ep17/25「朽ちし久遠の記憶」
――――このままでは
そんな冷たい予感が、鉛の重さを伴って胃に落ち込んで来る。
実際、先ほどから
まるで手足の先から異物に置き換えられていくような、あるいは全身の細胞が脱皮していくような感覚。体内で蠕動するような脈動が、徐々に人間のそれから逸脱していく。遂には頭の中にまで食い込んで来た違和感が、春季の思考を
凍える身体に汗が滲んだ、氷と化した手足が震え出した。瞼の裏にちらつき始めた光景に吐き気を覚える春季は、気付けばそのイメージへと飲み込まれようとしていた。
「あぁ……っ! アアァッ!」
春季は懸命に操縦桿を握りながら、乾いた喉で過呼吸気味に空気を取り込む。
気が付けば、
「やめろオオォ――――!」
視界が真っ白にちらつき始める。いくら必死に意識を保とうとしても、強制的に流れ込んで来るイメージが視界を飛ばしていく。
過大な情報に呑まれる意識は、底知れぬ白い闇に包まれていった。
――――ここは、どこなんだ。
果ての無い暗闇。しかし、どこか温かい。
身体が丸ごと空間に溶けてしまったような浮遊感の中、春季は穏やかな日差しに照らされているような気がした。その瞬間、周囲に立ち込めていた暗闇は、視界を焼かんばかりの白光で染め上げられる。
束の間のホワイトアウト。
いつの間にか彼の周りに広がっていたのは、高層ビルが立ち並ぶ街の一角だった。日は高く昇り、透明に揺らめくアスファルトの上を人々が行き交う。そんな夏の情景だ。
――――でも、僕はこんな街は知らない。
いくら記憶を探ってみても、ここは春季にとって見知らぬ街でしかない。
そして、彼の周りに広がっていた情景は滑らかに溶け去り、代わりに街のとある一角がクローズアップされる。そこに映し出されているのは、仲睦まじげにビルの合間を歩いて行く二人の学生。半袖姿の少年の隣を、夏の陽射しには不釣り合いな長袖を着込んだ少女が歩いていく。
見ているこちらが焦れてしまいそうな距離感は、春季の胸をちくりと刺して来た。
しかし、二人に焦点が合っていくにつれて、春季の背筋にはぞわりという感触が走っていった。視界の先で並んで歩く二人は、寸分違わず自分と冬菜の姿をしていたのだ。
見慣れた顔、見慣れた仕草。見間違えるはずもない二人の姿は、しかし春季の知らない街並みに埋め込まれている。
いつもの登校で見慣れた田舎道ならともかく、これではまるで舞台が噛み合っていない。これは敵が見せている幻覚なのか、あるいはでたらめな走馬灯なのか。言い知れぬ違和感を抱えていた春季は、その時、唐突に脳裏をかすめた表現に戦慄する。
この二人は
――――まさか。
腹の底からは、なにか蛇のようなものが湧き上がって来る。一度、首をもたげるようになった疑念は、もはや無視できないほどに膨れ上がって彼の胸を埋めていく。
そんな彼の前で構築されていくイメージは、擦り切れたフィルム映像のように荒さを増していった。
次に現れたのは、教室だ。
いつも通りのクラスメイトで、いつも通りに行われる授業風景。しかし、教室のドアを破って一人の女が現れたことで、その平穏は唐突に崩れ去っていく。女は歩み寄っていった教師の身体を
恐怖に駆られて凍り付き、あるいは我先にと逃げ出していく生徒たち。狂乱の様相を呈する喧噪の中で、腰を抜かした冬菜は椅子から床に転げ落ちていた。そんな身動きできない彼女に向かって、春季は人の波を掻き分けてでも駆け寄ろうとしている。
しかし、女の方がずっと、冬菜に近い位置にいた。
女は虚ろな眼窩で辺りを見渡すと、思い出したように冬菜へと歩み寄る。おもむろに伸ばされる手が、恐怖に打ち震える冬菜へと伸びていく。
弾かれるように上がった悲鳴は、涙で顔を濡らす冬菜の口から発せられていた。
ばちん。
極彩色の光が教室を染める。大気を叩く間抜けな音を発して、女の上半身は鋭利に抉り取られていた。
体育館から教室へと、ただ舞台を入れ替えただけならば、この光景には春季も見覚えがある。冬菜の前で
――――それ以上は駄目だ、止めてくれ。頼むから……。
