ねえ、さむいね。

つづれ しういち

ねえ、さむいね。


「う〜、寒っ……」


 夕方になればもう、意識しなくても白い息を吐き出してしまう空気の中。

 俺は、マフラーに顎をうずめるようにしながら、あいつと暮らすマンションの一室に帰る。


「そうだよなあ、もう十一月も終わりだもんなあ……」


 グレーのダッフル、今年は早めにクリーニング屋から戻しておいてもらって良かった。去年はちょっと、失敗したもんな。

 それで仕方なくあいつのコートを借りたりしたけど、とにかく丈もデザインもちっとも俺に合わなくって、もうめちゃくちゃ恥ずかしくって、早々に返したんだっけ。

 ほんと、悲しくなるぐらい似合わなかったなあ……あいつのチェスターコート。


「ただいまあ。……って、あれ?」


 今日は俺より早く帰って来ているはずの、あいつがいない。

 玄関のライトは人が帰ってくると自動的に点くようになっているから、真っ暗ってことはないんだけど。

 玄関に靴がないのは、別にあいつがいようがいまいが同じだけどね。

 あいつ、あんまり靴をここに置いとくの好きじゃないから。


(なんだろ……。残業とかなら、連絡してくれてるはずだし)


 そう思って玄関で靴を脱ぎかかったら、紺のエプロン姿のあいつがキッチンからひょいと顔をだした。

 あいつが扉を開けたとたん、ふわんと料理の匂いがした。


 あ、今日は煮魚だ。

 やっぱりこいつが作るものは、和食が基本。

 ほんと美味いし、面倒がらずに手早くやってくれるんで、ついまかせっきりになりそうになって俺はいつも焦ってる。

 いや一応、最初に当番制にしたんだし。

 だけど結局、なんだかんだ、忙しくて帰るのが遅くなりがちな俺の代わりに、家事のほとんどをこいつがやってるような気がする。


「お帰り」

「あ、ただいま」


 いつもの落ち着いた立ち姿を見て、ふっと体の力が抜ける。

 初めてここに住むことになったときには、いちいちがちがちに緊張してたのが、なんだかもう懐かしい。

 一緒に住むようになって、もう何年になるんだっけ。


「メシもすぐに出来るが。先に風呂にするか?」


 ちょっと無愛想にも聞こえる、低くて男らしい声も、すっかり耳に馴染んでしまった。というかもう、聞こえないと落ち着かない。

 前にちょっと、っていうか一年以上、こいつが仕事で海外に行ってたときは、ほんと禁断症状が出ちまったもんな。

 そんでもって俺、とうとう休みに無理やり会いに行っちゃったし。

 んで、そのまんま、あいつがその時住んでいた、あっちのアパルトマンに上がりこんで――。


 …………。



「顔が赤いな。どうした」

「えっ。あ、いやいや、なんでも……」


 誤魔化そうとする俺を、あいつは例によって訝しげな目でちらっと見る。

 俺はなんてことのない顔で笑って、なるべくさりげなく話題をそらした。


「あ、風呂ね、風呂。うん。そうしよっかな。今日、寒かったし。ほんと、ここんとこ急に寒くなったよなあ――」


 言いながらキッチンまでの廊下を歩きつつコートを脱ぎかけると、ひょいと大きな手が手伝ってくれた。持っていた、書類と成績ファイルでぱんぱんに膨らんだショルダーバッグもあっさりと奪い取られる。

 今日、採点もって帰って来ちゃったからなあ。

 ほんとは、最近、生徒の個人情報のことでうるさいんで、あんまり持って帰っちゃいけないんだけどね。

 でも、そんなこと言ってたら、ほんとに帰るの夜中になっちゃうし。

 そしたらあんまり、こいつとゆっくりはできないから。


「なら、先に入ってこい。もう沸いてるぞ」

「……ん。ありがと……」


 返事をしながら、ふと思う。

 なんかあったなあ、こんな会話。


(ああ、あれだよな。大昔の……CMかなんか?)


