ep15/25「影なる惑星(後編)」
ここに居てはいけない。この光景に触れてはいけない。
ただひたすらに疾走。身体全体で街に沈滞する霧を裂いていけば、街の隅で繰り広げられる光景がおのずと目に飛び込んで来る。
地面から湧き出し、信号を渡っては崩れていく
何の目的も無く、ただ同じ道を往復するだけの
恐らくは永遠に繰り返されるはずの
そして、人形が動いているからには、その操り手がいる。
現にそう仕向けている誰かがいる、この永遠に茶番を繰り返すだけの街を作った者がいる、その事実こそが恐ろしかった。恐怖に凍り付いた彼の心は、
この
「どうかしてる、ここは……!」
街を抜けた春季は、そのまま荒野へと脱しようとしていた。スーツに補助されて全力疾走を続ける春季は、今は地平線で隠れて見えない数十km先のクレーターを目指す。
あんな時の止まったような光景を見ていれば、どうにかなってしまいそうだった。浅い息を切らす春季は、恐慌寸前の心を抱えてただひたすらに走る。
しかし、身体が前方に浮き出すと、視界が唐突に反転する。
衝撃。足元から突然バランスを崩した彼は、派手に地面に打ち付けられていた。強打した胸が呼吸を阻む。大した段差もない場所で転んでしまった自分を恨みつつも、彼は痛む身体をおして起き上がろうとする。
だが、力を込めてみても、右脚だけが地面から離れてくれなかった。
「……ッ!」
焦りを堪えて右脚に目を向けた途端、全身の毛がぞわりと逆立つ。
彼が右足で踏み抜いていたのは、腐敗した肉のように柔らかな人の背中だ。短い悲鳴を上げそうになった彼は、水死体さながらに地面から膨らんで来る人体を見て、一瞬意識を飛ばしかけた。数体、数十体。ずるりと湧き出して来た顔の数々が、真っ暗に落ち窪んだ眼窩を春季に向けて来る。
「ウ、ソツキ」
「ウソツキ」
「ウウウソ、ツキ」
木霊のように繰り返される呟きが、
「ああ……あぁっ……!」
狂っている、狂っている。
春季が走って来た荒野は、既に数えきれないほどの膨らみに覆われていた。泥のような地面から湧き上がって来る
腐肉から強引に足を引き抜いた彼は、もはやどこを見れば良いのかも分からずに走り続ける。
そして、ふと振り返ってみれば、青い奇岩に覆われていたはずの町並みは黒く蠢いていた。ある種の蟻がそうするように、超個体と化した
直後、懸命に走っていた春季の視界右側で、不意に黒い影が動く。
それが自分に向かって来る
「あっ……!」
雪崩れ込むように追い上げて来る
――――来るなッ!
なす術もなく立ち尽くす春季の目の前で、唐突にパンという音が弾けた。
あまりに素っ気ない音が大気を叩くと、最も春季に近かった
パン、パンパン――――。乾いた音は瞬く間に連鎖してチェーンソーの唸りを思わせる轟音と化し、思わず耳を抑えた春季の周囲で次々に
そして、ようやく足元の微振動を感じ取った春季は、何が起こったのかを悟る。
立っていた地面が轟々と唸り出すと、天変地異を思わせるような地鳴りが一帯の大気を震わせ始める。思わずよろけそうになった彼が遠方に見たのは、白煙を吐き出してスローモーションのように立ち上がっていく深紅の人型。5km先の地平線を突き破るようにして、眼に翡翠の光を湛えた魔神が力強く立ち上がっていく。
未だ
周囲で勝手に弾けていくようにも見える
執拗に追い回して来る
「あと、少しで……」
だが、春季はふいに暗くなった空に胸騒ぎを覚えると、思わず後ろを振り返る。
地平線の彼方から津波のように迫って来る
「えっ……」
一体何が空に昇ろうとしているのか、まるで理解が追い付かない。
淡い橙色に埋め尽くされた空へ、唐突に黒い円が昇って来る。まるで日の出のように昇ってきたそれは、よく目を凝らしてみれば黒い円では無かった。丸く切り取られた夜空だった。円内には無数の星々がチカチカと揺らめき、まるで夜空へと向けられた覗き穴のよう。