まるであの日の光景を繰り返しているかのような映像に、鼓動は自然と早まっていく。今すぐ止まれ、と強く念じてみても映像は止まらない。段々と調子外れに壊れていく映像は、徐々に色彩を失っていった。切り取られるイメージもただただ主観的となり、断片と化していった。
次に構築されたのは、真っ白い手術室のような光景。無影灯の下、銀に煌めく手術器具をもった人間たち。縛り付けられている
そして、一人の男が手にした針は、手術室を照らす無影灯の下で怪しく輝く。
その鋭利な先端は、麻酔も無いままに
再び、場面が切り替わった。
視界を埋める捉えどころのない闇。もはや何も映像的なイメージが浮かんで来ないのに、音と感情だけが春季にも伝わって来る。盲目の世界を描き出すイメージは、光を失った恐怖に満たされている。この先、誰もいない闇が永遠に続いているのだと思えば、春季までもが心臓を握り潰すような感覚に襲われていた。
『助けて』
誰一人手を差し伸べてはくれない、誰一人見ることさえ叶わないという底無しの孤独。痛みと音だけが突き刺さって来る世界には、悲痛な少女の叫びだけが反響する。
『ハル、助けてよ……』
無数の痛みの果てに、傷付けられた身体は氷の棺へと横たえられる。
へばりつくような冷気に全身を包まれ、身動きできない身体は手足から感覚を失っていく。
次に目覚めた時には、
何か罪を犯した訳ではない、誰かを傷付けた訳でもない。罪なき十字架へ磔にされながらも、彼女はひたすらに助けが来るのを待つ。すぐそこまで迫っている死の気配に怯えながらも、信じようとする思いだけが薄氷の脆さと化した心を支えていた。
しかし、いくら願っても何も起こらない。誰も来ない。
『どうして……?』
その時、暗闇の中から突き出された杭が、彼女の全身を一斉に貫く。
焼けた鉄杭を打ち込まれたような衝撃、潰された肺からは掠れた悲鳴が漏れだす。遅れて彼女の耳に届いたのは、パンと大気を叩く無数の銃声だ。自分が撃たれたのだ、と気付くまでには少しの時間が必要だった。
そして、理解してしまった。
このまま死ぬのだと分かった途端に、腹の底で得体の知れない
どうして私だったの。
どうして死ななければならないの。
どうして、と次々に連鎖する疑問は、答えなど無いまま憎悪と化していく。
深い、深い暗闇へと落ちていく意識。そこにあったのは何もかもに裏切られ、救われることもなく消えていく命の気配だった。破れた心臓の鼓動が止まる、意識が薄まる。ただし、身体を満たす絶望だけは、一つの星をも飲み込む勢いで膨れ上がっていく。
『どうして助けてくれなかったの』
底無しの井戸に突き落とされたような感覚の最中、冬菜は最後に呟いていた。
『――――信じていたのに』
それを最後に、
絶望、そして悪意。理不尽に押し潰された人間の抱える黒い炎が、得体の知れない破壊衝動と結びついて脳裏を飛び交う。そして、孤独という子宮の中で、一人の少女が遂に怪物へと変貌していく。
そんな救いのない物語が、暗闇に溶け去っていく形で終わろうとしていた。
気が付けば、生身の感覚を取り戻した春季はコックピットシートに戻っていた。荒い息は未だに収まらず、不規則な鼓動を刻む心臓が胸中で暴れている。まるで水を被ったように濡れる全身は、汗でいやに冷え切っていた。
「今、見せられていたのは……」
あまりに生々しい感情を浴びせられた春季は、もはやそう確信するしかなくなっていた。一人の少女が残した記憶の残滓。それが経年劣化で掠れてもなお、あれだけの鮮明さを以て残っている。そんな事実を思うだけで、思わず背筋に震えが走った。
あの記憶の中で、冬菜は最後にどうなったのか。
もし、あのまま不信と絶望に呑まれていったのだとしたら。
もし、
いずれにしても、行き付く先は人の姿では有り得ないという確信があった。想像するだけで悪寒が走るような考えが脳裏をよぎって行くと、それはやがて一つの予感となっていく。先ほどまで壮絶な記憶を追体験していた心の中では、一つの結論が結晶化し始めていた。
恐れに震える瞳で、春季はゆっくりと
極めて地球に似ていた惑星の大陸配置。
150億年近くも前に出来たという惑星の表土成分。
