたぁ!!」

「恥ずかしくないのか放送部―っ!」


 歓声も、ヤジも、無音も、視線も、全てを追い風にして私は進む。

 高頭さんの背中はまだ遠い、このままでは追い付けない。だけど絶望している時間はない、体の中にあるすべての燃料を燃やすように、私はさらに歯を食いしばった。

 どれだけヤジが飛んでも、どれだけ私が追い上げてきていると実況されても、高頭さんは振り返らない。ただ、さらに加速した。

 レースは最終コーナーに差し掛かった。

 ここを曲がって最後の直線で……全てが決する。


 負けられない。何度言い聞かせたか分からない想いを反芻する。

 

「咲ぃぃーーっ!!」

「頑張れぇー!!」


 体をグラウンドの中心に向けて傾け、コーナーを小さく曲がる。

 最後の直線に差し掛かった時、高頭さんとの距離は、体3つぶんくらいまで縮まっていた。

 走れ、走れ、追い付け追い付け追い付け――!

 ゴールテープが真正面に見えた途端、焦燥感が加速して、体がさらに前に傾いた。確実に今までの自分の限界を超えて加速している。

 高頭さんの隣に並ぶと、ようやく高頭さんは、私の方をちらっと見た。追い抜かれたくないという思いが、高頭さんに、さらに大きく腕も脚も振って走らせる。


「最後の30メートル! 勝つのはどっちなのかーっ!!」

「放送部あとで死刑な」


 間に合え。

 私が、ゴールテープを切る。


「咲ぃーーーーっ!!」


 カミネや、空乃たちの声が、遠くて近い。

 バトンを固く握って、泣きそうなほど、一生懸命走る。

 弓原さん。高頭さんと軸丸さん。曽布川さん。汚くてもエゴでも、後悔ばかりでも、なかったことにしてはいけない想いが……。


「新聞部、前に躍り出たーーーーっ!!」


 いま、ゴールテープと一緒に、何かを断ち切るときがきた。

 ほとんど倒れ込むように……というか、行き過ぎた前傾姿勢のせいでヘッドスライディングみたいになりながら……。


 私は、ゴールテープを切った。


「ゴォーーーール!! 1着は新聞部! 惜しかった2着、書道部―――っ!!」


 ワアアアー……っと、鼓膜を破るような歓声が、グラウンドで振動を増幅させて轟く。

 グラウンドの砂から顔を上げると、黄色い景色だった。

 すべての人が、笑顔や驚きの表情を浮かべて、私に拍手を送ってくれた。360度、どこを向いても祝福してくれる、最幸福のパノラマな景色。

 ランナーズ・ハイなのかな。溜まった涙を堪えて、私は笑った。

 膝とかについた砂をぱんぱんと払い、ゆっくりと立ち上がると、


「咲ぃぃーーーー!」

「咲ちゃーん! 最高よーーー!」

「うわあああん、咲ぃーっ!」


今度は仰向けに倒された。

空乃、渡良瀬先輩、忍が、思いっきり抱き着いてきたのだ。

瞳に映る青空。そこに、3つの手のひらが差し出された。


「イェーイ、ナイス!」

「お前のおかげだよ。ありがとな」

「小池さん、すごく頑張ってたね。……本当に、ありがとう」


 男子3人、下邨とキヨと柿坂先輩が、ハイタッチを求めてくれた。

 3つの手に、順番にぱんぱんとハイタッチしていく。ラスト、柿坂先輩の手だけ、ちょっとねっとり触っておいた。自分へのご褒美ってことで。

 運動場の砂の上に寝転んで、青空を見上げて……私は体育祭を無事に終えられる喜びを、強く強く噛みしめていた。


 しばらくして起き上がると、巻物の中身を1人で確認したらしく、青い顔をした高頭さんと目が合った。

 ……最後の学年別リレーが終わったら、全てをお話しします。


 今は、この楽しい気分を存分に味わっておこう。私はまた、新聞部のみんなと笑いあった。



★体育祭終了後 16:20


 体育祭は、平穏無事に終わった。

 いつもの無表情はどこへやら、安堵のあまり涙をこぼし、何度もお礼を言ってくるカミネを連れて、私はいくつかの持ち物を持って、書道部の部室に行った。

 夕暮れの校舎から見下ろした景色では、2年生たちが、円陣を組んで大声を出し、体育大会の余韻に浸っている。青春だな、と感じる一方で、本来ここにいられるはずだった弓原さんのことを思うと、少しだけ、寂しい気持ちになる。

 私は躊躇いを振り切って、書道部のドアを横滑りさせた。


「……小池さん」

「……………………」

「高頭さん……軸丸さんも連れて来てくれたんですね、よかった」


 書道部室にはすでに高頭さんと軸丸さんがいた。

 私たちが来るなり不安げな表情でこちらへ駆け寄ってきた高頭さんとは対照的に、軸丸さんは一度ちらりとこちらを見ただけで、黙って明後日の方向を向いた。

 一足早く真相を知っているカミネは、心配そうに、私のジャージの裾を握った。

 高頭さんは、縋るように、若しくは責めるように説明を求めてきた。


「ねえどういうこと、なんでバトンにあんな……」

「………………」


 体育祭の喧騒が過ぎ去った夕暮れの書道部室。

 いるのは4人、私とカミネと軸丸さんと高頭さん。

 あるのは4つ、巻物3つと沈黙。

 棚に入っていた巻物には何も書かれていなくて、机に出されていた方にはある男子への告白が。そして高頭さんが持ってきた巻物には、ある2人への告発文が書かれていた。


「分かる範囲で説明します。想像で補っている部分もありますが……」

「……………………」

「咲」

「うん、分かってる」


 軸丸さんの顔色を窺ってても仕方がない。私はカミネに頷いた。

 困惑する高頭さんに対して、軸丸さんはさっきからずっと、俯いて黙っているだけだ。髪が前にぱさりと垂れていて、表情が分からない。

 私は、唇を舐めて湿らせた。


「これは高頭さんが知らないことですが……。

 私たちがこの部屋で、軸丸さんから話を聞いていた時です。軸丸さんは私たちに、これは下書きだと言って、『廣部くん大好き!』と書かれた巻物を見せた後、それを写真に撮って、独り言のようにこう言いました。

 『マキに送って、と……』」

「………………」

「軸丸さんは、その『下書き』をしまい、もう片方の巻物を机の上に置いて、出て行ってしまいます。このフェイクのせいで、私たちは大きな勘違いをしてしまいました」


 告発文の書かれた巻物を一旦下げて、太さの違う2本のダミー巻物を並べる。


「その勘違いな推測は、こうです。

 軸丸さんは、『廣部くん大好き!』と書かれた書の写真を、『机の上に置いていくから、リレーの前に取りに行ってね』という旨のメッセージと共に、高頭さんに送ります。

 しかし、本当に机の上に置かれていたのは、こちらの巻物だった。こっちには告発文が書かれている。

 軸丸さんは、高頭さんがこの書を、『廣部くん大好き』と書かれた本物のバトンだと勘違いして持っていき、リレーでゴールしたのち、みんなの前でそれを公開することを狙っていた」

「……思えばヘンでした。

 わざわざ私たちの前でそれを見せるのも、下書きだからなんて言うのも、高頭さんに送るって独り言で喋るのも。何より、下書きの巻物と本番の巻物で、はっきり分かるほど太さが違うなんて、同じ長さの文字を書いているならあり得ません」

「ですがそれがフェイクだとは気付かず……私たちはこの推測をもとに、この2本の巻物の場所を入れ替えるという『工作』をしました」


 ここで私は、3本目……実際に高頭さんが持って走った、告発文の書かれたバトンを机の上に置いた。


「しかし、軸丸さんは最初から、告発文が書かれたこの巻物を持っていたんです。私たちに無意味な工作をさせて、結局は最初から、告発文は私たちの手の届かない場所にあったんですね」

「………………………………」

「これが、今回の告発事件の、トリックみたいなものです」

「ちょっと待って!」


 高頭さんが、軸丸さんと私を交互に見て、大声で訴えてきた。


「なんで、あなたがゴーストライターのこと知ってるの? 書道部の秘密にしていたことなのに……」

「軸丸さんが教えてくれました。まあ、それが無くても……この部室に飾られたあなたの書を見れば、簡単に分かることですが」


 お世辞にも上手いとは言い難い、悪筆な書を指差しながら、私は去年の体育祭の新聞を取り出した。

 新聞記事の中で、晴れやかな表情で高頭さんが持っている書の字は、どうひいき目に見ても彼女が書いたとは考えられない、達筆そのものだ。

 記事を見て、高頭さんは呻くように顔を歪めた。普段の優しい表情からは考えられない。


「結論。

 軸丸さんは、バトンに使う書をすり替えて、高頭さんに罪を告発させようとした。

 この体育祭で、軸丸さんは、高頭さんに、曽布川さんと高頭さん自身の罪を、

 ……これが、『この体育祭で、私はある人物に罪を告発させる』」という予告文に隠された、本当の意味です」

「…………そうよ」


 軸丸さんが、笑って言った。

 嫌味でも嘲笑でも自嘲でもない、どこか晴れ晴れとした笑い。


「私がやった。気取った予告状も、偽物のバトンも、告発文も……」

「アズサ!? なんでこんなこと……!」


 高頭さんが目に涙を溜めて、軸丸さんに詰め寄る。

 ……見ていられなくて、私は顔を背けた。


「やっぱり去年のこと、まだ許してくれてなかったってこと……!?」

「…………」

「去年のこと、と言うと、高頭さんが軸丸さんの書を、勝手に告白に使ったことですか?」

「なんで……」


 なんでそんな言い方するの、と言ったのだろうか。

 唇だけはそう動いたように見えたが、ほとんど声になっていない。

 私は責めるように溜め息を吐いた。ここで道を間違えなければ、こんなことになるまでこじれることは、無かったはずなんだ。


「軸丸さんは私たちにこう言いました。

 『今年、アキのゴーストライターだし』……って」

「……よく聞いてるものね」


 軸丸さんは上品に、薄く笑った。


「しかし……この新聞写真に写った書は、どう見ても高頭さんのものではありませんでした」

「…………うっ」


 高頭さんはあからさまに目を背けた。


「では誰の字か? 考えるまでもありません。この美麗な字は、軸丸さんのものだ」

「………………」


 今度は反対に、高頭さんが黙って俯いてしまった。下唇を噛んでいる。

 軸丸さんは、未だに微笑を浮かべて、私の出した新聞を見ていた。

 おもむろに、切り出される。


「私ね……脚をケガしなければ、あのままアンカーで走っていれば、弓原くんに告白しようと思ってたの」

「えっ……」


 驚いたのはこの場で高頭さんだけだった。

 私も……そしてカミネも。確信とはいかないまでも、なんとなく想像はついていたから、務めて作った無表情でそれを受け止めた。


「走るのは速いし、字も、部内ではけっこううまい方だった。私はアンカーを任されたんだけど、体育祭のほとんど直前、ちょっとした事故で脚をケガして、走れなくなった。

 代役になったのは、私の次に走りが速いアキだった。よね?」

「…………」


 問いかけに、高頭さんは答えない。顔も上げない。今にも耳を塞ぎそう。


「字が下手くそなくせにどうするつもりなのかな、って思ってた矢先、アキは私に言ってきた。『お手本書いてくれない?』って」

「……お願い、やめて」

「やめないよ。やめない」


 拒否した軸丸さんの顔は、恐ろしく情に欠けた、真顔。


「私は信じてた。このタイミングでそんなこと言ってくるなんてちょっと怪しいな、って感じた気持ちを閉じ込めて、信じて、『お手本』を渡した。

 そのお手本を、アキ、あなたは自分の書いたものとして盗用した」

「…………ごめん」


 高頭さんが、涙を流して握ってきた手を、軸丸さんは振り払った。

 拒絶された高頭さんは、崩れ落ちるように、近くにあった椅子に座った。軸丸さんは無言で、それを見下した。

 高頭さんが泣きながら、開き直りにも近い弁明をする。


「だって……そのあと、何も言わずに、今まで通りの友達でいてくれて。今年に至っては、自分から『ゴーストライターをやる』なんて言ってくれて……許してくれたんだと、勝手に思ってた」

「…………表面上だけよ。本音では、ずっと憎んでた」


 どんな言葉を使う時も、微笑を浮かべるか無表情だった軸丸さんが、眉を上げて、静かな怒りの表情を露にした。


「もちろん、体育祭の一件だけで、ここまで事を派手にしたりしないわ」

「何て……? 私、それ以外は何もしてない!」

「嘘吐くな!」


 怒鳴って高頭さんを怯ませて、軸丸さんはこちらに目を向けた。


「あなたなら分かるでしょう? 1年前の真相……」

「……軸丸さん、あなたは、、弓原さんを罠に嵌めたと言いたいんですね」

「何よ、それ! 私、そんなことしてない!」


 私に掴みかからんとする勢いで詰め寄る高頭さんを、カミネが止めた。

 夕日が強くなる。

 私は、ここで弓原さんの名前を出すべきか迷って……軸丸さんの顔を見て、やめておいた。


「事件をよく知る人が言っていました。高頭さんが他校の生徒に襲われたところを、弓原さんが助けた。そのときに他校生を殴ったせいで、弓原さんは退学処分を受ける羽目になった、と」

「それを聞いた時、思った。曽布川が、その他校生とアキと一緒に、グルになって弓原くんを陥れたんだ、って……」

「違う、私、そんなこと知らなかった……! 蹴られて、首も絞められて、死ぬかと思って……!」


 高頭さんは、自分の首を絞めるように抱いて、一層泣いた。

 私と目を合わせて、首を縦に振ると、カミネはゆっくり歩いて、書道部室を静かに出て行った。

 私は、高頭さんの味方をする気はありませんが、と前置きして言う。


「高頭さんがグルだったとは考えにくいのではないでしょうか」

「……なんでそんなこと言えるの? 今日まで知らなかったくせに」

「高頭さんから、最初に退学事件の話を聞いたときも、こんな風に、首を絞めるような仕草をしていました。これはトラウマだと思われます」

「…………こじつけよ」

「たしかにそうかもしれません。だけど、高頭さんがグルだったという証拠もないでしょう?」

「だとしても!」


 大粒の涙が、軸丸さんの頬を伝って、落ちる。


「どうしても許せなかった。退学事件のことを忘れてしまおうとする態度も、自分は関わっていないと嘘を吐くのも、どうしても!」


「あのときのことは、怖くて、本当に思い出したくなくて……」


「うるさい! 黙れ! じゃあなんで、あんたも校長室に呼ばれたとき、弓原くんを助ける証言をしてくれなかったのよ!」


「先生に言われたのよ……! かばうようなことをしたら、お前も処罰の対象になるぞって! なんでそんな理由で疑うの!?」


「体育祭で私の書を盗用した時点で、信頼なんて全くしてなかったのよ! 平気で人の書を使うような奴、疑われて当然じゃない!」


「酷い、酷い! そんなこと言わないで!」


「黙れ、死ね! あんたが……退学になればよかったのよ! クズ!」


 声を荒げて言い合い、最後に思いっきりの大声で高頭さんを罵倒して、軸丸さんはその場に、膝から崩れ落ちた。高頭さんも、椅子に座ったまま、悶えるように泣く。


 ケガさえなければ、達筆な告白だけで済んでいた。

 高頭さんが道を間違えなければ、下手な告白だけで済んでいた。

 曽布川さんがあんな事件を起こさなければ、弓原さんは学校にいられた。


 不幸と悪意が、どんどんと事態を悪化させる向きにバトンを繋いでいった、最悪のリレー。おそらくこの禍根は、ゴールテープも、恨みも、関係の悪化も断ち切ることはできない。

 不幸は悪意を呼び、悪意は悪意を呼ぶ。

 4人がこの学校を去ったあとも、永遠に、マイナスのバトンは受け継がれるのかもしれない。そう考えると、空寒い想いがした。


 高頭さんが、もう一度軸丸さんの手を握る。今度は、すぐには振り払われなかった。


「ねえ……私たち、もう、今までみたいにできないのかな」

「…………うん。もう無理よ。

「………………」


 今度は、高頭さんの方から、手を離した。


 同時に、部室のドアが開かれる。


 ……時間が来たようだ。

 ここから先は知らない。知ってはいけないし、知ることはできない。


「嘘……?」

「ああっ…………ごめんなさい、ごめんなさい、本当に……」


 軸丸さんはその人を見て、ただただ、困惑して立っていた。

 高頭さんはその人を見て、ただただ、泣いて謝っていた。


 私は、カミネが連れてきてくれた弓原さんと、入れ違いで部室から退出した。

 すれ違い際、弓原さんは言った。


「……ごめん。ありがとう」

「…………」


 書道部室のドアが閉まる。

 中に2年生を閉じ込めて、臭いものに蓋をして、


「帰ろうか」

「……うん」


 私とカミネは、校舎をあとにした。


 バトンを繋ぐのは、嫌だった。

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