いや、本当に覗き
春季は鈍器で打ちのめされるような衝撃と共に、その事実を悟る。あまりに馬鹿げたスケールに直感的な理解が追い付かない。笑い出す膝からは力が抜けていき、もはや立っていられない。
そんな彼に追い討ちをかけるように、スーツ右腕に内蔵されたモニターに一つの表示が現れる。現在地特定完了。エルンダーグ本体から転送されて来た観測データが、酷薄な事実として春季の前に突き付けられていた。
――――現在座標確定、目標地点に
ほんのりと赤い空にぽっかりと空いた穴。既に目標地点に到達していると告げて来た観測結果。この光景から、彼は一つの事実を認めようとしていた。もう認めざるを得なかった。
「そっか……この星を、
がっくりと地面に膝をついた春季は、一面夕焼け色に染まる空を――――否、この星を
ここはアウター核の内部だったのだ。ねじ曲がった街並み、永遠に過去を繰り返す人形、何もかもがアウター核の臓腑とでも言うべき場所だったのだ。
恐らくは、二重ゲートを通して観測する内に、この馬鹿馬鹿しいほどの観測誤差が生じていたに違いない。そうでも無ければ、そもそもアウター核を滅ぼそうなどという計画が持ち上がる訳がないのだ。諦観にも似た思いを抱え、春季は力なく立ち上がる。
幾千のレーザーに貫かれる赤空の下、春季はふらふらとエルンダーグの下へと歩き出していった。そこから一体どうやってロックを解除し、どうやってコックピットまで戻ったのかは、彼にさえ分からない。気が付いた時には既に、コックピットシートの中に自らの身を収めていた。
彼は静かに息を吐き出すと、おもむろに拳を握り締める。掌に血が滲むほどに強く、我知らず震え出す身体を必死に抑えつけようとしていた。
「こんなの……こんなことがあって良いのかよ……」
揺れる春季の視線は、全高150mの長さを誇る鉄柱へと向けられていた。ここまで持ち込んだ武装の威力をもってしても、核を破壊するにはあまりにも足りない。せいぜい小惑星を吹き飛ばせる程度の切り札など、何の意味も無かった。
想像を絶する程に巨大な敵を前に、ちっぽけな個人が出来ることなどたかが知れている。身の丈に合わない結果を求めるなら、その代償が必要なのだ。既に身体を差し出し、未来をも差し出した春季には、もはや残されているもなどそう多くない。冬菜を救うためなら、今さら自分が何を失っても構わなかった。
なればこそ、今の自分が捧げられる最も重いものを。
そして、彼はエルンダーグが誇る最も強力な武器――対消滅エンジン――の自爆コマンドを打ち込もうと、パネルに手を伸ばす。
この身に宿る命が代償足り得るのなら。
機体を吹き飛ばせば冬菜が助かるのなら。
震える指先でパネルを押し込む。何度も失敗したコマンド入力とて、五回もやり直せばさすがに終わりかけていた。あとは最後のキーを叩くのみ。これさえ押せば自爆装置に火が入る。
永遠にも思える一瞬を経て、春季の指はパネルに触れていた。
――――カウントダウン開始。
きっかり十秒後に吹き飛ぶはずの我が身をシートに預け、春季は懺悔のように天を仰ぐ。視界を塞ぐのはコックピットの天井。まるで棺のような天蓋を前に、彼は思いを巡らせていた。
数秒後に、自分は死ぬ。地球から数億光年も離れた場所で、死体すら残さずに灼熱のガスになって消え去る。想像してもみれば、人の死に様としては間抜けに過ぎた。虚し過ぎた。
刻一刻と近付いて来る死の気配が、空気を張り詰めさせていく。
その時、ふいに彼の鼻元を甘い香りがくすぐっていった。
忘れもしない甘い香り。こんな時だというのに、冬菜の笑顔が、その柔らかい肌の感触までもが生々しく蘇って来る。
まるで残り香のように感じられる冬菜の気配は、彼の記憶を鮮明にフラッシュバックさせていた。二人で過ごして来た家、通って来た田んぼ道、そこにはいつだって冬菜の笑顔があったのに、もう二度と見ることは出来ないのだ。