そして、少しズレた世界に生きていた冬菜の記憶を持つ
春季には、そのどれもが無関係には思えなかった。
もし、その全てが互いに関連しているのだとしたら――――結論は一つだ。
「まさか、これが
口に出した途端、全身に冷や汗が噴き出す。それがどんなに飛躍した結論なのか、春季自身にも分からない筈はない。
しかし、これが
遥か100億年以上の過去に地球を飲み込み、
もし、
「フユ……!」
春季が噛み締めた唇からは、血が伝っていく。
真空に漂う肉塊は、遂にあの場所から連れ出せなかった冬菜の末路。有り得るかも知れない未来の姿。
それでも、春季の知る冬菜は一人しかいない。せめて最後にあの場所から連れ出したい、と願う幼馴染はただ一人だけなのだ。
まだ間に合う。その可能性に縋りつく春季は、
フットペダルを踏み込むと、自らの身体を引き裂くようなGが襲い掛かって来る。春季は苛烈な負荷にも構わずに、エルンダーグを
背後から追い上げて来る数千という
惑星軌道に乗っている
「ごめん――――」
救えなかった冬菜の末路を背に、口からは血を吐くような呟きが零れる。
それでも春季は行く。かつて冬菜だった肉塊に、悔恨の言葉を残して。
* * *
苛烈な逆噴射。ゲートを抜けた直後に、エルンダーグは急速反転しようとしていた。凄まじいGを耐え切って速度を殺すと、魔神は今抜けて来たばかりのゲートに向けて鉄柱を振りかざす。
目の前で揺らめくのは、光の水面。
今は穏やかに波打っていても、次の瞬間には、エルンダーグを追って来た
「させない……!」
春季の手がパネルに触れた途端、鉄柱の先端に巻かれていた赤い包帯が弾け飛ぶ。一瞬のうちに保護布を裂き、先端部を覆っていたカバーは爆発するかのようにパージ。次の瞬間、150mもの長さを誇る鉄柱の先端部には、銀に艶めく
トリガーボタンに掛かる春季の指は、鉄柱に秘された破砕システムを解放しようとしていた。
「対消滅弾頭、装填完了。
ドンと機体全体が軋むような衝撃。150mもの鉄柱に仕込まれた弩級の杭は、白煙を纏って一瞬の内に撃ち出されていた。数千tにも及ぶ大質量の鉄杭が、超音速の勢いでゲートへと射出。更に先端部から反物質を詰め込んだ弾頭が撃ち出され、ゲート内部で一気に炸裂した。
旧世紀の熱核弾頭など比較にもならない程の熱量が、ゲート内部で暴れ狂う。
瞬く間に泡立ち始めた光の水面は、それから一秒と保たずに崩れ去って行った。既にパイルバンカーを引き抜いていたエルンダーグの先で、仄かに輝いていたゲートが砂のように崩れていく。そのまま真っ暗な虚空へと帰っていく様は、春季の目でも確認することが出来た。
「すごい……」
本来なら
鉄柱は無双の槍と化し、エルンダーグは豪槍と巨砲を携えて真空を突き進む。
春季は心臓を握られるような苦しさを堪えながら、
最後の一度だけでも良い、冬菜をあんなところから連れ出してやりたい。
もはや希望など望んではいない。望むのは、二人で過ごす穏やかな最後だった。ごめんと謝りたい、これで何もかも最後だと伝えたい。ただそれさえも許されないというのなら、立ち塞がる者全てを敵にしても構わなかった。
冬菜への思いだけで突き動かされる春季は、エルンダーグを駆って地球を目指す。
――――しかし、その時だった。
エルンダーグの前方2000kmで、唐突に赤い光が揺らめく。縦に6本、スリットから漏れ出す灯火のような光は、真空を煮え立たせるように燃えていた。
それはまさしく魔神の眼。モニター越しにその姿を捉えた春季は、身体が勝手に強張るのを止められなかった。まさしくこの世の果てにも等しい空間で、倒したはずの亡霊と再会する。思わず歯を軋らせる春季は、その因縁を恨まずにはいられない。
敵意、殺意。万感の思いを込めて、彼は大烏の姿を睨みつけていた。
「……レイヴン!」
復讐に燃える漆黒の人型は、背に生やした翼をゆっくりと広げていく。
再会を果たせた喜びに打ち震えるように、変貌した自らの異形を誇るように。真空に羽ばたく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます