華と鄙

涼風 弦音

華と鄙

 田舎者の俺がまさか、名古屋の本社に転勤になるとは思ってもいなかった。

名古屋は全体的に華やかな街だ。メイエキ(名古屋駅の略称)の待ち合わせ場所と言えば、金時計。ガーデンテラスの開放的な駅にそびえたつ金の時計は、それだけで名古屋人らしさを表している。そして、この街は食にも挑戦的らしい。一歩歩けば『新商品!』なんて売り文句が飛んでいるし、名古屋飯代表の「あんかけスパ」は味だけでなく、音、匂い、全てでインパクトだらけだ。水族館に、科学館に、名古屋城。「魅力度の低い街、名古屋」なんて言われるが、この都市は、魅力がないんじゃない。全てに全力投球の街で、選べないだけだと、余所者の俺は感じた。

 名古屋本社に勤めて二年が過ぎた。何となく、この街の雰囲気にも慣れたと思う。そんな時、俺は仕事で豊田市に行くことになった。豊田市は名古屋から一時間程にある中核都市だ。百メートル道路を車で走る。徐々に高層ビルが畑に変わっていった。たった数十キロ走っただけで、こんなにも雰囲気が変わるものなのだろうか。高速のICを降りる時、『車のまち、豊田市』という看板を見た。どこかで聞いた単語だと思っていたが、トヨタ自動車の本社はここにあるようだ。

「……豊田市ってトヨタ車以外、走ってもいいのか?」

愛車がトヨタ車じゃないことに、ギアを握る手が汗ばむが、周りを見れば……どうやら豊田市は寛容らしかった。俺はほっと胸を撫で下し、取引先に向かった。

 

 仕事は予定より早く終わった。先方は、俺が豊田初上陸と知ると、「香嵐渓こうらんけい」という紅葉の名所を教えてくれた。今年初の紅葉狩りに期待している自分がいた。

 さわさわと葉の擦れる音がする。眼前に広がるのは、幾重にも重なる紅と黄金色の化粧をした紅葉や銀杏だった。車から降りて、屋台の並ぶ道に足を進める。沿道から聞こえる賑やかな声を聴きながら、人の波に身を預ければ、川が見えた。透明なキャンパスは紅葉を映し、優しいせせらぎと共に揺らいでいる。

「凄いな……」

待月橋と書かれた真っ赤な橋の上から川を見下ろすと、小さな魚の群れが流れに逆らっていた。

『こっち、りん』

不意に、か細い声が背に掛けられた。その時、秋風が騒めいた。風を待ち、俺は、待月橋を渡りきり、階段を降りて川岸に向かった。革靴では転がる岩の上を歩くのは少々難しい。何とか足場を見つけ、川を覗き込んだ。水面に映るのは、鄙やかな紅葉とスーツの男だった。アンバランスなその絵を、小魚が一匹つうと裂いた。

「美味そう」

今日の夕飯は、から揚げにしようと考えていたとき、俺の顔の横に、端整な少年の顔が映った。

「その魚、不味くてあかんわ。骨ばっかで食えたもんじゃない」

 驚き振り仰ぐと、彼は愛嬌のある狐目を大きく開き、にっと笑った。

「そんな驚かんでもいいじゃん」

「悪い、いきなりだったから。君はここの子かい?」

明らかに標準語とは違う言葉だった。みゃーみゃー言ってないから、名古屋弁ではなさそうだ。

「うん。お兄さん、余所者だら?」

「え? うん。今日は観光に来たんだけど」

「じゃあ、一緒に遊ぼまい」

「……まい?」

 彼の言葉を咀嚼する前に、少年は俺の手を握ると、走り出した。彼は、山の子らしくひょいと岩場を跳んで駆ける。俺は彼に着いていくのが精一杯だった。だが、足は幼少期の記憶があるらしく縺れることはない。寧ろ、コンクリートとは違う自然の感覚に喜んでいるらしい。

「ここの紅葉揚げ、美味しいんよ!」

彼は突然、あばら家の前で止まった。ここは小店らしい。にこにこしながら、指をさす先には薄衣で揚げられた紅葉があった。……あれは食べ物なのか?

「騙されたと思って、食べてみりん!」

少年の熱い視線に根負けし、人の好さそうなおばさんに二つ注文した。一つを少年に手渡すと、彼は嬉しそうに頬張った。……半信半疑だったが本当に食べられるようだ。

「食べんの?」

意を決して、明らかに食べ物ではない赤い葉に噛り付いた。パリパリという小気味良い音がして、口の中にふわりと甘さが広がった。

「ふふ、美味しいだら?」

「うん、美味しい

「たぁけ、使い方間違っとるわ」

ふいとそっぽを向いた彼の背を追う。色とりどりの紅葉と、地面を彩る落ち葉たち。そして、足が踏みしめる土の感覚。隣では、川の水が岩にあたる音と鳥の囀り。まるで数十年前に戻った気がした。目の前の少年は、俺が後ろにいるのを確認すると嬉々と話し出した。

「あんなぁ、この紅葉は香積寺の三栄和尚が植えたんよ」

「君はそのお寺の子なのかい?」

「んー……。まぁ、そんなところ」

振り向いた彼の顔は、赤い夕陽のせいで朧気だった。遠くで烏が帰る時刻を告げている。

「そのお寺見てみたいんだけど……連れて行ってくれないか?」

「どうしても? ちぃと遠いから、えらいかもしれんけど」

「偉い?」

彼は溜息をつくと、俺の手を引いて歩き出した。石の階段をこつこつと二人で登っていく。石段の両側に植えられた紅葉たちは、俺らに会釈をするように風と戯れていた。

「みんな、愛知にはきんきらな名古屋しか無いと思っとる。みんな、秋しかんもんで寂しいじゃんね」

最後の一段を登り終えた時、彼は切な気に微笑み、振り返った。彼の視線を追えば、眼前に迫るのは、夕陽にもう一色の赤を飾られ、燃える紅葉の山だった。手前の紅葉と対岸の紅葉が一つになって溶け混じり、一瞬で目に焼き付く。

「でも、秋はこんなに鄙で、綺麗だもんで、大好きなんよ」

「ありがとうな、連れてきてくれ……」

繋いでいたはずの左手は、消えていた。

『また、おいでん』

優しい声がして、紅葉が一枚ひらりと舞い落ちた。小さくて赤いそれは、まるで子どもの手のように愛らしかった。


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