眠る阿呆

山白丸

まえがき

 私はあとがきが好きだ。

 まえがきでいきなりあとがきの話をしだして、「こいつは一体何を言っているんだ?」と思われるかもしれない。だが、聞いてほしい。私はあとがきを読むのが何故か異常に好きなのだ。小説やエッセイ、専門書や漫画に到るまであとがきのある本が好きだ。そういう人は意外といるんじゃないかと思うのだけど、どうなんだろうか。

 私は本を読むのが結構好きだが、飽きっぽい性格のせいか途中で本を読むのをやめてしまうことがある。読み始めた本を途中で投げ出されることほど、作者にとって悲しいことはないんじゃないかと思う。だから、私は作者にとって好ましい読者ではない。

 それでも、私が最後まで本を読めるのはあとがきがある時である。最後まで読めば、あとがきが読めるというモチベーション。

 本を読む際に、私はまずあとがきがあるかを確認する。よし、この本はあとがきがあるぞと思いながら読むと不思議と最後まで読める。

 正直に言ってしまうが、我慢できずに本を読んでいる途中であとがきを読みだしたことさえある。推理小説を結末から読むような蛮行に思えて、妙な背徳感が味わえる。途中であとがきを読んだらモチベーションが消えてしまうように思えるが、それでもあとがきのある本を途中で投げ出したことはない。

 逆にあとがきがあるかどうかも確認せず、夢中になって読み進め、最後まで読み終わった時に、あとがきがないと何か物足りない。失礼な言い方かもしれないが、がっかりしてしまう。

 私が何故そんなにあとがきが好きなのか考えてみた。これには様々な理由がある。

 あとがきというのは、この作品がどのような経緯で書かれたかとか、どのようなことをテーマにしているのかについて書かれていることが多い。それは作者自身による批評であり、分析だと思う。あぁここはそういうことだったんだとか、納得させられることしきりである。作者が作品の一番の理解者なのだから当然なのだが、私が作品に対する批評や評論を読むのが好きなのと、あとがきを読むのが好きなのはどこかで繋がっているように思う。より深く物語を理解できたり、別の何かが他の何かと繋がっていることを理解できること、自分の中にはなかった視点を与えてくれるのが批評を読む醍醐味であり、あとがきの魅力でもあると思う。

 また、作者は一番最初の読者であると言うが、あとがきは作者の文章というよりも、一番最初の読者としての文章のように私は思える。神様のようだった作者が自分と同じ読者の目線で語っているように思えるのだ。これは私の傲慢な思い込みかもしれない。それでも、あとがきを書いている作者に私は親近感を覚えずにはいられないのだ。あぁこの人も自分と同じ人間なんだなと思って安心する。

 私はこれと似たようなことを思って、あとがきを読んで泣いたことが一度だけある。

 それは、中島梓の『コミュニケーション不全症候群』のあとがきを読んだ時だ。

 この本を読み終わって、ここには自分のことが書いてあると思った。そして、あとがきを読み始めたら何故か涙が止まらなくなった。「遠くにいる友へ」と副題のつけられたそのあとがきは、天国という本当に遠くにいってしまった彼女のことを思い出させ、もう栗本薫の小説も中島梓の評論も読めないんだと思って、悲しくなり余計に涙が出た。

 話が逸れてどうでもよくなってきたのでこの辺でやめておこう。

 

 まえがきにおけるあとがきの前置きが長くなったが、要するに私はあとがきが好きなのです。やっぱり文章を書くんだったら自分の好きなものを書こうと思ったわけで、だったらあとがきを書こうと思ったわけです。いやいや、あとがきっていうのは作品を完成させてから書くものであって、あとがきだけではあとがきではない。お前は阿呆かと聞こえてきますが、そう私は眠る阿呆なのです。

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眠る阿呆 山白丸 @sanpaku_gun

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