 まあ、昔はさ。

 旦那さんが働いて、奥さんが家にいてさ。


「おかえりなさい」

「ご飯にする? お風呂にする?」


 なんて会話も、まあ一般的だったんだろうけどさ。


(それにしても……)


 なんとなく、こいつの方が「奥さん」みたいになってんのは、なんでだろう。


『ご飯にする? お風呂にする? それとも』――


 いや、その先は想像すまい。

 それに、俺とこいつの場合、立場的に言うと逆っていうのか、えーと、えーと、要するに……うん、まあ、詳しいことはいいんだけどさ。


「……やっぱり顔が赤いな。熱でもあるんじゃないのか」


 あいつの声がすぐそばでして、びくっと顔を上げる。

 気がついたら、俺はとっくに壁際に追い詰められてて、前髪をちょっと持ち上げられ、額と額をくっつけられていた。

 いつもの、びしっと決まった「精悍」って言葉がぴったりくる顔が、目の前にある。


 やめろっつうの。

 余計に顔に血がのぼる。

 俺、なんだかいつまでたっても、こういうの慣れないなあ。


 と、あっさり顔が離れていって、あいつは言った。


「まあ、熱はないようだが。体調が悪いなら、無理に入らないほうがいいぞ」

「えっ? い、いやいや、大丈夫だよ! ふ、風呂、入ってくるから……!」


 そう言って自分の部屋へ戻ろうとしたところを、ぐいと腕を掴まれて引き戻される。バランスを崩して「うわっ」と声を上げかけたら、そのまま長い腕で抱きこまれていた。

 朝晩、いつも変わらず竹刀を振ってるその腕は、二人きりになった途端、すぐにこうやって俺を甘やかしはじめる。


 付き合い始めたころは、こんなの全然、想像してなかったなあ。もっとこう、自分にめちゃくちゃ厳しい分、人にもそれなりに厳しい奴なんだって、勝手に思ってたんだけど。

 いや、もちろん、確かに厳しいとこもある。俺が大学に無事に入学できるまで、勉強のことと家事のことには厳しかったな。でも、それは結局、俺のためだったり、母さん亡くしたばっかりで、まだ小さかった俺の弟のためだったりしたわけで。

 けど、なんだか一緒に暮らし始めて以来、そのへんのこいつのイメージは俺の中でがらがら崩れっぱなしだ。ときどき、「こいつはちょっと俺を甘やかしすぎなんじゃないの?」って心配になるぐらいだったりするほどだ。


 だってほんとに、甘いんだ。

 いいのか。

 これでも俺、立派な大人の男だぞ。

 って言うほど、まだちっともしっかりしちゃあいないんだけどさ。

 このままじゃ俺、もしかして人としてダメになっちゃうんじゃ……?


 とかなんとか思ううちにも、あいつはぎゅうっと俺の体を抱きしめて、片手で頭を引き寄せて、耳の辺りに頬をくっつけてる。


「本当に、冷えてるな」


 だから、やめろって。

 ほんと、子供じゃないんだから。


 第一、その声、このごろめちゃくちゃ体に悪い。

 二十歳を過ぎた辺りから、ただ低くて怖いなと思ってたこいつの声は、妙に腰に来るものに変わってきている。

 こんな至近距離で、耳にそのまま流し込まれるだけで、俺はちょっと足の力が抜けそうになる。

 それをまた、こいつがわざとやってるようなのが癪に障るんだよなあ。


「なんだったら、一緒に入るか?」

「な……」


 なに言ってんだ!

 ばっかじゃね!?

 っていうか、そんなことしれっと言う奴、俺、恋人にした覚えないんですけど――!?


 今度こそ、間違いなく耳まで真っ赤になったのだろう俺の顔を、あいつは少し上からまじまじと見下ろして、くすっと吐息だけで笑った。


「冗談だ。真に受けるな」

 そして、わしゃわしゃと俺の髪を乱暴に掻き回す。

「ま、真顔で冗談いうな! ばっ……」

 と、言いかけた唇を、ほとんど強引に塞がれた。

「んう……っ」

 じたばた抵抗するけれど、腕力では絶対にかなわない。


 だから、食事前から一緒に風呂には入んないって決めただろ。

 だって、その……いろいろ、理性が飛んじゃうから。


 俺も、……だけどな!

 まったくもう!



「さっさと出て来い。料理が冷める」


 勝手に人の舌だの歯の裏側だの、好きなだけ味わってから、あいつはそのまま廊下に俺の体をほうりだして、キッチンへ戻って行った。


「……ちぇっ」


 口許を手の甲でちょっと拭って、背筋の伸びた長身の後ろ姿を見送る。


 ……悔しいな。

 悔しいけど、まあしょうがない。

 だって、ちょっと思っちゃった。


(だったら風呂……食事の、後にしようかな――)


 なんてさ。



                          完



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ねえ、さむいね。 つづれ しういち @marumariko508312

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