落ちた世界の空の下で

階田発春

幸せとは温かい仲間


 今日の給食のシチューは、チョークの粉の味がした。

 それでも腐っても鯛、チョークを入れられてもシチューはシチューなので、僕は食べた。四時間目を終了した僕の胃袋はとっくに空っぽになっていたので、チョーク入りシチューをすばやく消化した(ちなみに他にもスペイン風卵焼きとパンがあったけどいつものようにアダチにとられた)。周りのクスクス笑いと給食の時に流れる校内放送の楽しげな声が頭の中で混ざりに混ざって、トンネルの中にいるように反響していた。

 ここ、×区立М中学校はごくごく一般的平凡極まりない学校だったので、当然のようにいじめがあった。だいたい一学年に一人はその対象者となる。で、運悪く僕はその標的に選ばれてしまった。

 理由は何だっただろう? おそらく二年三組におけるリーダー(悪ガキ大将ともいう)アダチに僕が逆らったからだったかもしれない。逆らったといってもちょっと空気が読めない発言をしただけだ。それなのに標的に選ばれてしまったのは、僕が痩せていてチビで、あまり喋らない、要するにクラスで一番弱かったからだと思う。

 だから今日も毎日給食の一番おいしそうな献立にチョークの粉を大量にいれられるし、アダチに逆上がりの人間練習台にされるし(背中に蹴り跡がつくので洗濯が大変だ)、廊下を歩いているだけでクラスの人から「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」「と言われるようになった。もしかしたら僕の名前は「死ね」なのかもしれないなあ。というかそもそもここでは僕は僕ではない。正確に言うならば僕はクラスメイトに名前で呼んでもらえない。僕は「ドン」だ。ドンカン、のドン。アダチの気持ちに配慮しないし、いつもトロいから、ドン。

 そういう悪意の洪水みたいなものをこの半年くらいは受け続け、僕は精神をチョークの粉のようにバラバラにしながらも学校へ行った。父さんには言ってない。父さんに言うことだけは嫌だ。拷問に等しい。僕が弱いことがばれてしまう。たまに暗い顔や、ベソをかいている顔で帰ったとしても、友達と喧嘩をしたと言えばいいだけだった。

 でも、僕は大丈夫だ。

 たとえ腐った水に顔をつけすぎたとしても、僕は大丈夫だ。

 例を見せよう。

今、僕は消しカス入りのシチューを食べ終えた。そこにいつものようにアダチと、その取り巻きがやってくる。担任の先生は歯磨きでいないから、少しの間なら立ち歩いても平気な状態だ。

 「おい、ドン」

 アダチがニヤニヤ笑いながら、僕にとん、と肩をゆらしてくる。その取り巻き達も一緒にヘラヘラと笑っている。

 「今日のシチュー、おいしかったな」

 アダチのにやにや笑いが一層歪んだ。アダチの顔はあまり整っていない。特に、人並み以上に分厚く大きい彼の唇は、笑うと醜悪なまでに伸びた。その顔は僕に大きくなりすぎたカモノハシを想像させた。あるいはオバQ。

 僕は答えない。「おいしかった」と言えば配膳台からあまった(あるいは他のクラスメイトから奪って)シチューをもらってそこにたっぷりと消しカスを入れて僕に持ってくるだろうし、「まずい」と言えば、まず張り倒される。

 …でもまあ結局、黙ったままでもアダチに「何か言えよ!」と張り倒される運命になるだろう。

 黙っている僕を見かねて、アダチは口を開いた。

 「何か言えよ!」

 ほらね。

 と、思う間も無く拳が僕の頬に直撃する。先生がそろそろ歯磨きから帰ってくる時間帯なので、アダチとその取り巻きは自分の席へと帰って行った。

 ああ、痛いな、つらいな、と思った時、味方は誰もいない。クラスメイトは皆僕を無視するし、先生は基本見て見ぬふりだ。ここには誰もいない。そういう時、たいてい僕は自分を増やす。

 「今のは痛かったなあ」

 アダチと僕の席の位置が遠いことを見計らって、僕は呟く。その「今のは痛かったなあ」という言葉を、頭の中で、反芻し、反響し、エコーをかけていく。そうすると「今のは痛かったなあ」という言葉が重複して聴こえるようになる。まるで、僕がたくさんいて、その「たくさんの僕」が、今の感想を言いあっている感じになるのだ。いや、本当にたくさんの僕がいるんだと思う。そうに違いない。だって今も「今のは痛かったなあ」という声が、頭の中で響いている。

単純な話だ。周りに味方がだれもいないのだったら、絶対の味方である自分を増やしていけばいいのだ。

 そうすれば、一人じゃなくなる。僕にはたくさんの僕がいるから、もう何も怖くない。

 そうやってこれからも乗り切っていくはずだった。




 学校にいてももちろんいいことがないし、家にいても大丈夫なふりをして疲れるだけだった。そんな中、一人の帰り道、だれもいかないところに寄り道する時間が一番落ち着いた。

「疲れたなあ」

 独り言を口にすると、たくさんの声が「疲れたなあ」「疲れたなあ」と聴こえてくる。なかなかいいものだった。

 でも、その日は僕以外にもう一人現れたのだった。

 なるべく誰に合わない路地で歩いて帰るつもりだった。だけど、このさびれた道に、先客がいた。

 その人は女性だった。草だらけの地面を掻き分けながら「あれ?どこだろう?」という言葉ばかりを呟いている。

 何か探し物をしているのだろうか?ふと、僕の足元を見ると、そこにはカギのようなものが落ちていた。

 …もしかして。

 「あの」

 僕はおそるおそる話しかけた。

 「はい?」

 女の人が僕に振り向く。二十歳くらいだろうか?短い髪の毛と、鮮やかなピンクのタンクトップは天才的に映えた。

 「これ、探してるんですか」

 僕は手に銀色の鍵を見せた。途端、女の人の顔がパッと輝く。

 「あ、これだよこれ! 探してたんだーありがとう! ありがとう! これでやっと家に帰れる」

 女の人は僕にずかずかと近寄り、鍵を受け取った。そして、ポン、と手を頭の上にのせた。

 何だかめまいがするようだ。くらくらとしてきたので、僕は頭をさする。

 「…大丈夫? 体調でも悪いの」

 「へへへへへへいきですすすすすすす」

 頭がまわらない。口が勝手に思いついたことを喋っていくようで、あわてて口を押えた。女の人は顔をしかめたので、ああ何だか変なことを口走ってしまったなあと後悔した。

 しかし、女の人は予想外の事を口にした。

 「と、とりあえず私の家に休んでいく?」



 その女の人は、ナカノという名前だといった。

 「君、大丈夫?落ち着いた?」

 ナカノさんの言葉に、はい、大丈夫です、ありがとうございますとぺこぺこ頭を下げる僕。

 ナカノさんの部屋に連れられ、思ったことは、ナカノさんは几帳面な性格だということだ。アパートの狭い部屋の中、散らかっているものは何も無く、全てがきっちりと整頓されていた。

 ナカノさんがいれてくれた麦茶を飲む。なんというか、人間の味がするようだった。

 「麦茶、おいしいでしょう」

 「はい、とても香り高いお茶だと思います」

 「ははは。君は難しい言葉が好きなんだねえ。私の弟もこんな感じで変だったよ」

 「変?」

 「あ、気にしたらごめんね。でも変って言葉はかならずしもマイナスな意味につながるとは思わないなー。個性? っていうかさ」

 ナカノさんの言葉を自分の中でうまく消化できなかったけど、とりあえず僕は、はい、と返事をかえした。

 麦茶をすすりつつ、ナカノさんと僕は会話をした。どうやらナカノさんは結婚をしていて、夫と同棲をしているそうだ。さっきアルバイトを終えて、家に入ろうとしたらカギが無かったので、必死で今まで歩いていた道順をもとに探していたらしい。

 なぜ僕に親切にしてくれるのか。会話の内容から察するに、多分、僕の事を彼女の弟、それと将来できるだろうナカノさんの子供に重ねあわせているんだと思う。

 会話をしている間、僕はなんだか夢心地で、ずっとふわふわしていた。正直会話が成立していたかよくわからない。でも、ナカノさんはずっと親切にしてくれた。

 「…」

 ふと、僕は黙った。

 「ん?どうしたの?」

 心配をしてくれる親切なナカノさんの目を、見て、僕は話す。

 「もし、ナカノさんは、どうしようもない出来事に出合ったらどうしますか?」

 「どうしようもない出来事って?」

 「どうしようもない出来事です」

 ふ、と彼女は苦笑しつつ、はっきりと言った。

 「もし一人で解決できない場合は、素直に誰かの力を借りることだね。もっと言うと、誰かに助けを求めるべきだよ」

 「…」

 「もちろん誰かに頼ってばかりでも駄目だけど。でも、どうしようもない時に誰かに助けを求めることができないのは、被害者でいる自分に酔った、弱い人間だと思う」

 …え?

 「そうですね。僕は弱い人間です」

 「まあ人間誰しも弱いよ。そして弱い部分を出すことは難しい。でも、それが一番自分のためだからさ」

 「そうですね」

 そうですね。

 そうですねそうですねそうですねそうですねそうですねそうですねそうですねそう

 「大丈夫?」

 「助け、求めてみることにします」

 「そうしてみなよ。誰でもいいからさ」

 そういってナカノさんは微笑んだ。僕の脳内のそうですねコールはまだ響いていた。


 


 ナカノさんと別れ、家に帰り、まず僕がしたことは父さんに現状を話すことだった。僕は、アダチにやられたことを全て話した。給食にチョークの粉を入れられていること、死ね、と言われていること、ドン、と呼ばれていること、などだ。

 父さんは黙って話を聴いていたが、聴き終わると涙を流し始めた。僕はやっぱり話さなければよかったかなと思ったが、やっぱり、心は軽くなった。頭の中のゴミとか、お腹の中にたまっている黒い何かが、少し減った気がした。

 そうして父さんは学校にイジメをやめるように電話をした。電話の会話はわりとスムーズにいったようで、アダチと、その両親を学校に呼び、ついでに僕の父さんと学校側で会議をするらしい。

 そうして終わっていくはずだった。






 電話から翌日、学校への道のりを五分ほど歩いていくと、アダチが待っていた。

 アダチの顔には、殴られたような生生しい傷痕があった。

 「この傷、お母さんにつけられた」

 「そうなんだ」

 僕の返した声は震えていた。嫌な予感がする。でも、足がすくんで動けなかった。

 そして、やはり殴られた。抵抗しようとしたが、ひ弱な僕だ。アダチのされるがままに、殴られ、蹴られた。

 周りには人ひとりいない。僕が登下校の道にそういう道をずっと選び続けていたからだ。

 「何でオレが殴られなきゃいけないんだよ、お前が弱いから、いじめられるのはしょうがないんだよ」

 アダチは僕を殴りながら続けた。

 「次の会議の時、俺は謝っても、またいじめは続くだろうよ。今度は陰湿にな。あと、今度バラしたら殺す」

 そうかもしれないな。

 「お前はずっといじめられ続ける、いじめられなくても、自分のせいで過去を引きずり、これから誰にでも被害妄想をもち続け、その自分に一生振り回され、死ぬ」

 そうかもしれない。

 「死ね」

 …。

 しばらく殴られ続け、やがてアダチは最後の一撃を僕のお腹に叩き付け(内臓が破裂するかも、と心配したくらいの痛みだった)その場を去った。

 僕はしばらく地面の上でうずくまりながらぼんやりしていた。が、体中にはしる激痛により、思考がはっきりした。

 『殺したい』

 え?

 僕の口から出た言葉ではない。気が付けば、僕は無数の僕に取り囲まれていた。

 今まで僕の味方をしてくれた、その無数の僕が口々に言った。

 『殺したい』

 「殺したい」

 周りの僕の声に合わせて、僕も呟く。その僕に合わせて、また僕が呟いた。そのまた僕も、そのまた僕も。

 「計画をたてようか」

 錆で頭がいっぱいになりそうだ。

 「僕は被害者じゃない」

 加害者にもなりたくなかったけど。ていうか被害者にも加害者にもなりたくなかった。僕は傍観者になりたかったのかもしれない。このまま傍観者になれればよかったな。ひょっとしたら毒電波に汚染されてしまったのかもしれない。UFOのせいかな? それとも脳内にカブトムシの幼虫が生息しているのかなあ。今日の朝ごはんは何だったっけなあ。カメラ欲しいなあ。包丁であいつをぶっ殺してやりたい。めった刺しにしてやりたい。でもそうすると焼肉食べられ無さそうだ。泡ふきそう。

 頭にとりとめがつかなくて、無数の僕が個人個人(僕、に個人個人があるのは不明だけど)に言い合ってしばらくやはりとりとめがつかなかなかなかった。

 また腐った水が僕を支配しようとしていた事は確かだった。

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