もう一度、隣であんな風に笑って欲しかった。
ただ、それさえも叶えられなかった。
壮絶な後悔に押し潰される心は、脳裏にちらつく走馬灯の残滓を追い始める。もはやどこにも存在しない過去に身を浸しながら、春季は瞼を閉じていった。
――――ごめん。何も、何も出来なかった。
数秒、沈黙が続く。
春季が再びモニターを見ると、そこにはブロックノイズにまみれたウィンドウが現れていた。自爆プロセスは強制的に停止済み、再実行不可能を示す〈
血が滲む拳の先で、新たにモニターを走っていく文字列。
「――――クソォッ! どうして!!」
こんな事が出来るのは、この機体を隅々まで知り尽くしたあの男しかいない。今になってようやく、『つまらない仕掛け』の意味を理解した春季は項垂れる。
死をも覚悟したというのに、自爆出来なかった。だが、そんな事実が却って春季の思考を氷のように冷やしていく。少しばかり冷静になった頭で、春季は自らの浅慮を嗤っていた。そもそもこの機体を自爆させたところで、惑星を丸ごと吹き飛ばせる訳がない、と。
なによりも自分への軽蔑と失望が、徐々に心を侵していく。
『本当は、もう逃げたかっただけなんだろ』
吐息の温度さえ感じるような
春季は反射的に口を開こうとするも、言い返す言葉さえ見つからない。その通りだろう、と耳元で囁くのもまた自らの心の声だ。嘘を吐くも自分、突き付けるも自分。たった一人のはずなのに、どこにも逃げられなかった。
「僕は、逃げたかっただけなのか……?」
べったりと張り付くような冷気が、春季の内臓を凍らせていく。凍えるくらい寒いのに、嫌な汗が噴き出る。ここまで戦って来た意味はなんだったのか。どうすれば良いのか。あと何匹のアウターを殺せば良いのか。
グルグルと駆け巡る疑問が臓腑をかき回して、吐き気にも似た感覚が喉を締める。しかし今さらそんな問答に何の意味もない事が分かると、遂に彼の中で何かが弾けた。
「――――ぁぁああああッ!!」
叫んで、叫んで、それでも業火のように燃え盛る激情は消えなくて。怒りとも悲しみとも悔しさともつかない思いは、もはや元には戻れない春季のちっぽけな身体を食い破ろうとする。
何もかもが無駄だった。
冬菜を助けることなど初めから不可能だった。
そうと知れば、獣のような慟哭がコックピットに虚しく響き渡る。
ここからいなくなる事すら許されず、たった一つの希望にも裏切られた少年は、その紫瞳に昏い光を滾らせていた。
冬菜を呪われた運命から救い出せないのなら、せめてもうあんな場所からは連れ出してやりたい。もう何十年と氷漬けになっているはずの冬菜を、たとえ一度だけでも良い、最後にあの家に帰してあげたい。
暗闇の中で歪んだ希望を凝固させていく心は、次なる敵を見据えようとしていた。もし邪魔をする者がいるなら、たとえあの青い星全てを敵に回しても構わない。冬菜のためなら、もはや次に何が敵になろうと関係なかった。
そして、彼は決意する――――全ては冬菜のために。
彼が紫瞳で見据える最後の敵。それは、人類だった。
「帰ろう、地球に」
口にしてしまえば、何とも呆気ない。その言葉の軽さにおかしさが込み上げて来ると、春季は頬を濡らす涙にも気付かず笑い続けていた。笑って、ひたすらに笑い続けて、空虚な笑い声はいつしか声なき慟哭へと変わっていた。失意と絶望で煮詰められた決意は、彼を望まぬ形での帰途につかせようとしていた。
『必ず、助けるから』
かつて冬菜に告げた決意が、鋭利な刃物と化して春季の心を貫く。その約束さえ裏切ろうとしている自分が、心の底から許せなかった。
数億光年とも知れない旅の果てで、春季は遂に舵を切る。
最後の目的地、地球へと。
――中編『ボクは、ボクに嘘をつく』完――
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