駅~再開~

時織拓未

連作としての本編

 私は素知らぬ顔をして、彼の前を横切り、ホームに降りた。

「おい! 大丈夫か! 顔色が悪いぞ」

 背後から老人の声が聞こえた。

 後ろを振り返ると、老人が左隣で俯き加減に座った妻の顔を覗き込んでいた。

 途端に車内で緊張感が走る。

 ドア横の手擦りに身を預けていた彼も、心配そうに老夫婦を見ている。

 老夫婦の向かい側の座席に座っていたサラリーマン風の中年男性と、学生風の若い女性が腰を浮かし、異口同音に、

「大丈夫ですか?」

 と、老夫婦に声を掛けた。

 老人は妻の肩を抱き、声を掛け続けていたが、妻の方は何も言わずに顔を歪めている。

 中年男性が立ち上がり、

「誰か駅員を呼んで来てくれ!」

 と、声を上げた。

 乗客達は互いに顔を見合わせる。

 そうこうしている間に、ホームには発車を告げるベルが鳴り響く。ガタっという音と共に、ドアが閉まり始める。

 私は、車内の光景に目を釘づけにされたまま、茫然とホームに立ち尽くす。

 その時である。

 彼が身体を反時計回りに回転させ、右腕をドアの外に突き出した。その掌からは文庫本がバサリと落ちる。

 ドアの隙間から飛び出た彼の右腕には、ケロイド状の赤い痣が浮かんでいる。私は、起きている現実に着いて行くことができず、眼前に浮かぶ彼の赤い痣を凝視していた。

「佳織! 何をしている! 後部車輛の車掌を呼んで来るんだよ!」

 ドアのガラス越しに、彼が大声で叫ぶ。

「身体を引いてください」

 警告のアナウンスが車内に流れる。異常に気付いていない車掌が、トグロを巻いたコードで繋がった車輛マイクを右手に握り、うんざりした表情を浮かべている。

 もう一度、ドアが開く。今度は彼の半身がドアの外に出てきた。

「何やっている! 走れ! 急病人だ! 後ろに走れ!」

 彼の怒鳴り声でハっと我に返り、私は駆け出した。ホーム上の白い点線の上を、脱兎のごとく駆け抜ける。パンプスが脱げそうになる。

 その走りっぷりに異常を感じたのか、車輛マイクを手にしたまま、車掌が私の方を見ている。

「どうしました?」

 車内に流れる車掌の声。

「急病人! 急病人が、いますっ!」

 私は大声を出して走り続けた。

 通り過ぎる車輛の中から、唖然とした表情の乗客達が私を見ている。

 私は髪を振り乱し、猶も走る。息が上がる。

「車内で急病人が発生しました。御迷惑をお掛けしますが、今暫く、お待ちください」

 車内に再度流れる車掌の声。

 マイクを車掌室の壁フックに掛けた時の、キっという耳障りな音が短く響いた。

 誰かに業務連絡している会話が、車内に流れる。

 そして、車掌が一目散に私の方に駆け寄って来た。

「急病人は、どの車輛ですか?」

 ゼィゼィと粗い息をする私を前から抱き支え、車掌が私に尋ねる。

 私は前屈みになって息を整えようとするが、カラカラになった喉からは声が出ない。

 右腕を下からグルリと後ろに回転させると、人差し指を伸ばして前方車輛を指差した。

「分かりました。ありがとうございます」

 そう言った車掌は直ぐに走り去った。

 残された私はホームの上にしゃがみ込んだ。

 車輛の窓越しに好奇の視線が幾つも私に向けられているが、そんな事を気にする余裕など全く無かった。


 老夫婦を下車させた電車は、10分程度の後、普段と変わらぬ手順でホームを出て行った。

 サイレンを鳴らした救急車が到着し、救急隊員が老婦人を担架に乗せてホーム階段を降りて行く。

 私と彼はホームでの一部始終に付き合った。

 老人は何度も私達に御礼を言ったが、その注意は具合の悪くなった婦人に向けられている。

 当たり前だ。

 私と彼は、曖昧な笑みを浮かべただけで老人からの御礼の言葉に応え、少し離れた処で老夫婦を見守った。

「御無事で良かったですね」

 とも言えず、何と言えば良いのか?――思い付かなかったのだ。

 救急車のサイレンが遠ざかって行き、それも聞こえなくなって初めて、私と彼は安堵の溜息を吐いた。

「大した事にならなきゃ、良いんだけどな」

「そうね」

「佳織。今、この駅の周辺で働いているのか?」

「うん。寛人は?」

「俺は・・・・・・2つ先の駅だ」

 彼の勤める会社が支店を開いた事は知っていたけど、本当にその支店に転勤してきたなんて・・・・・・ちょっと出来過ぎかなと思う。

「今日は職場に直ぐ戻らないといけないのか?」

「そうね。これでもキャリアウーマンの管理職だもの・・・・・・」

「そっか・・・・・・」

「そう言えば、寛人に私の名刺、渡したこと無かったよね」

 私はショルダーバックの中をゴソゴソと手探りし、自分の名刺を彼に差し出した。

 その名刺をしげしげと眺め、

「本当に管理職になったんだな」

 と、彼が呟く。

「何よ?」

「いや・・・・・・。てっきり結婚して家庭に納まるのかと、そう思い込んでいたからな」

(寛人が引き取ってくれなかったからじゃないの!)

 私は心の中で悪態を吐いた。

 替わりに、「寛人の名刺もちょうだいよ」と言って、右手を寛人に差し出す。

 そうだなと生返事をして、腕に掛けた上着のポケットから名刺入れを取り出す寛人。

 勤め人の習性として名刺を交換したまでは良かったが、今の私と彼の間で交す仕草としては微妙であった。

 ビジネス上の関係は・・・・・・一切無い。

――博人との名刺交換。一体、どういう意味が有るのかしら?

 寛人も同じ様に自問自答しているみたいで、自分の名刺を私に手渡した後、私の名刺に無言で見入っている。私だって寛人の名刺に見入っている。

「お前、太ったな」

 ボソリと呟く寛人。

「何よ、いきなり。失礼しちゃうわねえ」

「お互い三十路を越えたんだし、気を付けていないと、生活習慣病になっちまうぞ」

「おっさん臭いわねえ。

 寛人だって他人の事は言えないでしょ。私以上に太っているわ」

 ニヤリと笑みを浮かべ、「俺も管理職だからな」と訳の分からない言い訳を口にする寛人。

「今度、飯でも一緒に食わないか? 相手、居ないんだろう?」

 寛人同様、私の左薬指もスッピンである。癪に障るが、寛人の指摘を否定しようがなかった。

 そのまま素直に降参するのは悔しいので、

「今、太っているって、私に嫌味を言ったばかりじゃない! それでも食事に誘うの?」

 と、少しばかり口先を尖らせて反論した。

「俺、料理、上手くなったんだよ。

 何だったら、俺のアパートに来るか? カロリー低めの料理を振る舞ってやるぞ」

――寛人が料理ですって? しかも、卒なく私を誘っている!

 彼と別れてから、かなりの年数が経った。お互い相手の知らない事も増えたに違いない。

 私だってもう生娘じゃない。酸いも甘いも知った三十路の女だ。

「昼間よ」

 私は短い返事をすると、寛人の誘いに乗った。

「じゃあ、今週の日曜日。土曜日には美味い食材を仕込んでおくからさ」

 私はブスっとした表情のまま、「うん」と頷いた。

 ホームに次の電車の到着を告げるアナウンスが流れる。

 寛人が慌てて私の電話番号を尋ね、自分のスマホでワン切りする。

 滑らかに進入してきた電車が止まり、プシューっとドアが開く。

「じゃあ」と言って乗り込むと、寛人は戸口に佇んだ。

 ドアが閉まり、ガラス越しに小さく手を振る寛人。

 その寛人の笑顔を見ると、思わず口元が緩み、偽りの硬い表情が崩れた。

 寛人の乗った電車が発車し、寛人の姿が見えなくなってから、私は小さく別れの手を振った。

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